思い出
百姓の持ちたる国、と言われた越前であったが、その後は哀れであった。
百姓は生活が豊かになることを望み、本願寺は一向宗国家として越前の統治を進めようとしていた。石山から派遣された下間頼照は状況を理解していたのであろう。どちらの望みも独立できるだけの「力」が無くては成り立たないと。
頼照は石山から離れたこの地を防衛するため、百姓に多くの税を課した。皮肉にも前波(桂田)長俊が課した税の方が緩いものであり、百姓としては受け入れられるものでは無い。一向宗への信仰は苛政の一部を容認させるが、限度というものがある。まして一揆を起こした富田長繁は、百姓の暮らしが楽になると夢を見させ、一揆に参加させているのである。
人々が動き出したエネルギーというものは容易に鎮まらず、富田が一揆から追放されても動き続け、ついには越前を奪った。そしてまた、本願寺に裏切られたと感じた百姓達は、再び一揆を起こすのである。
越前の内ゲバによる崩壊序曲は、信長の下へも、石山にも届いた。
石山首脳陣は言葉も無い。信長との戦いにおいて、越前が自勢力であるということがどれほどのアドバンテージとなっていたか。近江を、美濃を窺う立場にあるというだけで、信長の動きを封じることが出来たし、同時に石山に向かう織田軍を減らすことにも繋がっていた。
「頼照が、か」
本願寺における重鎮を派遣し、越前の統治を完璧に進めようとした結果がこれである。恐らく頼照は典型的な学者肌の僧であったのだろう。政策を情ではなく、理で進めた結果、現実に足元を掬われ、また、自らが権力という悟りとは遠い世界の蠱惑的な力に溺れ、完全に道を誤ってしまった。
越前をどうするか、援軍は、撤退はと幕僚達が議論する中、教如は父に「門跡」と声を掛け
「越前が能わぬのであれば、信長の背を狙うべし」
と、進言する。
――若い
織田と敵対する本願寺の立場は、反信長連合とも言うべき包囲網によって維持できているのである。朝倉が滅び、武田に期待できぬ今、敵対関係の解消、いや、有態に言ってしまえば「どうやって利権を確保すべきか」検討せざるを得ない段階に入っているのである。
雑賀衆を呼び込むのも、信長に「戦を進めるのは損である」と認識させるためであり、これほど強大になってしまった信長の背を狙ったところで、届かぬうちに手痛い返り討ちに合うのが関の山である。
「心掛けだけでは、の」
現実を見ろと婉曲に伝えるが、残念ながら息子には伝わらない。士気やら信者やらと尤もらしいことを声高に語り、一部幕僚もそれに追随するようなことを言い出す始末である。
――狐が憑いたか
元々主戦派であったが、最近は更に過激に進んだようである。
――あぁ、越前の女狐か
越前の不幸を一身に背負った娘が、気付けば本願寺の将来を左右する存在になりつつある。
「教如よ」
顕如はそう強く呼びかけ、武田が動かぬ限り信長には勝てぬ、と、言い残して評定を終わりとした。胸に一抹の不安を抱きながら。
天正8年(1580年)、長年の抗争の末、顕如は信長と和平を結び、石山を明け渡すこととなった。どちらもこれ以上戦を継続することが不利益となる状況にあり、現実的な判断であった。
だが、究極の決断さえ、トップダウンを行えぬ場合もある。それが本願寺の現実であった。
「ここでも私は」
教如が石山明渡しとなりそうだと伝えると、四葩は静かに涙を落とした。
「再び城を落ちる憂き目に遭うというのですね」
ただの女の愚痴である、と言えばそれまでだが、四葩で初めて女というものを知った教如にとって、その言葉は何事にも代え難いものであり、彼の思考の重要な部分を占めていた。何よりこの夫婦は、出会った時から織田を憎み、織田と戦い、織田を苦しめ、そして織田に敗れようというのである。易々と現実を受け入れられるものではない。
感情は理性を凌駕し、日頃から織田への憎しみで凝り固まっていた二人は、石山を離れることを非とした。そして教如はその足で再び父の下を訪れ、感情のまま、自身だけでも最後まで戦うと伝えたのである。
「何を申すか!」
