一章(1)採掘師と詠い手
一章
剥き出しのごつごつした岩が目立つ山肌を、冷たい風が駆けてゆく。灰色の岩の隙間を奪い合うようにして生える松や杉が、細い葉を震わせてざわめいた。山頂近くはうっすらと靄に包まれて、その上にある白い雪化粧はほとんど一年中消えない。
険しく厳しいアァルザンクの山々、そのひとつの中腹にぽかりと黒い穴が空いている。古い坑道の跡だ。
いつ、誰が、どうやって掘ったものかは、既にわからない。大人でも立ったまま歩ける広さがあり、要所を石や木材で補強し、通気と採光の孔もある。今、山に住んでいる人々の技術で出来ることではない。何を採掘していたにせよ、あらかた採り尽くされた後であるのは明らかだった。
打ち捨てられた薄暗い坑道――その奥で、一人の若い女が壁に向き合っていた。名前はヴィサ。黒髪を肩の辺りで雑に切り、毛織りの衣服も帯紐もごく地味で、飾り気は一切ない。女らしい華やぎを敢えて排した装いだ。
一見して何もなさそうな岩肌に手を這わせ、ひび割れに小さな楔を打ち込んで、鑿と槌でコツコツと慎重に崩してゆく。足元に小さな松明を置いてはいるが、実際のところ彼女は、目に見えるものに頼ってはいなかった。むしろしばしば目を閉じて、何かに耳を澄ませるようにじっと動きを止めている。誰かと歌い交わすかのように、口の中でいくつかの音を紡ぎながら。
槌の一打ちと共に、石の塊が割れて落ちる。ヴィサはそれを松明の明かりに近付けて眺め、ほっとひとつ息をついた。灰色の石の中に、彼女の瞳と同じ、濃い藍色の結晶が埋もれている。
「――」
無意識のように、小さく音を口ずさむ。石が応えるのがヴィサには聞こえていた。誰にも話したことのない秘密だ。
石を掘り始めて七年ほどになるが、師に連れられて坑道に入った時から、ヴィサは『石の声』を感じ取っていた。耳で聞くはっきりした音ではない。ただ感じるのだ。
求める色の石がどこにあるか、見付け方を教わるまでもなく『勘』で当てるヴィサに、師は驚いて、
「もうあたしの後は誰もここで石を掘りやしないだろうと思っていたけど、意外な跡継ぎが来たもんだねぇ」
そう言ったものだった。
師が節々の痛みに負けて坑道に入るのをやめた後、ヴィサは一人で掘り続けていた。アァルザンクは生きるに厳しい土地だ。ほとんどの者は家畜と畑の世話に忙しく、採掘に興味を示さない。第一、ヴィサと同じ『勘』が働く者でもなければ、この廃坑で価値ある石を見付けるのは至難の業だ。
ヴィサは石の塊を革袋に入れると、中を一瞥して成果を確かめ、今日はこのぐらいで切り上げようと松明を拾い上げた。
立ち去る前にふと振り返り、さらに奥へと続く坑道の暗がりを見つめる。
(なんだろう。やっぱり何かある)
『石の声』とも異なる、不可思議な気配がする。遠くで誰かが呼んでいるような。気付いたのは一年ほど前だったろうか。
正体を確かめたい気持ちもなくはないが、師も把握していない最奥まで進むほど、ヴィサは向こう見ずではなかった。坑道には分岐も多いし、崩落して危険な所もある。今日もやはり、首を傾げてしばし耳を澄ませた後、踵を返して出口へと歩きだした。
外に出ると眩しい青空が広がっていた。陽射しには春の温もりがあるが、吹き付ける風はまだ冷たく湿っている。ヴィサは首を竦め、足早に家路を急いだ。
土壌の乏しい岩だらけの斜面をしばらく行くと、やがて崖に大小いくつもの穴が空いているのが見えてくる。これもまた、坑道と同じくかつての住人が残した遺構だ。今はオセア族の村になっている。はるか昔に北方から下ってきたと伝えられるオセア族は、苦労して樹木を伐って小屋を建てる必要のない岩屋に、喜んで住み着いたのだ。
今、人々は明るい戸外で生活を営んでいた。数人で集まって腰を下ろし、おしゃべりしながら糸を紡ぐ女達。その傍らで手臼を使って麦を挽く少女。石を割り、磨いて、弓矢や槍の穂先を作る男もいる。オセア族は昔から、低地の都市同士の争いに雇われ兵士として加わってきたからだ。ここしばらくはその需要がないものの、いつでも出稼ぎに行けるよう備えは怠らない。それに、近隣のエテウ族とは友好と敵対を繰り返してきた間柄だ。今は平穏とて油断はできない。
