カーチェイス
スープラのテールランプの消えた場所で車を止めた。
道路は凍っていた。わたしはドアを開けると足を滑らせながら、ガードレールに駆け寄った。
崖のすぐ下に真っ赤に光るテールランプがあった。右側を下にして横転していたが樹木がクッションの役割をしていたし、谷は深くもなかった。
「大丈夫?」
わたしは叫んだが、返事はなかった。
わたしは、足元に気をつけながら、薮の中に入った。アストもすぐに駆けつけた。横転した車によじ登り、助手席のドアを引っぱった。信じられないくらい重かった。そうか、ドアってこんなに重量があるんだ、とその時初めて気がついた。アストと二人がかりでそのドアを持ち上げた。香住が見上げていた。シートにレース用の4点式シートベルトに固定されていた香住を引き出すようにして車から助け出した。
それまで支えていたアストが離したので、ドアは重みで閉まった。
「重たいよ、これ。」
わたしは、滑りやすい崖を登り、香住をカローラバンに乗せた。
それから落ちたスープラに引き返した。男のほうはまだ車から出てこなかった。
わたしとアストは、助手席を開いて中を覗き込んだ。横を向いたドアは、信じられないほど重かった。男は、運転席につかまりながら、必死にはいだそうとしているところだった。
「あなたは今、香住さんを殺すところだったのよ。」
わたしがそういうと、男は動きを止めてこちらを見上げた。
「うるさい。このあたりで死んだ走り屋はいない。」
わたしは、見下ろしながら、
「結果じゃないのよ。女の子はね、大切にしてくれなきゃ駄目なの。」
とだけ言って、ドアの重みに疲れてきた左手を離した。アストは急に重いドアを任されて慌てて手を離した。ドアは音を立てて閉まった。きっと、内側からあのドアを開けるには相当な苦労が必要だろう。横転した車には足掛りが無いのだから。
「奈々。あの男はいいのか?」
アストはわたしを見た。
「いいの。頭冷やしてもらいましょうよ。」
アストは少し肩をすくめてみせた。
わたしがカローラバンに戻ると、香住はおとなしく後部席に座っていた。怪我はないようだった。おそらく、レース用のシートと同じくレース用のシートベルトが良かったのだろう。あの、4点式のベルトはシートに縛り着けられているようなものだからだ。
高速道路に乗って、わたしたちは帰途についた。
夜明け前の高速道路は空いていたが、法定速度で巡航していた。
「香住さん。よければ話してもらえる?」
香住は、うつむいていたが、顔を上げ、わたしの顔を見た。わたしは、前を向いたままだった。
「あの人とは、高校の時に知り合ったんです。けど、ほんの顔見知りっていう感じで。昨日の夜、会社から帰る途中で偶然会って。」
たぶん、偶然では無かったのだろう、あの男にとっては。
「それで、送ってもらうことにしたんです。」
香住は、とぎれとぎれに話した。
「でも、途中で方向が違うことに気がついて。ホテルに行ってしまったんです。」
アストは、聞いていないふりをしていた。だが、聞いていないわけはないだろう。
「わたしは抵抗しました。それで、あの人は部屋を出ていきました。私、服を直して帰ろうとしたんです。でも、部屋を出たところで捕まって。」
おそらく、その間に香住の家に電話したのだ。
「朝まで車の中でした。何処にいるのかも分からずでした。そのうち、寝てしまったんです。あの人も、それ以上は何もしませんでしたし、優しい声で話していました。目が覚めると、サービスエリアでした。あの人はいませんでした。それで、わたしは家に電話したんです。でも、すぐにあの人が戻ってきて。大きな声でどなるんです。わたしは怖くて、逃げ出せなくなってしまったんです。」
香住は、そこまで話すと泣き出した。
アストは納得のいかない顔で運転していた。
「アスト。」
「なんだよ。」
アストは、わたしを見た。
「女ってね、男にはわからないほど、かよわいの。」
「奈々、おまえを見ていると、あんまりわからないんだよな。飲んだくれて、仕事もしないし。奈々は強いってことか?」
わたしは、薄明るくなってきた東の空を見つめていた。
「わたしだって、かよわい、わよ。」
アストは、
「そうかもな。」
とだけ言うとアクセルを踏み込んだ。




