プロローグ
大気が沸騰していた。
鉄の錆びた臭いと肉が焦げる凄惨な硝煙。呼吸をするたびに肺腑がガラス片で削られるような錯覚を覚えるのは、此の空間を支配する魔力の濃度が人間の生存を許さない領域に達しているからだ。
戦場の中心で、紅蓮の劫火と見紛う魔力を噴き上げる魔王の姿があった。其の前で、全身の骨を砕かれながらも、なお聖剣を杖代わりに立ち上がる、勇者──ジン・フィリップス・ホワイトヘッドの背中が見える。
「まだだァッ! テト、ラぁッ! 回復!」
血反吐を吐きながらも、ジンはテトラ──僧侶に回復魔法を求めた。彼は折れた脚を乱暴にあるべき位置へ戻し、握り止める。テトラが発した聖なる光を浴びることで繋ぎ止められたであろう足で立ち上がる。
「勝利を、この手に掴むまで……俺は、死なないッ!!」
そう、彼は満身創痍でありながらも決して諦めてはいない。傷口が塞がるや否や、直ぐ様に聖剣アウロラで魔族の王と切り結ぶのだった。
驚天動地の激闘は、どれ程の時間続いていたろうか。寸秒の出来事だったとも、永劫にも思える程の長丁場とも己には思えた。怪物同士の激突は、加護を賜っていない一般人の己には到底ついていけないものだった。
勝敗の天秤はどちらにも傾かない。ただ、どちらが先に世界其の物を削り切るかという、狂気的な消耗戦の極みに達していた。
其の時だった──。
「蜻ェ蜥?o繧九k閠?r騾?¢縲√?縺偵@縺咲↓蛻代↓蜃ヲ繧∫オヲ繧上s縺ィ縺阪?逾晉ヲ上∪繧九k閠?→縺ィ繧ゅ↓謌代r諡帙″邨ヲ縺医?」
魔王──アザトルトと呼ばれる首魁が鷹揚にチャントを紡ぎ始めた。己に塵界語は解らぬ。されど、紡がれる音の羅列が法術の詠唱であることは、魔術を扱う者の端くれとして本能的に理解できた。
魔王の掲げた両腕の間に、黒紫色の球体が形成されていく。其れは魔法などという生易しい代物ではない。塵界の最深部から汲み上げられた、理を喰い破る概念──そう感じられた。ひとたび放たれれば、ジンやテトラのみならず、此の戦場を包む結界ごと──人も魔物も一切の見境無く数千の軍勢が跡形もなく消滅する。ジンの聖剣には最早アレを斬り破るだけの輝きは残されていない。
(……やるしかない、か)
戦線の一角。瓦礫の影で、己は自身の右腕を凝視した。試製型・89式魔導軍刀【コンスタラシオン】の柄を握る。同胞達の大半は、既に物言わぬ肉塊に変わり果てていた。動けるのは己だけ。
己は深く息を吐き出し、父より教わったハイネゴシクの極意たる呼吸法で体内の全魔力回路を強制駆動させた。肉体が悲鳴を上げる。
「ベシュロイ二グン──!」
簡易的な身体強化魔法を詠唱破棄で発動する。血管が焼き切れるような激痛が走るが、そんなものは如何でもよかった。
魔王の術式が完成するまで、あと数秒──有れば良い。有ると信ずる他ない。
ドワオ──! 大地を爆発させるような踏鳴が響く。
「夢想せよ、冥府魔道の神宝──銀の鍵に祈りを込めて」
此方は詠唱破棄などできない。アレにぶつけるだけの出力が必要だ。
「嗚呼、汝は希望の簒奪者。星を奪うは白き闇、蒼の一筋が大地を穿つ」
詠唱短縮なども許されない。完全詠唱でもって最大出力を引き出すしかないのだ。身体強化の加速と共に紡ぎ上げるは脳髄を沸騰させる程の超高速詠唱。一瞬でも噛んでしまえば、ご破産となる。
「運命の車輪は錆び、砕け、朽ち果てる」
世界が──人が──否、そんな視座の思慮は今の己には出来なかった。今命を預け合う仲間と、故郷で帰りを待つ──待ってくれていると思いたい、きょうだいのことだけを想う。
「第404次元干渉術式方陣起動──」
呪文の文字列は己が喉を血塗れにしながら掻きむしり、魔導軍刀の刀身へと収束していく。
「蠕。蜑阪↓菫ッ莨上@轣ー縺ョ螯ゅ¥遒弱°繧後◆繧句ソ?r繧ゅ※縲?¥縺ォ蟶後>螂峨k縲∝履蜻シ謌醍オる□繧定ィ医>邨ヲ縺医?」
放つのは、相殺のためだけの純粋な対抗魔術──。
「ニヒトゲフォンドゥン!!!!」
「蜻ェ繧上l縺溘b縺ョ」
魔王が掲げた闇を解き放つのと、己が振り下ろした刀身から極大の光条を撃ち出したのは、殆ど同時だった。
二つの規格外の質量が衝突する刹那、世界から音が消えた。
光と闇が混ざり合い、生じたのは爆発──ではなかった。空間が歪み、強烈な引力を伴って回転を始める魔力の渦が其処にはあった。時間と空間の理を外れた奔流が、潮満ちるように己へと襲いかかる。
