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s.f.02(冷たい水の底)


   *


 翌日からの僕は、子供時代のそれと同じように仕事から帰ると、真っ直ぐ家には帰らず、沙緒里を訪ねる。そして、僕は、言葉少なに沙緒里のそばにいる。

「何か話して」

 或る時、そんな僕にベッドに腰掛けた沙緒里が云った。

「何を、」

「何でもいいわ。子供の時みたいに」

 僕は、口ごもった。言葉が分からない。何を話せばいいのか、分からない。

 僕は、沙緒里の希望を叶えてやれなかった。

 その翌日、仕事の終わった僕は、沙緒里の家の前で暫く逡巡した後、結局尋ねることが出来ず、家に帰った。

 指先が、以前触れた沙緒里の髪の感触を思い出した。


   *


 それから暫くした日、仕事を終えた僕を沙緒里が自転車で迎えに来た。久しぶりに逢った沙緒里はピンクのチェック柄のブラウスに白いカーディガンとスカート。寝てなくていいのかと訊けば、平気よ、と返された。

 日の暮れかかった町を二人で歩いた。言葉はなかった。沙緒里の自転車は僕が引いた。ギアが少し、軋んで鳴った。

「海に行きたい」

 唐突に沙緒里が云った。「連れてってよ」

「もう遅いよ」たとい、今から行ったとしても真っ暗で何を見るというのだろう。

「行く」

 強く、沙緒里は云った。僕は沙緒里を見た。沙緒里も僕を見た。反対しても無駄だと僕は思った。僕は自転車にまたがり、云った。「乗りなよ」

 沙緒里は嬉しそうに微笑んだ。荷台に乗った沙緒里は、空気みたいに軽かった。僕の腰に廻された沙緒里の手は細くて華奢で、今にも壊れそうに儚く思えて、僕は何度も触れてそこにあるのを確かめずにいられなかった。


   *


 すっかり陽の落ちた後、僕らは海に着いた。人影のない浜辺に潮騒だけが鳴っていた。空には細い細い生まれたばかりの月があった。海と空の境界は星々がなければひとつに溶けてしまいそうだった。

 沙緒里はざくざくと浜辺を歩く。僕も自転車を停めると、後を追ってざくざくと浜辺を歩く。

 沙緒里は立ち止まると、夜空にまっすぐと半分に切り取られた水平線の彼方を見つめる。

 僕は立ち止まると、沙緒里を見つめる。

 海が鳴る。星が瞬く。風が吹く。

 不意に、あ、と沙緒里が云う。

「何?」

 僕が尋ねるや否や、沙緒里は暗い砂浜を駆け出していた。「流れ星!」

 波打ち際を潮騒と並んで少し走った沙緒里の影は、ふと立ち止まって屈み込む。僕はざくざくと砂の上を歩きながら沙緒里の傍へ向かう。

「どうしたの、」

 沙緒里は嬉しそうな微笑みを僕に向け、云った。「拾っちゃった」

「何を?」

「流れ星」

 立ち上がった沙緒里は、握った右手を突き出して見せた。僕も右手を差し出し、それを受け取る。

 開いた沙緒里の手から小さなそれがぽろぽろと手のひらの上に落ちて、転がった。

 ちっちゃな流れ星。こんぺいとうみたい。

 沙緒里は僕の手から一粒の流れ星を摘むと、ぽいっと自分の口に放り込む。

 僕も一粒、流れ星を口に入れる。

 砂糖の味。こんぺいとう。

 かりっと奥歯で噛み砕いた。

 かりっ、かりっ、かりっ。

 流れ星は口の中で溶けて消えた。

 潮騒が聞える。僕は、子供の頃、こっそり二人で食べた砂糖菓子を思った。


   *


 沙緒里が魚になる。

 全く考えたことが無かったわけではないが、それでも真剣に考えたことでもなかった。


   *


 沙緒里が魚になる。

 僕の沙緒里が、魚になる。

 沙緒里はゆらゆらと、水の中を漂う。


   *


 沙緒里は、魚になる。

 僕は、人のまま。


   *


「沙緒里、」

 かりっと、沙緒里の口の中で流れ星が砕けた音がした。

「病気、治そう」

 かりっと、沙緒里の口の中でこんぺいとうが砕けた音がした。

 沙緒里は少し、僕から離れる。「もう、いいじゃない。その話は」

「良くない」

「私はいい」

「沙緒里、」僕は、流れ星で甘くなった唾を飲み込んで云った。「魚になんかならないで欲しい」


 魚になんか。

 魚になんか、ならないで、欲しい。


 魚に……。


 沙緒里は、僕から顔を背けた。「……スナライオンって知ってる?」

 僕はただ突っ立って、言葉の続きを待った。

 風が沙緒里の髪をふわりと柔らかに弄んだ。

「浜辺にいるお寝坊ライオンで、夜になるとのっそり浜辺を歩くの。でも、その姿は月の光だけで作られた影だけ。砂ライオンは浜辺に落ちてくる流れ星が好物で、浜辺のあちらこちらで星が落ちて来るのを待っているの。流れ星ってお願い事を叶えてもらえるじゃない。だからもしお願い事があったのなら、砂ライオンに流れ星とこんぺいとうを交換して貰うの」

