解決方法
ストーカーから逃れる方法、それは徹底的な無視をすることだ、という。
たとえば、突然、その人が日に四十回も電話を掛け始めたとする。あなたはついに耐えられなくなって、四十一回目に電話に出て、掛けてこないで、と言ったとする。それから相手に諦めさせようと思って一度だけ会うことを承諾する。
それは、つまり、しつこくやれば、相手は必ず折れるのだ、と納得するということを学習させたに過ぎないのだ。
ストーカーの妄想は、こちらの言葉を素直に受け取らない。はっきりとノーと言ったつもりでも、相手はそう受け止めない。何をされても、徹底的に無視をすること、それがもっともよい方法だという。
でも、本当にそれだけなのだろうか。頼れる人もいない時、本当にそんなことが出来るのだろうか。
わたしにはわからなかった。
翌朝、わたしは一人で貴文の家に車を走らせながら、そんなことを考えていた。
貴文の家は、相変わらず大きくて、立派に見えた。
別に、一週間も経たないうちに家が建て替わっていたとか、そういうことじゃなくて。
何度見ても、門の前でチャイムを押すのをためらってしまうってこと。圧倒感がある門が、立派な屋敷の前に立ち塞がっているような感じなのだ。
でも、その小さなボタンを眺めていても仕方が無い、と思い直した。
わたしって、気が小さいな、と思った。
気が抜けたような音でチャイムが「ピンポーン」と鳴った。朝の七時。仕事に出るとしても、貴文は家にいるはずの時間だった。そこは利沙から調査済み。
「はい?」
不審そうな声で女性の声がインターホンから流れてきた。それはそうだろう。こんな朝早くから来客なんて。
「あの、杉並探偵事務所の蓮田と申します。以前、お伺いした者です」
そう告げると、相手は露骨に嫌そうな声に変わった。
「ああ、それならもう来ないで、と言ったでしょう。うちとはもう関係ありませんから」
若い女性の声だった。姉とかなのかな。
「そうじゃないんです。貴文さんの命が狙われているんです」
わたしは、そう言ってしまってから、急に自信が無くなった。本当にそうなんだろうか。佐久間は本当に貴文を殺そうとしているんだろうか。自分の推理に自信が持てなかった。
本当に気が小さいな、わたしは。
「はあ?どうしてうちの主人が?」
主人?
「それは、佐久間という人が・・・。とにかく、貴文さんに会わせてください」
説明しても信じてもらえないだろう、と思えた。考えてみれば突拍子もない話だ。急にこんな話を聞かされても誰も信じないだろう。
ただ、実際に一人、殺されているのだ。
「主人は、もう仕事に出かけるんです。放っておいてください」
主人?二度目だ。貴文は再婚しているのだ、と気付いた。結婚していて、利沙のストーカーなのか?
「待って下さい。話だけでも聞いて下さい」
返事は無かった。
その時、門の隣のシャッターが開き、中から白い乗用車が走り出てきた。男が一人、乗っていた。
わたしは舌打ちして、インターホンを離れた。グオーン、とエンジン音を響かせながら大型のセダンは目の前を走り去って行った。わたしはカローラバンのドアを乱暴に開くと急いでエンジンを掛けて追いかけ始めた。
「もう、いい加減にしてよね」
自分のやっていることが、矛盾に満ちあふれているような気がしていた。わたしが、今救おうとしているのはストーカーなのだ。何年も何年も利沙を苦しめてきた男なのだ。
カローラバンはカラカラとエンジンを響かせながら真っ黒な煙とともに加速した。ちょっとだけ、またオーバーヒートしたらどうしようと、と思った。
さっき見た白い大型セダンに追いつくと、そのままアクセルを踏み込んで追い抜いた。ブレーキを踏んで、カローラを横滑りさせる。使い古しのタイヤは、嫌がりもしないで車体を斜めに向けた。
「あぶねえだろう」
どうしよう。怒ってる。ドアを開けて貴文が怒鳴った。初めて見た、その男は、意外にも細めで、華奢な印象を受けた。あの高井っていう探偵の方が、よっぽどストーカーっぽい、と思った。死んだ人に失礼なんだけど。
「わたしは、利沙さんを調べていた探偵です。その件で、お伝えしたいことがあるんです」
「利沙?探偵?」
「そうです」
たぶん、そういう意味の単語二つだったんだろう、と思ったんだけど。
