第1話 お姉さまからの贈り物
第一話 お姉さまからの贈り物
「マリエル。これ、あなたにあげるわ」
朝の光が差し込む衣裳部屋で、姉のセシリアは一着のドレスを私に差し出した。
淡い青色の絹に、銀糸の刺繍。裾には小さな花が散りばめられ、袖口には白いレースが重ねられている。
古びた我が家には、あまりにも華やかなドレスだった。
「本当に、私にくださるのですか?」
「ええ。もう要らないものだから」
姉は、つまらなそうにドレスを見下ろした。
けれど私の胸は、花が咲いたように明るくなった。
「ありがとうございます、お姉さま!」
両手で受け取った絹は、ひんやりと冷たかった。けれど私には、春の日差しのように感じられた。
「そんなに喜ぶこと?」
「だって、とても綺麗ですもの」
「肩の線が気に入らないし、刺繍も少し古いわ。昨日、仕立屋に見せたら、流行遅れだと言われたのよ」
姉はそう言って、ドレスの肩口をつまんだ。
「それに、一度着たきりだもの。捨てるよりは、あなたが使った方がましでしょう」
「お姉さまが一度着たものなら、私には十分すぎます」
私はドレスを胸に抱いた。
去年の春、姉がこのドレスを着て舞踏会へ出かけた日のことを、今でも覚えている。
夕暮れの光を浴びた姉は、まるで物語の中の貴婦人のようだった。金色の髪には銀の髪飾りが輝き、青いドレスの裾が歩くたびに静かに揺れていた。
帰宅した姉は、ひどく不機嫌だったけれど。
「料理は冷めているし、音楽は下手。おまけに、このドレスは肩の線が気に入らないわ」
そう言いながら、姉は鏡の前で何度も自分の姿を確かめていた。
私はその姿が大好きだった。
「お姉さまは、いつも私に素敵なものをくださいますね」
「あなたが勝手に喜んでいるだけでしょう」
「それでも、嬉しいです」
姉は返事をしなかった。
ただ、窓の外へ顔を向ける。
そこには、かつては立派だった庭が広がっていた。薔薇の生垣は伸び放題で、噴水は何年も水を吐いていない。屋敷の白い柱には蔦が絡まり、床板は歩くたびに軋んだ。
私たちの家、ヴァレンティア家は、爵位だけが残った貧しい家だった。
父と母が亡くなってから、爵位は叔父様が継いだ。私たちに残されたのは、この古い屋敷と、わずかな生活費だけ。
叔父様は私たちを引き取ろうとはしなかった。
けれど姉も、叔父様の家へ行くことを望まなかった。
「他人の家で、施しを受けながら暮らすなんて嫌よ」
そう言って、姉は私の手を引いた。
だから私は、姉がどれほど気難しくても、どれほどわがままでも、姉のことを尊敬している。
姉はいつだって、私より強い。
「そういえば、叔父様から手紙が来ていたわ」
セシリアは、卓上に置かれた封書を手に取った。
封蝋には、叔父様の家紋が押されている。
「何と書いてあるのですか?」
「見合いの話よ」
「まあ!」
思わず声が弾んだ。
姉が良い方と結婚すれば、生活は変わる。冷たい隙間風も、薄いスープも、冬の夜に毛布を奪い合うこともなくなる。
何より、姉が望んでいる華やかな暮らしを手に入れられる。
「お相手は、どのような方ですか?」
「王都の商会に勤める男性。平民の家の出身で、収入は安定しているけれど、財産は大したことがないそうよ」
姉は封書を卓上に戻した。
「お断りするわ」
「どうしてですか?」
「どうしてって……」
姉は、信じられないものを見るように私を見た。
「そんな相手と結婚したら、私は一生、母と同じ暮らしをすることになるもの」
姉の灰青色の瞳に、鋭い光が宿る。
「私はもう、貧しい暮らしには戻らない。食べたいものを我慢して、着たい服を諦めて、欲しいものがあっても笑って首を振る。そんな人生はごめんよ」
姉の言葉に、私は手の中のドレスを見下ろした。
母も、欲しいものを我慢していたのだろうか。
姉はずっと、それを見てきたのだろうか。
「では、どのような方ならよいのですか?」
「裕福な商家の跡取り。できれば、爵位を持つ貴族ね」
姉は迷わず答えた。
「私を、今よりずっと良い場所へ連れて行ってくれる人」
それは、姉にとってわがままではないのかもしれない。
貧しさに戻らないために、姉は必死なのだ。
「お姉さまが幸せになれるなら、私も嬉しいです」
「……あなたは、本当に疑うことを知らないのね」
姉は呆れたように言った。
その日の夕方、叔父様の使いが訪ねてきた。
「セシリア様。先方は、ぜひ一度だけでもお会いしたいと仰っています」
「私は断ると言ったはずよ」
「しかし、叔父様もこの縁談をお断りするのは難しいと……」
姉は黙り込んだ。
先方は平民。財産もない。姉にとっては、時間を使う価値すらない相手だ。
けれど断れば、叔父様との関係が悪くなる。
やがて姉は、ゆっくりと私を見た。
その瞳に、何かを思いついた光が浮かぶ。
「……マリエル」
「はい?」
「あなた、明日は私の代わりにお見合いへ行ってくださらない?」
「私が、お姉さまの代わりに?」
「ええ。相手には、あなたが私の妹で、私の代わりに来たと伝えればいいわ」
「それで、よいのですか?」
「構わないでしょう。相手は平凡な男性なのだから。少し話をして、私が行けない理由を説明して帰ってくればいいのよ」
青いドレスの裾が、私の腕の中で静かに揺れた。
「はい。お姉さまのお役に立てるなら、喜んで」
姉は満足そうに微笑んだ。
けれど、このときの私は知らなかった。
私が姉の代わりに行くことで、姉ではなく、私自身の人生が動き始めることを。
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