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杉並大学探偵事務所  作者: カダシュート
追憶は陽炎のように
39/92

みたび長野へ

 わたしは、カローラバンを引っぱり出すことをアストに主張した。

「長野にいるのよ。佐久間は長野にいるの」

 少なくても、一昨日はそうだった。アストは、困った顔で、そのポンコツを見下ろしていた。サークル棟の裏にある駐車場だった。

「だけど、修理したっていっても、まだテストもしてないんだ」

「でも直したんでしょう?」

「まあ、その、開いた穴をパテで埋めただけで・・・」

 わたしはため息をついた。

「とにかく、すぐにでも佐久間さんを見つけなきゃ。利沙さんとわたしは長野に行かなくちゃいけないの。バイクに二人乗りしていくわけにはいけないでしょう?」

「そりゃあそうだけど」

「大丈夫よ。この間と同じように水を足せばいいんでしょう?オーバーヒートしないうちに」

「そうなんだけどさ、理屈では」

「じゃあ、これを使うわ。他に車はないんだし。佐久間は、もう間違った人間を殺してしまったことを知っている」

 佐久間は、ずっとわたし達を監視していたのだ。そう、わたしが最初に会った、あのファミレスでも佐久間はわたしを観察していた。彼女は人を信じない人間だ。それは病的と言ってもいいくらい。そして、彼女の目的は、最初から利沙のストーカーを探し出すことだった。探し出して殺すこと。

「間違った人を殺してしまって、彼女は自暴自棄になってしまっている。きっと貴文を殺そうとするわ。そうでなければ、自殺してしまうかもしれない。いずれにしても、早く見つけ出さなくちゃ」

 アストはため息をついた。

「オレも行ければいいんだがな」

 わたしは首を振った。

「アストは、こっちで部屋を見張って。田辺くん達じゃ、何かあった時に頼りないもの」

「そうだな。気をつけろよ」

「うん。わかってる。エンジンの水温計を注意していればいいのよね」

 アストは、再び、ため息をついた。

「そうじゃなくて、だな」

「わかってるわ」


 インターチェンジから高速に乗ったときには、日は暮れていた。助手席で、利沙は不安そうな顔のまま、じっと窓の外を見つめていた。

「利沙さん」

 そう、声をかけると、彼女は振り向いた。

「なに?」

 うつろな目で、わたしを見ていた。

「あの、ラジオでもつける?」

 わたしは、言うべき言葉がみつかなくてどうでもいいことを言った。利沙は、あの悲しそうな微笑みをすると首を振った。わたしは、そっと目をそらし暗い道路に視線を戻した。ハロゲンライトの白い光りがアスファルトを照らしだし、それは高速で後方に流れていく。真っ暗な景色は、ただ闇の存在を教えてくれるだけ。

 手紙で佐久間が利沙に伝えた内容は、すぐに間違いだったということが佐久間にもわかった。わたしが死体を見つけるまえに気が付いたのだろう。そもそも、彼女は長野でわたしを尾行していた。わたしに平松貴文と名乗って現われた男に声をかけた。わたしが姿を消してすぐのことだった。佐久間はその男を貴文だと確信し、あの空き家で殺した。そうすることが、利沙にとって一番だと確信して。

 利沙が言うには、三日前に電話がかかってきたのを最後に連絡がとれなくなっている。佐久間はその電話で、間違った人間を殺してしまった、と利沙に謝った。佐久間は、人を殺してしまったことを悔いているというよりも、失敗して貴文が生きているということを利沙に謝っていたそうだ。