ヴィサはやや緊張しながら、男達から離れた場所を通った。見慣れた日常、安全な風景のはずだが、ヴィサの身体はそれとは関係なく勝手に強張るのだ。住まいの戸口が見えてふっと気を抜きかけたところで、
「ヴィサ! ちょうど良かった、待ってくれ」
張りのある若者の声に呼び止められてしまった。仕方なく立ち止まって振り向くと、黒髪の若者が大きな鞄を背に、軽やかな足取りでこちらへやって来るところだった。
ラジュ、と確かめるように相手の名をつぶやく。それが聞こえたのか、若者は二歩ほどの間を空けて止まると、笑みを広げて「やあ」と答えた。
「あの腕輪、いい取引ができたよ。ニンダが随分と気に入って、高く買ってくれた。低地の町にも細工師は大勢いるけど、ヴィサのは特別だってさ」
「そう」
ヴィサは愛想なくぼそりと相槌を打つ。ラジュは気にせず、岩屋のほうを振り仰いでから続ける。
「頼まれていた通り、麻布はアロに届けておいた。良かったかい?」
「うん」
「あと、これ……」
言いつつ鞄から小さな包みを取り出し、いいかな、と目顔で許可を求めてから、一歩近付いて手渡す。そんな風に慮ってくれる男は、今のところラジュだけだ。族長の息子なのだが、次男だからか生来の気質か、父親の権威を笠に着た押しの強さなどまったくない。むしろ村の一人一人がどういう人間で何を求めているのか、常に目配りしているようなところがあり、ヴィサについても事情を知ってから何かと気遣ってくれている。
ヴィサはありがたく思いながらも、やはり喉が詰まるような緊張をおぼえて、革布の包みを受け取るとさっと手を引いた。開いてみると、新しい鑿があった。細工に使う錐の先端部も一本。思わず口元がほころんだ。
「腕輪が思ったより高く売れたからさ。そろそろ新しいのが要るって言ってたろ」
「うん。ありがと」
ヴィサは礼を言い、品物を包んでいた革布を返すと、すぐに立ち去ろうとする。ラジュが苦笑をこぼした。
「どうせ麓に下りるついでだから、礼には及ばないよ。でもさ、ヴィサ、おまえの細工物が高く売れるのは確かだけど、ひとつぐらい自分で身に着けてもいいんじゃないか? もったいない」
もったいない。その対象が美しい腕輪や首飾りではなく、それらで飾れば魅力的になるだろうヴィサ自身を指すのだと、声音から伝わる。それだけでヴィサの背筋に悪寒が走った。
もったいない。せっかくの若い女が。そう言われた気がして身震いする。
彼女が緊張したのを察し、ラジュが気まずい顔になる。ヴィサは相手に悪気はないのだと自分に言い聞かせ、小さく首を振った。
「いいの。あたしは興味ないから」
「そうか」
ラジュは食い下がらず淡泊に応じて、それじゃ、と背を向ける。ヴィサはもう一度「ありがと」と礼を言ってから、自分の住まいへ向かった。
古びた木扉を開けて戸口をくぐると、我知らずほうっと深い息をついた。
生まれ育ったエテウ族の村を逃げ出してここに来て、もう十年になるのに、いつまで経っても安心できない。いつか平気で、のびのびと皆の間を歩ける日が来るのだろうか。一生これが続くのだとしたら耐えがたい。
暗い考えを払うように首を振り、履物を脱いで絨毯に上がると作業台に向かう。窓に向かい合って床に座ればちょうど良い高さに、板状の出っ張りが造りつけられているのだ。革袋の中身を台に空けて腰を下ろし、ヴィサはふと、この岩屋を造った人々に思いを馳せた。
おそらく岩山に天然の洞窟があったところを利用して、数百の家族が住み暮らせるだけの部屋を造ったのだろう。広さや形はまちまちだが、どの部屋にも様々な出っ張りや窪みがあり、寝台や食卓や作業台として使っていたと推測される。必ず小さな炉があるのは、山の厳しい冬に対応するためだろう。部屋によっては竈もある。