 沙緒里は僕に向き直った。

「さっき、お願い、した?」

 僕は、首を振る。

 沙緒里は、僕の手から最後のこんぺいとうを摘んで云った。

「私は、魚になる。」

 それを口の中へ放り込むと、かりっと噛み砕いた。

 かりっ、かりっ、かりっ。

 星への願いは沙緒里の口の中で、たぶん、溶けて、消えた。

 僕の口の中は、砂糖の甘さだけが絡むようにして残った。


   *


 その晩、僕はなかなか寝つけなかった。まんじりともせずに、幾度も身体の向きを変え、沙緒里の事を考えた。沙緒里が人でいるのに残された時間を考えた。

 早ければ、もうひと月の後には、沙緒里は魚になってしまう。

 もう、一緒に雪の降る街を窓に顔をくっつけて見ることも出来ない、一緒に春の街を歩くことも出来ない、一緒に夏の日差しを受けることも出来ない。話すことも笑うことも、出かけることも見つめることも、何ひとつできなくなる。

 ひと月。

 あと、ひと月。

 不意に、永遠に沙緒里が消えてしまうその事実に僕は怯えた。

 一巡する季節を、沙緒里と共にたったの一度も、もう体験することは出来ないのだ。

 永遠に話すことも笑うことも、何もかもなくなってしまうのだ。

 沙緒里。

 その名前を、沙緒里を前にして呼ぶことの出来る機会を僕は永遠に失ってしまうのだ。

 僕は上体を起こすと部屋のカーテン裾をめくり、沙緒里の家を見た。

 沙緒里の部屋に、仄かに明かりが灯っているのが見えた。

 沙緒里はまだ起きているのだろうか。

 僕は窓に顔を近づける。窓のすき間から夜風がひうと、薄く入ってきた。

 沙緒里の部屋で、カーテン越しにうっすらと影が動くのが見えた。

 それはゆらゆらと、動いていた。

 ゆらゆらと動く、影。

 ゆらゆらと……。

 まるで水の中にいるように、影はたゆたって見えた。

 冷たい、冷たい水の底での、けっして僕の、知りえない出来事のように。


   *


 同僚の妹が魚になると、その日初めて聞いた。

 少しふさぎ込んでいる様子だったので、どうしたのかと声をかけたら、彼はぽつりぽつりと語り始めた。

 ──妹は、治療を受けた。

 魚にならぬよう、治療を受けた。

 しかし彼の妹は、魚にならぬ代わりに、苦しそうに病院のベッドの上で、うめき続けていると云う。苦しくて、苦しくて、うめき続けていると云う。

 だが、どうしてやることもできない。

 魚にならぬよう。

 人でいられるよう。

 薬の分量は増え、しかし苦しみは一向に収まらず──。

 彼は、僕の目を真っ直ぐ見て、云った。

 魚になることが、そんなに悪いことなのだろうか?

 人でいることが、そんなに大切なのだろうか?

 自分がこうして、毎朝決まった時間に起きて、朝食を食べ、職場に来て、業務を遂行し、正午になれば昼食にし、また業務を遂行して、定時で仕事を終えて、タイムカードを切って、バスに乗り、病院へ見舞いに行く、その合間にも、絶え間なく妹は苦しくて苦しくて、息ができなくて、苦しくて苦しくて、口をぱくぱくとさせて、薬の分量ばかり増えて、ちっとも改善された様子も無く、苦しくて苦しくて、うめいて暴れて、医者だの看護婦だのに取り押さえられて、終いには鎮静剤を打たれて、でも眠りにつくまで、やはり苦しくて苦しくて、すっかり骨と皮ばかりに痩せてさらばえて──。

 薬で眠らせていても、それでは生きていると云えるのだろうか。いっそ魚になってしまえばずっと楽なのではないだろうか。むしろ、魚の方が幸せなのではなかろうか。……でも、魚の方が苦しいのかもしれない。たとえ苦しくても、人のままのほうが魚になるよりはずっとマシなのかもしれない。

 彼は自分の額に手を宛て、小さく呟いた。

 分からないんだ──。

 小さく、独言のように呟いた。

 魚になってみないと分からないのだ、どちらがいいのかだなんて。

 誰も、答えてはくれないのだ。

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