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s.f.03(静かに波打つ)


   *


 仕事の後、僕は沙緒里の家へ向かった。

 玄関先で沙緒里のお母さんに挨拶し、沙緒里が自室にいると教えてもらい、階段を昇って、沙緒里の部屋をノックして、扉を開けて、一面が本に埋められた部屋に入って──沙緒里はベッドにいなかった。

 僕は部屋を出て、沙緒里、と呼びかけた。返事はなかった。

 水の流れる音が、微かにした。

 僕は沙緒里の部屋の二つ隣の、洗面所の扉をノックした。

 返事はなかった。

 扉を開けて、そこに寝巻き姿の沙緒里が身体を曲げて洗面台に頭を浸けている、その背中が目に入った。沙緒里は洗面台に水を張って、その中に顔を沈めていた。

「沙緒里?」

 不意に、ごぼごぼと泡のはじける音した。僕は慌てて沙緒里の肩を掴んで引き上げる。振り返った沙緒里の濡れた顔に、やはり濡れた髪が張り付いて、まつ毛に水滴がつき、雫が頬を伝い、僕の手を濡らした。

 沙緒里は僕の顔を見て微笑み、云った。「魚になる練習をしていたの」

 僕は、手近に在ったタオルを手渡たす。けれど「髪を拭くのはこっちの」と別のタオルを棚から引っ張り出して、沙緒里は顔の水滴を拭うと、丁寧に濡れた髪をタオルに挟んだ。

「部屋に、戻ろう」

 僕の言葉に、沙緒里はこくりと頷いた。

 ベッドに寝た沙緒里のそばに腰を下ろし、視線を感じながらも沙緒里を見ることが出来ず、背中を向けたまま、僕は云った。「どうして、そうまでして、魚になりたいんだ」

「魚になるのに、理由はいる?」

「沙緒里はそれでいいかもしれない。けど、僕は納得できない」

「納得したら、魚になりたい私の気持ちを受け入れてくれる?」

「それとこれは、別だと思う」

「じゃぁどうすればいいの? 結局、私が魚にならなければいいの?」

「何度も云っているじゃないか、」

 云って、僕ははっとした。

 魚にならないなら、沙緒里もまた、苦しくて苦しくて、ままならない身体を薬で抑えて、退院できる見込みもないまま、ベッドの上で眠らされるか呻いているかになるのだ。


   *


 魚になることが、そんなに悪いことなのだろうか?

 人でいることが、そんなに大切なのことなのだろうか?


   *


「今でこそ普通に生活できるわ、魚になることを除けば」

 沙緒里は続けた。「年中寝込んでいたのが不思議なくらいに。でも、またいつか、元に戻るかもしれないのよ」

「でも、そうならないかもしれない」

「私の不安、分かる?」

 沙緒里が腕を伸ばして、僕のシャツを掴んで、引っ張った。

 僕は顔を沙緒里に向けた。

 沙緒里の、不安。

「……でも、魚になったとしても、全てが良くなる訳ではない、全てが解決する、そんな保証があるわけでもないんだ」僕は、口を開きかけた沙緒里を制して、続けた。「だけど、そのことも、魚になってみないと分からないんだ」

 沙緒里は、こくりと頷いた。

 沙緒里は魚になる。

 自ら望んで、魚になる。

 僕はシャツを掴む沙緒里の手を、手に取る。

 小さな、沙緒里の手。暖かくもなく、冷たくもない、沙緒里の手。

 不意に、沙緒里は僕の手を引っ張り、僕はちょうど沙緒里の胸に頭を預ける風にして沙緒里に抱きしめられた。

 背中に廻された沙緒里の手。沙緒里の胸、沙緒里の息、沙緒里の匂い、沙緒里の体温。

 僕は目を閉じ、沙緒里の胸の鼓動を聴いた。それは、先だって夜空の下できいた波の音のようだった。そして僕らの時間が幾ばくもないことを、この上なくはっきりと感じた。

 沙緒里は魚になる。

 そして、僕は、人のまま──。

 耳元で、沙緒里が囁くように云った。「壁の本棚なんだけど、」

「うん、」

「私ね、子供の頃、いつかこの壁が一面、本で埋まったら、その時、自分は死ぬものだと、そう思っていたの」

 僕も、囁くように云った。「僕は壁が一面本で埋まると、沙緒里の病気が治ると思っていたよ」

「そうなんだ」

 沙緒里が微笑むのが分かる。言葉と一緒に漏れる息が、僕の耳元をくすぐる。

 沙緒里の胸に抱かれたまま、僕は云った。「そうしたら一緒に街を歩いたり、映画を見に行ったり、公園を散歩したり、一緒に、沙緒里と一緒にやりたいことを、たくさんたくさん考えていたんだ」

「そうなったよね、私。病気治ったよね。吸入なんて、ずっとしてないもの」

 僕は小さく沙緒里の胸の中で頷いた。「一緒に街を歩いたし、海にも行った。たくさん話して、色んなところへ二人で行った」

「あなたの方が正しかったのね」

「その件に関してはね」

「あなたと一緒に、たくさんおしゃべりして、たくさん色んなところに出かけて、私は楽しかった。本で知った世界だけでなく、触れたり、匂いをかいだり、別の世界にいるようで、私は楽しかった」

 沙緒里の胸が、静かに波打つ。

 僕もだよ、沙緒里。

 一緒に、たくさんおしゃべりして、たくさん色んなところに出かけた。

 沙緒里、沙緒里、沙緒里。

 壁一面の本棚が埋まって、君は元気になって、僕と一緒にたくさんおしゃべりして、たくさん色んな所に出かけて……。

 沙緒里、沙緒里、沙緒里。

 楽しかったよ。

 嬉しかったよ。

 沙緒里。

 君と居ることが。

 君と一緒に居ることが。

「──だけど、」

「私は、魚に、なる」

「……うん」

 君は、魚に、なるんだ。

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