「利沙のやつに頼まれたのか?」
「違います。あなたの命が狙われています」
貴文は、一瞬、ぎくっとしたようだった。
「そんな、馬鹿な。利沙がそんなことするわけないだろう」
「狙っているのは利沙さんじゃありません。彼女なら、もうここにはいません」
嘘だった。この男に余計な情報を与えるつもりはなかった。
「離れた?そんな馬鹿な」
え?そういう反応が返ってくるとは思っていなかった。どうも、わたしの予測って外れることが多いなあ。本当に自信が無くなってきた。
貴文は、続けて言った。
「利沙から、手紙が来たんだ。今日の朝、あの家で待っているって」
「利沙さんから?」
あの家、と言われて、わたしは利沙の両親が暮らしていた家を思い出した。違うわ。貴文は、あの空き家のことを言っている。
「そうだ。あいつの字だった」
「それは、たぶん罠よ」
「あいつにそんな度胸はねえよ」
「そうじゃないの。利沙さんは、いないもの」
貴文は、ふっと体の力を抜いた。
「そうか。じゃあ、行っても仕方ねえな」
わたしも、力が抜けた。ああ、そうか。結局、貴文が行かなければ、佐久間の計画もうまくいかないわけだ。
「ありがとよ」
そう言うと、貴文は車に戻った。わたしは、なんとなく罪悪感を感じ始めていた。止めないほうが良かったような気になっていたのだ。これでは、利沙にとっていいことは一つもない。ストーキングは終わらないし、佐久間はどっちにしろ殺人罪で捕まってしまう。
貴文の車が走り去って、わたしは呆然とそれを見送った。
どうすれば良かったというのだろう。
何も変わっていないじゃない。
良く無い出来事が、良く無いまま終わってしまう。
わたしは、カローラバンのドアにもたれて遠ざかっていく貴文のセダンを見送った。
ため息が出た。今度は佐久間を説得しなくては。警察を呼ぶべきなんだろうか。
あの空き家まで、それほど距離があるわけでもなく、わたしの考えはまとまらないうちにたどり着いてしまった。
その家を見上げ、数日前に、この家の中で死体を見つけたことを思い出した。
おそらく、今は佐久間が貴文が来るのを待っているに違い無い。
たぶん。
でも、最近、わたしの推理だとか勘だとかは、当てにならないからなあ。ちゃんと確かめるべきだった。それに、利沙を連れてきたほうがよかったのかもしれない。佐久間を説得する自信はなかった。
じっと、それを見上げていると、なんだか焦げ臭いのに気がついた。
焦げ臭い?
わたしは、慌てて周りを見回した。近所で、何処かの農家が草でも燃やしているんだろうか?朝から。
煙が見えて、それが、空き家からだと気がついた。
火事。
わたしは、とにかく、そこへ走った。
えっと、どうすればいいのかしら。
なんで、こんなにも駄目なんだろう、わたしは。このところ、睡眠不足なのがいけないんだわ。まだろくに朝食も食べていなくて、頭は最低に低回転だった。
携帯電話を取り出し、119へ電話する。場所は?
住所は覚えていた。もう何度も見たし、何度も言わされた住所だ。
「はい、119です。救急ですか?火事ですか?」
本当に、いつもながら、のんびりした声に意外さを感じる。こっちはこんなに慌てているのに。
「火事です」
「はい。じゃあ、住所は?」
わたしは、記憶の中の住所を伝えた。そうしているうちに、わたしは柵を乗り越え、家の敷地に入った。
電話を切ると、バッグに戻し、それはその場に放り出した。
中に入らなくちゃ。
何故か、とかどうやって、というのは、その時考えなかった。とにかく、中に入らなくちゃいけないんだとしか考えていなかった。
ドアには鍵がかかっていた。
わたしは、大声を出した。
「佐久間さん!」
わたしは、縁側に走り寄った。そこにはサッシが入っていない。
あいかわらず濡れて湿った落ち葉の上を走り抜け、縁側に飛び乗った。ぎしっと艶をなくした板が音を立てた。もう、そこには煙が流れ始めていた。鼻の奥を刺激する有害な煙。
「佐久間さん!」
わたしは、その六帖ほどの和室を横切って、廊下らしきところに出た。そこも煙が充満していた。窓が小さくて光りの入らない構造の屋内はあいかわらず暗い。
何処かで、物が燃える、ぱちぱちという音が聞こえた。
この音は、何処から聞こえてくるんだろう?
