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第1話 「剥奪」

これは、力を持たない男の話です。

魔法が使えるわけでも、剣が強いわけでも、

貴族の血を引くわけでもない。

ただ——口を開くと、相手が気づかないうちに

不利な方向へ誘われていく。

そういう男が、全てを奪われるところから始まります。

怒鳴らない。

泣かない。

ただ、静かに、相手が自滅する場所へ誘う。

魔法なし・武力なし・策略だけの成り上がりです。

よろしければ、お付き合いください。

 朝の法廷は寒かった。

 石造りの壁に囲まれた審問室は、日が差さない。

 冬でもないのに、レシルは息が白くなりそうな気がした。

 長机の向こう側に、三人が並んでいる。

 ヴェルナ商会の現幹部——グロウ、ナーリ、そしてモース。

 昨日まで同僚だった顔。

 おはようございます、と挨拶を交わしていた顔。

 その三人が今朝、レシルを横領犯に仕立てた。


 事の始まりは四日前だ。

 創業者オルベック・ヴェルナが急逝した。

 老いによる突然死——少なくとも、公式にはそういうことになっている。

 レシルは遺体を見ていない。

 見せてもらえなかった。

 オルベックはレシルを可愛がっていた。

 平民の出で親族もなく、学だけを頼りに行商から叩き上げた男が、同じ境遇の若者を拾い上げた。

 十七のときに雑用係として雇われ、十二年かけて副頭にまで引き上げてもらった。

 葬儀の夜、グロウに呼ばれた。

 「レシル、少し話がある」

 それだけだった。


 審問室の書記が羊皮紙を開く。

 読み上げられる数字は精巧だった。

 取引記録に混入された架空の仕入れ。

 協力商会への水増し送金。

 書類に残るレシルの署名——本物に見えた。

 本物かもしれない。

 自分でもわからないほど、よく似ていた。

 グロウが口を開いた。

「レシル副頭。創業者の逝去直後にこのような事態が発覚したことは、商会として断腸の思いです」

 声は穏やかだった。

 怒りも嘲りも含んでいない。

 それがかえって、レシルの胸に冷たく落ちた。

 感情がないのではなく、感情を必要としていないのだ。

 この男は。

「弁明があれば聞きます」

 ナーリがそう言った。目を合わせなかった。

 レシルは自分の手を見た。

 弁明する言葉は持っていた。

 証拠の矛盾も見えていた。

 だが、この場で論理を並べても意味がない。

 三人はすでに結論を持ってここに座っている。

 審問は儀式だ。

 手続きを踏んだという、記録のための。

 何も言わなかった。


 判決には十分もかからなかった。

 副頭の地位を剥奪。

 商会員としての資格を剥奪。

 会員証の返納。

 商会名義の住居から本日中に退去。

 押収された私財は横領額に充当。

 残額については借用証書を発行し、三年以内の返済を義務付ける。

 書記が淡々と読み上げた。

 レシルは数字だけ聞いていた。

 借用額は、ちょうどレシルが十二年間で貯めた全財産の、二倍だった。


 外に出ると、光がまぶしかった。

 街はいつも通りだった。

 魚売りが声を張り上げ、御者が馬を叱り、子供が路地を走っている。

 誰もレシルを見ていない。

 誰も知らない。

 レシルは歩いた。

 どこへ向かうかは考えなかった。

 商会の住居には戻れない。

 行きつけの酒場はヴェルナの顔役に使われている。

 金はない。

 知人の顔が次々と浮かんでは、消えた。

 グロウの影響下にある者。

 商会と取引がある者。

 噂を聞いて距離を置く者。

 十二年かけて作った人脈は、一夜で地図から消えた。


 橋の上で立ち止まった。

 川の流れを眺めながら、レシルは静かに、自分の状況を整理した。

 ——財産、ゼロ。

 ——地位、ゼロ。

 ——信用、ゼロ。

 ——借金、十二年分の全労働を超える額。

 これは詰みではない、とレシルは思った。

 詰みとは相手が完璧な場合に生じる。

 だがグロウは完璧ではない。

 書類を偽造した。

 協力者がいる。

 証拠を作った——ということは、証拠に穴がある。

 完璧な嘘をつける人間はいない。

 なぜなら、完璧な嘘は存在を隠す必要がないからだ。

 偽造するということは、本物があるということだ。


 川面に自分の顔が映っている。

 痩せた、目立たない男の顔。

 グロウが十二年見てきた、その顔。

 何も持っていないと思っているはずだ。

 だが一つだけ、奪えないものがある。

 レシルはそれが何かを、この十二年間ずっと磨いてきた。


 橋を渡った先の路地に、古びた宿がある。

 一泊銅貨二枚。食事なし。窓は壁に塗り込められている。

 レシルは残っていた銅貨を数えた。

 七枚。

 三泊と、翌朝の飯代。

 それだけあれば十分だった。

 何かをするのではなく、まず見る。

 観察する。

 グロウが何を持ち、何を恐れ、誰に頼っているか。

 表の顔と裏の顔の隙間がどこにあるか。

 怒りはある。

 だがレシルはそれに名前をつけなかった。

 名前をつけると消費する。

 消費せずに、燃料にする。

 薄い天井板を見上げながら、レシルは眠った。

 ——まず、情報だ。

読んでいただき、ありがとうございます。

主人公のレシルは感情を表に出しません。

怒りも、悲しみも、全部内側に押し込めて、

燃料にして動きます。

書いていて一番気をつけているのは、

「説明しないこと」です。

賢いキャラクターを「賢い」と書くのではなく、

その行動と判断で見せたい。

次の話では、また少しだけ、

レシルの景色が変わります。

続きを読んでいただけたら嬉しいです。

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