第1幕 本日無職になりまして。
「アンタって、思った以上の『ハズレ』よね。早めに切って、マジで正解だったわ~」
目の前の女性は柔らかく微笑んでいた。
その清楚で可憐な姿とは不釣り合いな、致死量の毒を吐きながら。
そんな少し昔の映像が、ありありと脳内に蘇る。
──人生と言うものは、思った以上に上手く行かないものだ。
跡部清寿、無職になりたての29歳。
雲の無い夜空を眼鏡越しに見上げながら、心の底からそう思っていた。
11月中旬。本日が退職日。次の住居は未定。
新居を探す時間すら惜しんで引き継ぎ業務をこなした事が、今となっては悔やまれる。
まさに痛恨の極み……とは、この事だろう。
そんなこんなでつい先ほど、会社の独身寮から追い出され、行くアテも無く近くの公園に佇んでいる有り様だ。
──だが、こんなにもゆっくり夜空を見上げたのはいつ以来だろうか。
外灯から少し離れたベンチ。
見上げた空には月影も無い。あるのは星の瞬きだけ。
その瞬きがやけに強く感じるのは、冬が近づいた証だろうか。
気温が下がり始め、空気は冷たく澄んでいく。
時刻は、24時の少し前。
「帰る場所がないのは……結構堪えるな」
溜め息混じりの言葉が、白い息と共に口から溢れる。
冷たい風が沁みる。寒さと身体の疲労。そして、孤独。
本来であれば、ここに空腹感も加わるはずなのだが……感覚が麻痺して、そこはイマイチ実感が無いのだ。
この状況下では、どう足掻いたって絶望以外の感情は生まれない。
折角、綺麗な夜空を見上げているのに、清寿の疲れきった心には美しいと思う余裕すら無い。
綺麗な景色の中に、惨めな自分。それが、余計に心を抉る。
ぼんやりしている間にも、容赦なく気温は下がる。
春秋用のスーツに防寒など期待できるわけもなく。
衣替えを後回しにした事を、今更激しく後悔してしまう。
──ここで、ずっとこうして居るワケにはいかないなぁ。
ぼんやりとした頭でも、それは理解出来る。
そんな事は重々承知している。
……だが、疲れ切った身体は鉛のように重く、頭は上手く働かない。
やらねばならぬ事と、やらざるを得ない事。
充分理解しているが、やりたくない。ただひたすら、身体を動かす事が億劫なのだ。
──会社への当てつけに、翌朝冷たくなって発見されるのもありかもしれない。いっそこのまま、ここで寝てしまおうか。
なんて。
真面目な清寿らしくもない事を、思ってしまうほどの疲弊っぷりであるのだから。
けれど、今後の事を考えようとしても、浮かんでくるのはロクでもない事ばかり。
負のスパイラルから抜け出せない。
出ようと踠けば、なお沈む。まるで、アリ地獄にはまった気分だ。
そうしている内にまた刻々と、無駄な時間だけが過ぎていく。
そんな最中、不意に変化が訪れた。
ただし、彼自身にではない。彼の周りの空間に、おかしな変化が訪れたのだ。
蛍の光のような、淡く微かな光の粒が横切った。
「……蛍?」
そんな言葉が口をついたが、冬に蛍などいるはずもない。
それは上手く回らない頭でも直ぐに理解出来た。
だが、それは理解出来たとしても、現状の把握は出来ないでいる。
故に、ただただぼんやりと、その光景を眺めることしか出来ずにいた。
そのうち、小さく淡い光の粒は数を増やす。
目の前を揺らぎ通り過ぎながら、空気中に綻んで消える。
新たな粒が、また緩やかに浮遊し、空気に溶けるように消える。
目の前を揺らぐ粒は、どれも同じように繰り返す。
流石に不思議に思い、出所を目で追えば、彼を中心とする直径1メートルほどの空間に、円形に囲まれた地面から、小さな光がポツリポツリと湧き上がっていた。
今度は目線を移動させてその光景をぼんやり眺めていると、徐々に粒の量が増えてきた。
そして、粒の量と時間経過に比例するように、粒の大きさも光の強さも増していく。
——いつか行った、蛍の群生地を思い出す。あれは何歳頃だったっけか……
そんな頓珍漢な記憶と疑問が、不意に頭に浮かんだ。
この異様な光景に、危機感や違和感を覚えるよりも、既に走馬灯が巡っている様である。
けれど、何とも雑な走馬灯だ。
驚きも恐怖も危機感も。鈍った頭には、浮かんできてくれないらしい。
人体の神秘と言う名の、残念なお知らせだ。
だが、柔らかな光は、暖かさにも似ている。
記憶の中の、希望に満ちた暖かさ。
マッチ売りの少女が、炎の中に温かな夢を見たように。
希望的観測と現実逃避が、フルスロットルで加速する。
清寿を誘うように、光の粒は踊る。
ゆらゆらと周りを浮遊し始め、取り巻き、渦を描いた。
湧き上がる粒は溶ける様に結合し、次第に明度を上げて広がっていく。
淡く優しい光の膜は、清寿の視界を確実に奪っていった。
目の前にあるのは、柔らかな生成色。
夢でも見ているのかと頭上を見上げれば、紺碧の夜空に満天の星。
そして、足元を見遣れば、眩いばかりの強烈な白。
動けない。
動かない。
どちらなのかは分からない。分かれと言う方が酷である。
現実と非現実の狭間に立たされて、脳が完全フリーズだ。
意識しても手足は動いてくれない。
唯一動いてくれるのは頭部のみだが、それも狭い可動域だ。
問題を打破する切欠にもなってくれやしない。
コレはアレだ。完全に詰んでる状態ってやつだろう。
強烈な眩さの中で、少しずつ足元が揺らめき始める。
地面が揺れているのか、自身が揺らいでいるのか。最早、清寿には判断はできない。
眩暈を覚えるほどの眩さが、強烈な光の渦が。足元から徐々に、けれども無遠慮に。
清寿をゆっくりと侵食していく。
あまりの非現実さに、再び空を仰ぎ見る。
だが、残念ながら時既に遅し。頭上も既に生成り色に覆われていた。
先程まで仰いでいた星空も、今はもう見えない。
一気に押し寄せる浮遊感と不安。
先ほどまであったはずの地面の感触も、今は感じない。
激しさを増す光にどんどん侵食されて、浮遊感も増していく。
まるで、酩酊した時の様に。
まるで、波に攫われ溺れた時のように。
天地も分からなくなるほどの、眩い光。
やがて全てが光に囚われ、無音の真白に閉ざされた。
もし、気に入って頂いた時は、評価等々お願い致します。
書く励みになりますゆえ。