これだけの住まいを造るのに、どれほどの時間と労力がかかったのか、考えると気が遠くなりそうだ。それとも、あの廃坑に見るように、そのぐらいはたやすい仕事だったのだろうか。
(もしかしたら、あたし達とは違う人間だったのかもしれない。翼があったり、角が生えていたりとか……それか、見た目は同じでもすごい怪力だったとか。とにかく、きっとすごい人達だったのは間違いない)
そんな風に、今現在の自分からは遠く離れた人々や事柄をあれこれ想像するのは、ヴィサの心に平穏をもたらしてくれた。『石の声』を感じ取れるようになるまでは、唯一の拠り所だったと言ってもいい。親に怒鳴られ殴られる時、兄弟にいたぶられる時、いつもヴィサは「ここではないどこか」へ心を逃がしていた。
ヴィサはしばし空想に耽ってから、気を取り直して石に向き合った。
コツコツと鑿で藍色の鉱石を削り出して、粗く形を整えたら、磨き砂で丸くなるまで擦る。それから弓錐で穴を開けて糸を通す……一粒一粒、根気の要る作業。だがヴィサは苦にならなかった。無心で手を動かしていると、いつしか心は『石の声』で満たされ、自然と歌を口ずさんでいる。ヴィサの声に石が応え、その色がより深く輝くように思われてくる。実際に高値で売れるという価値を別としても、やりがいのある仕事だった。
すっかり作業に没頭していたヴィサは、ふと気配を感じて手を止め戸口を振り返った。同時に扉が軽く叩かれて開き、
「ヴィサ、いる? 食事を持ってきたわよ」
柔らかい声で言いながら、木皿を手にした女が入ってきた。母親というには若く、だが姉と言うには年上の女。ヴィサよりは装いに華やかさがあるが、村の女としては普通の部類で、装飾品といえば磨いた木の実の素朴な首飾りと、色紐で編んだ腕輪のみ。緩く波打つ金茶色の髪も簡単に束ねただけだ。ヴィサは立ち上がり、笑顔で相手を迎えた。
「ありがと、アロ。いつもごめんね」
「気にしないで。いつも言ってるけど、外に出られる口実なんだから」
「だけど、呼んでくれたらパン焼きぐらい手伝えるのに」
ヴィサは皿を受け取って、アロと一緒に部屋の中央に敷いた絨毯に腰を下ろした。
「そうね、今度は手伝ってもらおうかしら。あなたに生地を丸めてもらって、わたしが伸して焼くと良いかもね」
アロは屈託なく応じて、毎度おなじみになったやりとりを繰り返す。冷めないうちにどうぞ、と勧めた食事は、豆と野菜の煮物を平パンで包んだ、これまたいつもと同じもの。
いただきます、とヴィサは手を合わせてからパンを取って頬張る。まだ温かい。このパンは、麦粉を練って小分けにして丸めたものを麺棒で薄く伸し、焚き火に伏せた鍋の底に貼り付けて焼いたものだ。ヴィサは飽きもせずありがたく味わい、口元を拭った。
「やっぱり鍋のはいいよね。石板で焼いたのは灰が被ってるからさ」
「そうよねぇ。わたしなんて火熾しができるだけなのに、『詠い手』だからって鍋を貰ってしまって」
アロは申し訳なさそうに言う。銅の鍋は貴重品だ。オセアの村で持っているのは族長のほかに数家族のみ。アロの夫は畑と家畜をいくらか所有しているだけで、村の重要な役割を担ってもいない。しかし、アロ自身が『詠い手』と呼ばれる不思議な力を持っているから、特別に融通されたのである。
「引け目を感じることないよ。実際、アロを呼んで火を熾してもらうより、アロん家に行って鍋と火をいっぺんに借りられるほうが便利だってことなんだし」
ヴィサはそう言ってから、最後の一口を頬張った。せっかく取りなしても、当のアロの表情は晴れない。ヴィサはやれやれと肩を竦めた。
「あのさ。本当に、そういうのやめなよ。わたしなんかが、みたいな考え方。オセアにたった一人の『詠い手』なんだから、もっと自信持っていいんだよ。火熾しだけって言うけど、充分すごいことじゃんか。雨で火口が湿気ったり、寒くて手が動かなかったり、外に出かけて何の道具も持ってなかったり……どんな時でも、アロが一言詠えば火をつけられるんだからさ」