「ねえ、利沙さん」

 わたしは再び声をかけた。利沙は振り向いた。

「どうして佐久間さんが、うちに調査を依頼していたって知っているの」

「それは・・・」

 利沙は、言いにくそうにした。しばらく沈黙が流れた。

「それは、わたしが佑子の部屋を、つまりもとはわたしの部屋だったのだけど、そこへ行って、彼女の行方を知る手がかりを探したからなの」

「そこで、うちへの依頼をしたことを知ったの」

「そう」

「佐久間さんは、貴文を殺そうとしている、そう思う?」

 利沙は、すうっと息を吸った。

「わからない。でも、その可能性はあると思う」

「どうして」

「彼女、やりはじめたことはやり通すタイプなの。もちろん、わたしは止めたわ。もうこれ以上、わたしのために殺人なんて」

 そう言うと、利沙は黙った。

「利沙さん。ちょっと聞くけれど、佐久間さんは精神科に通っていたのかしら」

「え?」

 驚いた声で、利沙は聞き返した。

「佐久間さんのロッカーを調べたの。デパートの、よ。レシートが出てきたわ。その一つにアタラックスPというのがあったわ。市販の精神安定薬なの。神経症における不安、緊張、焦燥を和らげる効果があるらしいわね。インターネットで今日の午後にちょっとだけど調べたのよ。きちんと通院していたのか、それとも気紛れだったのかな、と思って」

 利沙はため息をついた。

「通っていたわ。もう何年も行っているって話してくれたことがあった。でも、彼女は異常な人じゃないわ。人よりも少し、感情移入が激しいだけなの。落ち込んだりすることがよくあるのも、そのせいなの。人の悲しみが自分のことのように感じられるの。とても痛いほど、と言っていた」

 わたしは、交通量の減ってきた高速道路を見つめたまま言った。

「病名はわかる?」

「病名?」

 利沙は、問い返した。

「いいえ、蓮田さん。彼女は正常よ」

 わたしは、首を振った。

「そうかもしれない。でも、精神科に通っていた以上、なんらかの病名があったはず。それが病気だということを意味するかどうかは別にしても」

「意味がわからないわ」

「精神科では、DSMという診断マニュアルがあるの。はっきり言うと、誰でも病名がつけられるほどたくさんの診断マニュアルが載っている本だけど、それに沿って判断すれば、いくつかの病名がついていたはずなの」

 利沙は、首を振った。

「わからないわ。聞いたことがあったかもしれないけれど、覚えてない。難しい名前だもの」

 再び、沈黙が流れる。

「利沙さん。佐久間さんがもらっていたのは、どんな薬?」

「わからないわ。たくさんもらっていたみたい。途中で変わっていたみたいだし、通う医者も変えていたみたい。統合失調症だと言われたから、とかいって」

「え?」

 聞き返したわたしに、彼女も「え?」と聞き返した。

「統合失調症、と彼女が言ったの?」

「え?ああ、そう。そうね、言われるまで気が付かなかった。でも、それはいくつかある病名のうちの一つよ。いい加減なんだから、精神科なんて」

「そうね」

「佑子は、何種類かの薬を飲んでいたわ。わたし、何度か睡眠薬をわけてもらったことがあるの。ハルシオン。でも、最近はあまり行ってないみたいだった。もう、大丈夫だから、やめることにしたって」

