「パパとママは、まだ呼べない」
オーレリアン公爵家の一室で、
ミレアは淡い桃色の寝具に包まれ、眠っていた。
窓はカーテンで閉めきられているが、
その隙間から朝の陽光が差し込んでいる。
こん、こん。
薄暗い室内に、
控えめなノックの音が響いた。
返事はない。
がちゃ。
ゆっくりと扉が開き、
メイド服を着た若い女性が入ってくる。
メイドは、
まっすぐミレアのもとへ向かい、様子を確かめる。
愛らしい寝顔に、
彼女は頬を緩ませた。
カーテンをそっと半分だけ開け、
ミレアを驚かさないよう、小さな声で話しかけた。
「ミレアさま。おはようございます」
反応するように、
ミレアの瞼は少しずつ開いていく。
最初に目にしたのは、
知らない天井と、メイド服を着た女性。
「ミレアさま、おはようございます!」
一瞬の間。
ミレアの顔は、恐怖に歪んだ。
知らない女性が自分の名前を呼び、
あまつさえ笑いかけている。
養母と暮らしていた家と、正反対の環境。
ミレアの手足が震え、
視界はぐにゃりと歪んでいく。
「おかあしゃま」
無意識だった。
口に出し、
ミレアはようやく思い出した。
……おかあしゃま、おいていった。
ミレア、いいこじゃないから?
「うぅ……うわぁぁん!」
涙がとめどなく溢れ、
どんなに泣き叫んでも、胸が苦しくて仕方なかった。
「お嬢さま、どうしました。
どこか痛いんですか」
メイドは心配そうに尋ねるが、
ミレアは泣くばかりで、返事はない。
「ミレア!」
勢いよく扉が開き、
現れたのはオーレリアン夫妻。
「旦那さま、奥さま。
お嬢さまが目覚めてから、すぐに泣き出されてしまい……」
「分かった。
君は下がっていてくれ」
メイドは心配そうに頷くと、
夫妻に頭を下げ、部屋から立ち去った。
「ミレア、大丈夫。大丈夫だからね」
ルシアは、
泣きじゃくるミレアに手を伸ばし、そっと抱きしめる。
抱きしめられた瞬間、
ミレアの小さな肩がびくりと跳ねた。
次に来る痛みに備えるように、小さな両手で頭を庇った。
ルシアの顔が、くしゃりと歪む。
アルヴァンは、
ミレアを挟むように隣に座り、手を伸ばしかけて動きを止めた。
そんな光景にルシアは目を伏せ、
小さな幼子が安心できるまで、子守唄のように声をかけ続けた。
「ひっく、ひっく……ごめんなさい」
ミレアの掠れた声。
目を真っ赤に腫らし、
顔は涙と鼻水でふやけていた。
「あら、どうして謝るの?
子どもは泣くのが仕事なのよ」
……しごと?
怒っている気配はない。
不思議に思いながらも、恐る恐る顔を上げる。
目の前にはルシアの笑顔。
バチッと目が合い、
反射的に下を向いてしまう。
「ふふっ」
頭上から降ってきたのは、
初めて耳にする、柔らかな笑い声。
「ミレアはね。
いっぱいお仕事したから、とーっても偉いのよ!」
ミレアは顔を上げ、
じっとルシアを見つめる。
「……おこって、ないの?」
こてん、と首を傾げるミレア。
一瞬でルシアの目は潤み、
片手で口元を隠して顔を背けた。
「……っ」
ミレアの表情が強ばる。
「大丈夫だよ、ミレア。
ママはね……くしゃみが出そうになったんだ。
ミレアにかからないよう、横を向いただけさ!」
ははっと笑うアルヴァン。
ルシアは合わせるように、首を振った。
納得したのか、
ミレアの顔に安堵が浮かぶ。
「それよりミレア。
いっぱいお仕事したご褒美に、
頭を撫でてもいいかい?」
アルヴァンの声は、
僅かに上ずっていた。
ミレアは顔色を伺うように見つめている。
数秒の間を置き、こくりと頷いた。
ふわっとした大きな温もりが、
頭の上を包んでいる。
撫でられる手が心地よくて、少しずつ瞼が下がってきた。
……ぽかぽかして、あったかい。
身体だけじゃない。
胸の奥から込み上げる、くすぐったい感覚。
すっ、と手が離れた瞬間、
魔法が解けたように、何か消えてしまった気がした。
「パパに沢山褒められて、良かったねミレア」
「……パパ?」
さっきから聞いた事のない単語ばかり。
「パパの名前はアルヴァン。
ママの名前はルシアと言うんだが……
パパ、ママの方が呼びやすいだろ?」
アルヴァンは笑みを浮かべつつも、
どこか顔を引きつらせていた。
「そうよ、せっかく一緒に暮らすんだもの。
友だちじゃ歳が離れすぎてるし、どうせなら家族として暮らしましょう!」
そう語りかけるルシアも、
アルヴァンと同じ表情をしていた。
「……かぞくって、おかあしゃま?」
夫妻の顔が曇った。
パパとママは、
おとうしゃまとおかあしゃまのこと。
……ミレアの、かぞくは──
脳裏に過ぎったのは、
蔑んだ目で微笑む養母の姿。
「あるばん、しゃま。るしあしゃま」
名前を呼ばれた二人は、
目を大きく開き、複雑な表情を浮かべた。
「あぁ……そうだね。
慣れるまでゆっくりでいいさ」
そう言って笑うアルヴァン。
どこか悲しげで、
ミレアの胸の奥が、ずきんと痛んだ。
だけど、
ミレアは目を伏せ、その痛みに気づかないふりをした。