「それは、そうなんだけど」
「けど、は無し! 第一、『詠い手』ってこと抜きにしても、アロはあたしの恩人なんだからさ。……十年前に、あたしを追い返さず家族に迎えるって決めてくれたの、本当に感謝してる。あの時のアロ、すごく頼もしかった」
ヴィサは笑みを浮かべて礼を言った。
十年前、近隣部族が合同で催す夏至祭からオセアに帰る一行に紛れ、ヴィサはエテウを逃げ出した。勝手に村までついてきた少女に対し、当時アロの夫ヴァスは当然ながら、あからさまに迷惑だという態度を取ったのだ。それをアロが押し切った。こんなに必死な顔をしているのはよほどのことだ、と言って。
思い返してアロも懐かしそうに微笑んだ。
「我ながら、よく言えたな、って今も不思議よ。きっと、あなたが力をくれたのね」
「またまた。アロはちゃんと自力で強いんだってば」
ヴィサは言って、アロの腕をぽんと叩いて励ました。そのわずかな触れ合いに、胸の奥がざわめく。不穏なものではなく、ただ何かがそっとささやくような気配。そよ風に木の葉が揺れるような。
そんな感覚が生じるようになったのは、いつからだろうか。十年前に出会ったばかりの頃は、何もなかった。数年間アロの家族と一緒に暮らさせてもらっている間に、少しずつ変わってきたように思う。『石の声』が聞こえるようになったのも同じ頃だ。
「……あのさ。今さらだけど、訊いてもいい? 『詠い手』ってどういう感じなのかな。火を熾すのは何回もそばで見たけど、本当に不思議で。どうやってるの?」
改めての問いかけを受け、アロはふっと表情を変えた。どこか遠くを見るようなまなざしで、無意識の仕草で胸元に手を置く。
「言葉で説明するのは難しいわね。……自分の中に、深い穴みたいなものを感じるの。穴って言っても、暗いとか怖いとかじゃなくてね、穏やかで明るくて、花畑みたいに色とりどりに光っているんだけど……そんな穴が、ずうっと深いところに繋がっている感じ。わたしの母さんも『詠い手』だったから、それが『路』だ、って教えてくれたわ。火を熾したい時は、そこに言葉を響かせながら声に出すの。空ゆく太陽、っていうあのおまじないをね。そうしたら、穴の向こうから不思議な力が溢れてきて、それが薪の上で火になるのよ」
「ふぅん……なんとなく想像できるような気はするけど。実際、おまじないを唱えてる時の声、普段のと違うもんね。それって、いつから出来るようになったの? お母さんから教わったんだよね?」
「胸の奥に何かある、っていう感じは、物心ついた頃にはもうあったかしらね。皆そういうものだと思ってたから、不思議とか特別とかは、全然気にしてなかった。母さんのそばにいると特に、なんて言うか……響き合う、みたいな感じになったわ。それで母さんがわたしも『詠い手』だって気が付いて、おまじないの言葉を教えてくれたの。十歳ぐらいの頃だったかしら」
「へえ……」
相槌を打ちながら、ヴィサは自分の胸の奥を意識した。そこでざわめく感覚が相手にも『響き合』ってしまうのではないかと恐れ、心に石の蓋をする。
これが『路』なのか、もしや自分も『詠い手』なのだろうか――そんな考えもろとも、誰にも見えないように埋めてしまいたかった。
(そんなのじゃない)
アロだけが『詠い手』であれば良い。その地位を奪うのは許されない。まだ十四歳の、一人で身を立てるすべを持たない、傷つき怯えた少女だったヴィサを保護してくれた恩人だ。
それに、アロのそばにいると心地良い。気持ちがほっとして安らぐし、なんとなく世界が少し明るく見える。それは二人の間に通う信頼と親愛の証なのであって……得体の知れない『路』だとか、そういうもののせいではない。ないはずだ。
(あたしがアロを大事に思う気持ちだ。ほかのものであるもんか)
だからヴィサは、今日も口に出さなかった。こうして二人でいると不思議な感覚がすることも、それは『石の声』が聞こえるのに似ていることも。
そのまま、一生秘密にしているつもりだったのだ。