「そう」

 わたしは頷いた。

「利沙さん。精神病治療薬には副作用があるのよ。あんまり、薬をもらって飲んだりしないほうがいいわ」

「知っているわ。でも、どうしても眠れない日があって。でも、一度か二度よ」

「ええ。それに、今、思い出したのだけど一般的な副作用以外にも、悪い影響があることがあるわ」

「悪い影響?」

「そう。利沙さんみたいに、何度か飲んだぐらいで起きることはあまりないのだけど、ある程度長期に渡って薬を飲んでいた場合に」

「物知りね」

 利沙は、少しだけあきれた様な声で言った。

「ううん、違うの。大学がね、心理学関係で。だから、少しその方面の本を読んでいるだけなの」

「心理学。なるほどね」

「いえ、違うの。臨床はしないわ。興味があったから読んだだけ」

「そう。わたしは医者になりたかった」

「ええ。知っているわ。利沙さん」

「そうだったわ。わたしは調査されていたんだったわね」

「ごめんなさい」

「いいの。それよりも、悪い影響ってなに?」

「え?」

「だから、薬の」

「ああ」

 わたしは、ちらっとバックミラーに視線を移動した。前にも後ろにも自動車のライトは無くなっていた。カローラバンの時計は夜の十時を指していた。

「薬をね、急に辞めてしまうと不安感に襲われたり、認識が混乱したりするの」

「そうなの?でも、それって、もともとおかしい人が飲んでいたからじゃないの?」

 わたしは首を振った。

「違う、と思うわ。精神科の薬って発売された時点では、あまり副作用がわかっていないものなのよ」

「え?」

「もちろん、長い時間と予算をかけてテストするんでしょうけど。一番有名なのはサリドマイドね」

「サリドマイド?聞いたことある気がする」

「ええ。妊娠中に飲んだ場合に奇形児を出産することが多かった薬」

「あ、それは聞いたことある。薬害の裁判、だっけ。でも、精神病の薬なの?」

「催眠薬として使われたみたいね。妊婦でも悪影響がないと宣伝されたわ」

「嘘。まさか」

「本当よ」

「同時期のバルビツール剤には麻薬のモルヒネよりも依存性がある、と言われているし」

「モルヒネ?」

「利沙さんが飲んだハルシオンはね、イギリスでは使用が禁止されている薬なのよ」

「そんな、まさか。どうして?」

「使用の中止後にね、自殺の強い衝動に駆られたり、殺人衝動が起きる場合があったの」

「そんな馬鹿な」

「これは仮定だけど、佐久間さんは急に薬を飲まなくなったんじゃないかしら。ひょっとしたら、そのせいで意識が混濁して・・・」

「頭が痛くなってきたわ。もっとわかりやすい言葉で話して」

 利沙はこめかみに指を押し当てて言った。

「つまり、佐久間さんは精神科の薬を医者の言うことを聞かずに急に辞めてしまったからこれまでの症状よりもひどい症状が出て、それで混乱しているのかも。混乱した状態で思い込んで間違った人を殺してしまったんじゃないかしら」

「そんなはずないわ。いくらなんでも、それは言い過ぎだと思うわ」

「飛躍しすぎている?でも、そういう例はないわけではないわ。佐久間さんが飲んでいたかはわからないけれど、ジョン・ヒコリーは抗不安薬の一種を飲んだ影響のせいでレーガン大統領を撃ったと言われているし。ただ立証するのは難しいでしょうけど。そもそも、薬の副作用として認められているわけではないし」

「そんなこと・・・」

 利沙は言いかけて、口を閉じた。じっと正面を向いたままだった。あの、悲しい表情は消えていた。何かをじっと考えているように見えた。わたしは黙っていたけれど、彼女が何を考えているのかはわからなかった。

 利沙に話す話題では無かったような気がしていた。こんな話をしても、彼女を余計に混乱させてしまうだけだったのかもしれない。でも、そういうことがあるのは事実だ。ただ立証することはとても難しい。だから、それは公的に認められた副作用ではない。それはつまり、薬を飲む人に説明される種類のことではない。知らなくて、薬を急に辞めてしまう人も少なくはない。薬は薬なのだ。副作用はどんな形で現われるかわからない。医者の言うことを適当に受け流してしまうとひどい結果になる、そういうことが起きるかもしれないものなのだ。

「とにかく、いくらなんでも間違った人を殺してしまうなんて異常だわ。薬の影響なのか、そうでないのかはわからないけれど、今の佐久間さんは混乱していることだけは確かなの」

「ええ、それはわかるわ」

 利沙は、無表情なまま答えた。長野、という標識が暗い高速道路に浮かび上がった。

「もうすぐね」

 そう、わたしが言うと利沙は、こちらに振り返った。

「佑子は何処にいると思う?」

 わたしは、ちらっと計器板を見た。水温はノーマルを指していた。エンジンも好調に回っていた。

「わからないわ。とにかく、利沙さんの実家の空き家と平松貴文の家を見てみましょう」

 利沙は、少しだけ考えるような素振りをした。

「あの男の家には近寄りたくないわ」

 そう言うと、視線を落とした。

「外から見るだけよ。どうしても、と言うなら何処かで待っていて。わたしが見てくるから」

 そっと、利沙は息を吐いた。

「いいえ。わかったわ。一緒にいる」

「無理しなくてもいいのよ」

「ううん。佑子を説得しなくちゃ。説得できるのはわたしだけ、そんな気がするの」


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