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フィンブルヴェトル  作者: シュピール
1/5

風の冬

 コンコン、と。

 年季が入って薄汚れた、集合住宅の壁を叩く音がした。ただの物音ではなく自分に向けられた合図のような音であると、なぜだかハッキリと分かる、そんな音だった。


 ベッドから体を起こしてまず目に入るのは、消し忘れたパソコンの光。決して広いとは言えない一室を淡く照らすその青は、寝ぼけまなこには少々きつい。眩しさに目を細めながら画面に映る時間を確認すれば、まだ丑三つ時を少し過ぎたばかり。パソコンを消し忘れて電気代がかさむのを防いでくれたことには感謝するべきかもしれないが、こんな深夜になんだというのか。


 コンコン、と。

 こちらも壁を叩き返してみる。先ほどの音が気のせいだったかもしれない、という疑念を抱きながら弱めに一度。そして思い切って強めにもう一度。


「こんばんは、お隣さん」


 明確に応える声があった。恐らくはまだ高校生かそこらであろう少女の、中性的で透き通った声。こんな子が果たして、隣の部屋に住んでいただろうか。

 ともかく。


「こんばんは。……どうかしたの?」

「あっ……ごめんなさい。こんな夜中に、迷惑ですよね」


 普通に問うたつもりだったが、眠気と寝起きの喉が、少し不機嫌そうな声色を作ってしまったらしい。申し訳なさそうにする隣の部屋の少女に、だから気にしないで、と伝えて続きを促す。


「外の景色を見て欲しいんです。なんだか……普通じゃなくて」

「外?」


 言われるまま、何ヶ月も閉め切ったままだったカーテンを払い除けて外を見ようとして、カーテンに触れた手先の冷たさに思わず手を引っ込める。妙に冷えた手に一度目線を落として、そして再びカーテンをどけて窓に映る景色を確認する。


「……は?」


 凍っていた。建物も植物も分厚い霜で覆われ、白く染まった景色には動くものは何もなく、しんと静まり返った不気味な静寂に支配されていて。それを見てようやく、白く染まる自分の息と、冷えてかじかんだ指先を知覚した。


「やっぱりそちらも、凍っちゃってるように見えますか?」

「えぇ。一体何が起こって……?」

「変……ですよね。だって昨日、蝉の声を煩いって思ったのを、ハッキリと覚えてるのに。まだしばらくクーラーは消せないな、って笑ってたのに」


 応える少女の声も、どこか呆然としている。

 《《八月五日》》の深夜。茹だりそうな熱気が支配しているべき夏の夜に、世界の全てが凍っていた。


「……確かにこれは、誰かに共有したくなるのも頷ける光景だね」

「ふふっ、ありがとうございます。ただ……起きてもらったのはそれだけじゃなくて」


 初めて年相応らしい笑みの気配を見せた隣の少女につられて思わず笑顔になって、そして続く言葉を紡ぐ冷たい声色に、一気に現実に引き戻される。

 白く染まった夏の夜は変わらずそこにある。ただ『綺麗』と笑っても終わらない。


「お隣さん、ニュースを確認してみてくれませんか? 私にはその、見る方法がなくって」

「? 分かった」


 見る方法がない、とな。学生でも二週間程度バイトをこなせば端末が買える程度にはインターネットが普及した今では、ニュースすら見れない環境というのは相当珍しいと言える。何か事情があるのだろうか。

 ともかく調べてみよう。


✢✢✢


「どう、でしょうか?」

「ダメだ。ネットが繋がらない」


 しばらく試行錯誤してみたが、パソコンに繋げている有線のものも、中央大陸全域をカバーしているはずの広域ネットワークも軒並みダウンしている模様。


「私もお隣さんも、あんまり状況は変わらないみたいですね」

「何なんだろうね、この状況。ただの異常気象じゃなさそうな気がしてこない?」

「確かに、そうですね。このまま何事もなければいいんですけど」


 全くその通りだ。私も、隣の少女も漠然と、この状況に得も言われぬ悪い予感を抱いている。これが誰とも連絡を取れず、情報的に孤立した現状が生み出した錯覚だといいのだが。


「……朝になるまで、お互いできることはなさそうですね。こんな夜中に、私の話に付き合ってくれてありがとうございます。お陰で気が紛れました」


 やはり年に不相応に丁寧な子だ。年下だと思って丁寧語を使わなかったのが恥ずかしくなってくる。かと言って今更変えるのも不自然なので、気にしないことにする。


「そういえば、名前は?」

「私ですか? 私はリーヴ、っていいます。お隣さんは?」

「スラシル。挨拶が遅れたけど、隣人としてよろしく」


「ふふっ――」


 私の言葉に、可愛らしく笑うリーヴ。

 けれど私はその平凡なはずの笑みに、こんな些細な会話で感じていい幸せを超越した、異常なまでの喜気を視た気がした。


「――よろしくお願いします」


 気のせいだと片付けるには、余りにも鮮明な幻だったように感じて。

 再び眠りに落ちるまで、私はその笑みが頭から離れないままだった。

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