s.f.04(その日まで)
*
沙緒里が魚になる。
もう、自分では起き上がることもままならなくなっている。
日がな一日ベッドの上で、沙緒里は魚になるその日まで、静かに時間を費やす。
僕は沙緒里のかたわらで、言葉少なに沙緒里を見つめる。
目をつむったままの沙緒里。
少し開いた口。乾いた唇。
息をするたび、胸が少し上下する。
*
「あの子、最後はあなたといたいんですって」
沙緒里のお母さんが云った。少し、疲れて見えた。
僕は、うつむく。
そうしてあげて、と沙緒里のお母さんは云う。
*
「窓、開けてくれる?」
不意に目を開け、沙緒里が云った。僕は手を伸ばして、少し窓を開けた。
沙緒里は、痩せた。
話すのも難しそうに見えた。
「ねぇ、」
それでも、沙緒里は口を開く。「ありがとう」
僕は沙緒里を見る。沙緒里は僕を見ている。
「僕は──何もしていない」
沙緒里は力なく、けれども首を振る。「一緒にいてくれてるよ」
「そんなの──、」
そんなの、ありがとう、だなんて。
違う。
違うんだ、沙緒里。
僕は何も、君にしてあげられない。
僕はただ、君が魚になるのを、じっと、見ているだけなんだ──。
「……ごめん、」
「何で謝るのよ」沙緒里は薄く微笑んだ。「変な人」
沙緒里は目を閉じて云った。「一緒にいてくれるじゃない」
それだけで充分よ。
目を開けた沙緒里は、手を差し出してきた。僕は少し躊躇うその後、握った。
暖かくも、冷たくもない、小さな、沙緒里の、手。力なく、小さな、小さな、沙緒里の、手。
*
沙緒里が魚になる。
沙緒里が魚になってしまう。
沙緒里が──。
*
「ずっと私を見ていてくれて、ありがとう」
ずっと、私を、見ていて、くれて。
*
「感謝」
沙緒里は柔らかに微笑んで小さく口を動かす。それから瞳を閉じ、薄い胸を膨らませて大きくひとつ、息を吸う。
ぽっと、吐きだす息の代わりに、胸元から銀色に光る魚が現れた。
手のひらにすっぽり収まってしまうようなその小さな魚は、まるで飛び魚みたいな大きな胸びれを、羽化したての蝶のように羽ばたかせて、ついと沙緒里の身体から離れる。
胸びれだけじゃない。背びれも尾びれも大きくて、まるで羽衣のようにたおやかに波打つ。そのたび、ひれはシャボン玉のような、不思議な色で煌めいた。
銀色の魚は、何かを探すように音もなく宙をくるりと一周し、僕を見つめて小首を傾げた。
僕は魚をただじっと見つめ返した。
それから魚は、窓のすき間からするりと夜空へ向かって泳ぎ。
僕はもう動くことのない沙緒里の手を握ったまま、銀色の魚の消えた夜空をずっと見つめる。
沙緒里は、銀の、魚になった。
─了─