「が、あ…………っ!」
防壁魔術を展開する暇さえなかった。渦に呑み込まれた瞬間、己の身体は上下左右の感覚を失い、凄まじい力で圧壊していく。骨が砕け、肉が引き裂かれ、粒子へと還元されていくような感覚。
──死ぬ。明確にそう悟った。
此の魔力の濁流の渦に溶けて、自分という存在は跡形もなく消え去るのだと。
だが、奇妙なことに意識は切り離されたように鋭敏に残っていた。
(……ああ、そういえば)
いつだったか、戦術長が言っていた戯言を思い出す。
『人間という生き物は、首を撥ねられても数分間は意識が残るらしい。脳味噌が死ぬまでの間、テメェは最後に何を考えるんだろうな──』
今が正しく其れなのだろう。否、脳はまだ無事なのだろうか? 肉体が消滅しつつあるというのに、己の思考の歯車は冷酷な程に回り続けている。
そして、網膜の裏側に忌まわしい過去を映し出し始める。
最初に見えたのは、血反吐を吐いて倒れた仲間の姿だった。ただ、無念の形に目を見開いたまま、泥の中に沈んでいった骸。己を庇い、先立った友。
次に見えたのは、燃え落ちる故郷の景色だ。空を埋め尽くす龍の群れ、己達を逃がすための時間を稼がんと突進していく父の背──。
そして──最後に残ったのは、ルルチェ──ルルチェ・ベルナドットの体温だった。
二日前の記憶。塵界突入作戦開始から二週間を過ぎたある夜。狭く、湿った天幕の片隅で、己と彼女は狂ったように互いの肉体を貪り合った。死の淵にあるというのに、男というのは馬鹿なものだなと今になって自嘲する。
明日死ぬかもしれないという恐怖。そうしなければ、自分達が人間であることを忘れてしまいそうだった感覚から、彼女と身体を重ねたのだったな、と思い起こされた。
己の背中に回された、ルルチェの細い指。爪が皮膚に食い込む痛みが、やけに生々しく蘇る。汗に濡れた彼女の髪の匂い、甘やかな嬌声、重なる鼓動。彼女の肌は燃えるように熱かった。
『イェゴール……私達、生き残れたら──』
其の言葉の続きを、ルルチェは言ってくれなかった。そして翌日、彼女は無残にも真二つに引き裂かれて死んだ。回復魔法で何とかなろうはずもない──即死だった。彼女は魔龍の攻撃から仲間を守り、勇敢に騎士の任を全うした。
己の両手には、今も彼女の生温かい血の感触が膠着いている。
(己は……)
何故、己が生きている。
何故、己のような弱卒が生き残り、ルルチェが、彼奴らが死なねばならなかった。
欲情した肉体の記憶と、其の後に訪れた最悪の死の臭いが、魔王との戦いの最中にも幾度となく想起された。生への執着など無いつもりだった。只、生き残ってしまったという事実が、義務という名の鉄鎖となって己の魂を縛り付けていた。──だというのに、此のザマである。
熱も、痛みも、ルルチェの幻影も、全てが暗転していく。
嗚呼、今度こそ死ぬのか……己の意識は、其処で完全に途絶えた。
◇◆◇◆
「──っ!?」
唐突に、肺に冷たい空気が流れ込んできた。激しく咳き込みながらも、バネ仕掛け人形の如く飛び起きた。
「ハァ、ハァ……ハァッ……!」
反射的に腰の魔導軍刀を抜き放ち構えていた。得物はある。腕も無事。身体は動く。……何故だ?
「ふぅ──ッ」
ぼやける視界の中、気配を探る。敵はない。どうやら、安全ではあるらしい。
呼吸を整えながら、ゆっくりと刃を納める。そして恐る恐る全身を確認するが、引き裂かれたはずの肉体は五体満足で、其れどころか傷一つない。衣服こそ血と泥と煤で汚れているが、魔力の枯渇によるものだろうか? 倦怠感を除けば、驚く程健全だった。
「此処は……何処だ……?」
周囲を見回し、呆然と言葉を失った。
其処に広がっていたのは、戦場である塵界の赤黒い世界ではなかった。
「────」
しんしんと音もなく雪が降り積もる、静謐な銀世界だった。
見上げる程に高い針葉樹の枝葉が、白い綿帽子を被ったように雪を乗せている。魔王の気配はない。魔物もいない。ジンやテトラ、他の仲間の姿もない。ただ、凍てつくような冷気と、耳が痛くなる程の静寂だけが其処にはあった。
空を見上げれば、雲の隙間から、澄んだ冬の陽光が差し込んでいる。
血の臭いは──しない。
只、冷たい雪の匂いだけが、己の鼻腔を満たしていた。