耳をすませた。喉が痛い。鼻の奥も痛い。
「佐久間さん!」
二階から、物音がする。煙の流れてくる方へ、わたしは走った。せまい階段をわたしは駆け上がった。どうしてこんなに狭い階段を設計したのだろう。しかも、明り無しでは一段一段の踏み板も見えない。わたしは勘で足を上げて駆け上った。
手前の部屋はふすまが開いていた。ちらっと覗くけれど、誰もいない。以前に来たときのままの利沙の部屋だった。奥の部屋へ走る。廊下には、明り採りの窓が無い。薄暗くて陰気だった。うっすらと白い煙が天井に溜まっているのが見えた。その煙は奥の部屋の襖のすき間から流れ出ていた。火元はあそこに違い無い。
「落ち着いて、落ち着くのよ、奈々」
そう、自分に言い聞かせて深呼吸をしようとして、煙にむせた。ちっとも落ち着いてなんかないわ。ふと、おかしなことに笑い出しそうになる。たぶん、低回転の頭の中で状況を処理できなくなっているのだろう。落ち着いて、そう、落ち着くの。
襖の前で、わたしはその布張りの板に手の甲を当てた。急に開いてフラッシュバックなんてことになったら、大惨事だ。いいわ、少しは考えられるようになった。
大丈夫、熱くない。
でも、不安だった。身を引いて、炎が拭き出しても体に当たらないようにしながら、少しだけ開いた。
部屋の中は煙で一杯だった。その部屋の真ん中で、人が倒れているのが霧の向こうに見て取れた。
「佐久間さん」
わたしは声をかけたが、ぴくりともしなかった。這うようにして、煙の少ないところを探し、そのそばへと近づいた。窓のそばに雑誌が積まれ、そこから火が立ち上っていた。カーテンに燃え移っていて、もう少しで天井に広がりそうだった。
這った姿勢のまま、その腕をつかみ、ひっぱった。力の抜けてしまった人間の体は、思ったよりも重い。
佐久間の頬を叩いた。
このまま引きずっていくのは出来そうにも無い。
「佐久間さん、起きて」
何度か叩くと、佐久間は目を開けた。
「誰?」
つぶやくような声で佐久間が言った。
「わたしです。杉並大の蓮田です」
「蓮田さん?」
不思議そうな顔で佐久間は言った。
「どうしてあなたがここにいるの?」
わたしは、佐久間の腕をひっぱって立ち上がらせようとした。
「早く、急いでここを出ましょう」
佐久間は、抵抗するように頭を振り、手を振りほどいた。
「わたしは、ここにいるわ。あなた、行きなさい」
「何を言っているの?」
わたしは、思わず大きな声を上げた。もう一度腕を掴もうとする。佐久間はそれを払いのけた。
「わたしは、ここで死ぬの。わたしは利沙なの。佐久間じゃないわ」
「何を言っているのよ」
わたしは、パニックになりそうなのを必死に堪えた。わたしの後ろでは、カーテンが燃え尽きようとしていた。天井に火が回るのも時間の問題だった。
「蓮田さん。もうすぐ、あの箱に火がつくわ。そうなれば全ておしまいよ。その前に早く逃げて」
わたしは、驚いて振り返った。段ボール箱がカーテンの下に置かれていた。
「何が入っているの?」
わたしは叫ぶように言った。
「石油」
なんで、そんなものを。
「蓮田さん、お願い。わたしのことは放っておいて。ここでわたしが死ねば、きっとみんな利沙が自殺したんだって思うわ。そうすれば、もう利沙はストーカーに追われることもないのよ」
わたしは、あっと思った。佐久間は、貴文を殺そうとしたのでは無いのだ。貴文に利沙が死んだと思わせたかったのだ。
「駄目よ。歯形で身元は分かるのよ」
わたしは、思わずそう言った。
佐久間は、優しい顔で微笑んだ。本当に、優しい顔だった。
「大丈夫。私達、二人とも歯医者にかかったこと、無いの」
わたしは、思わず佐久間の顔を覗き込んだ。
「それに、そんなに詳しくは調べないわ。利沙は、佐久間佑子として生きていくって言ってくれたし。行方不明になったのは、利沙って、みんな思っているわ」
そんな。そんなこと、利沙は一言だって言っていなかった。
「駄目。駄目よ。わたしが証言するんだから。死んじゃ駄目」
わたしは叫んだ。佐久間は朦朧とした意識の中で顔を曇らせた。
「お願い、蓮田さん。このまま誰にも言わないで」
哀願するような目だった。
「わたしは、間違って違う人を殺してしまったの。どうせ捕まって死刑になるの。同じことだわ。せめてこのまま死なせてよ」
わたしは、頭がぼうっとなってきた。煙で視界が減ってきて、辺りも良く見えなくなった。
「佐久間さん。あなた病気なのよ。罪はきっと問われないわ。薬の飲み過ぎで意識が混濁していたのよ。わたしがそう言ってあげる。いいからここから出ましょう」
わたしは、佐久間の肩に手をかけて、優しくそう言ったつもりだった。
佐久間は首を振った。動こうとはしなかった。煙が満ちて、その顔もはっきり見えなくなった。わたしは、咳込んだ。とにかく、佐久間の肩をつかみ、そのまま引きずろうと思った。彼女は激しく抵抗したが、煙と、おそらく睡眠薬か何かのせいだろう。意外にあっさりと引きずられるままになった。
佐久間が睡眠薬か何かを飲んでいたとしても不思議ではない。ひょっとしたらありったけ飲んでいるのかもしれない。煙りにまかれて死ななくても、過剰摂取で死んでしまうかもしれない。
そのまま、部屋の外にまで引っぱり出した。自分でも、そんな力が出せたことが意外なほどだった。
文字通り、火事場のなんとかね。
部屋の外に出ると、少し空気がましになった。わたしは大きく息をすると、佐久間を引きずって階段までたどり着いた。もう、佐久間はぐったりとして動く気配は無かった。
階段を下ろすにはどうしたらいいんだろう。
抱き上げるには、わたしの力では無理かもしれない。背負い投げの要領で、佐久間の腕を自分の肩に回し、ぐっと力を入れた。
背負って階段を降りるのも辛い作業かも。
それでも、なんとか持ち上げると、わたしは一歩踏み出した。一段、階段を降りる。
その時、佐久間は急にわたしの背中で暴れた。
「やめて」
わたしは叫んでいた。それから、体が宙に浮き、わたしは手を離してしまった。そのまま、わたしは階段の下まで転げ落ちた。
体中がばらばらになったような気がした。
それが腕なのか、足なのか。背中なのか胸なのか、よくわからないほどあちこちが痛かった。ただ、階段の下で、倒れていた。気付いたときには倒れていたのだ。
わたしは、腕に力を込めて、体を起こそうとした。左の眉の辺りが生暖かい。血が流れてきて、左目は良く見えなくなった。眉毛の上あたりが切れていた。
それでも、なんとか体を回し、階段の上を見上げると、佐久間が立っていた。
突き落とされたわけね。
「佐久間さん」
わたしは、そう叫んだ。
佐久間は、わたしに微笑みかけると、くるっと回り、それから元の部屋の方へ走って行った。
「駄目よ」
そう言いながら、わたしは体を起こし、階段を上がろうと手を掛けた。
その時、大きな曝発音が鳴り響いた。
石油缶。階段の上に炎が吹き出し、見上げていたわたしの上に、なにやら細かい破片が振ってきた。
わたしは、慌てて手を上げて、それを払いのけた。
再び、上を見上げると、そこは炎に包まれていた。