日頃は立場もあり、温厚を演じ続けた顕如でさえ、我が子の主張に声を荒げた。だが、女狐に取り込まれた息子は父の言葉に耳を傾けようとせず、一方的な通告をして場を終わらせたのである。
顕如は悩んだ。勅、という形で講和を進めた以上、ここで反故にしては本願寺の信用そのものを失わせることになる。また、講和の条件に加賀の2郡を与えるとの旨があり、体面的にも経済的にも講和は都合の良いものだったのである。結果として顕如は約束通り石山を出、石山には教如ら主戦派が残るという異常な事態になってしまった。
無論、このことは違反であるとの誹りを受ける。更に悪いことに、石山合戦の傭兵達が教如に追随してしまったのである。彼らは戦で給金を貰い、戦で生きている。顕如の手元資金だけで、彼らを養うことはできなかったのである。
四葩は一時の幸せを感じていた。自らの夫が自らと同じ想いで信長と戦い続け、忠義の士達が自分達の選択に付いて来てくれたのである。今で言うのならば教如は「理解ある夫」なのであろうか。
しかし、彼女の最後の幸せは長く続かない。
彼女達の平穏は荒木村重ら周囲の努力の上にあり、その周囲が崩れてしまえば平穏は失われることとなる。教如派の一部も詰めた花隈城の戦が終わると、石山内部の空気は一変した。それまで信長の首を取ると息巻いていた兵達も、補給も無く孤立した現状に気付き始め、生き残るための算段を始めたのである。当然のことながら、教如も自身の首の価値を理解しており、何より四葩を危険にさらすような真似をしたくはなかった。
幸か不幸か顕如の懸命な説得は続いており、教如は父に従う形を取り、石山を明け渡すことを受け入れた。四葩の悲しむ顔を見たくは無かったが、彼女の命を守ることが第一だったのである。
「済まぬこととなった」
開口一番、教如は四葩に頭を下げた。彼女の涙を見ることに耐えられなかった、という訳では無い。戦に負けた自らを、正面から見られたくなかったのである。
「石山が、織田のものに」
四葩は静かに応えた。取り乱すでも泣くでも無く、静かに座り、夫から視線を逸らすように天井に目を向ける。最近重々しく見えていた部屋の中が、今はやけに明るく見える。
「頭をお上げください」
何時まで経っても床を見続ける夫に声を掛け、思い出したように話を続けた。
「越前を出た日のこと、思い出しておりました」
山を越え船に乗り、石山に来て驚いたこと。教如が頼もしく、石山での日々が幸せであったこと。
「感謝申し上げこそすれ、恨みなどございませぬ」
――ただ
そう言いかけ、改めて教如の顔を見た。戦に疲れてはいるが、昔と変わらぬ優しい目をした夫であった。
四葩は開きかけた口を閉ざし、明るくなった天井を仰ぎ見てから再び口を開いた。
「私も、供に参ります」
天正8年8月、石山本願寺は信長の手に落ちた。
教如達は約定に従い加賀に向かった。多くの側近同様、長年四葩に付き添っていたくめも「もう歩けませぬ」と加賀行きを辞し、四葩達の旅程は身軽なものであった。
旅行というような気楽なものではなかったが、四葩にとって旅らしい旅はこれが初めてであった。夫と共に歩む北国街道は秋の色を見せ、一乗谷や石山城内で見た紅葉とは違うものの、その山が燃える様な見事な赤は四葩の目を楽しませてくれる。幸せの中にあると錯覚しそうな道であったが、落城の心労が祟ったのか、四葩は途中で体調を崩し、再び越前の地を踏むことなく、道中静かに息を引き取ったのである。
不思議なことに、四葩らが石山を出た後、石山本願寺内の松明の火が風で燃え移り、寺は三日三晩燃え続けた。四葩と教如が愛を育んだその場所は、信長の入城を待つことなく灰燼と化したのである。
終わらせ方が雑、という声が聞こえてきそうです・・・
この時代の女性の立場と、落城2回目の感情的な部分を考えれば、不完全燃焼的に終わるのもアリだろうと、こんな最後にさせて頂きました。
途中長く間が空いてしまい、期待して下さった方には申し訳ありませんでした。
最後までご覧くださいまして、ありがとうございました。
・・・戦国時代を史実に近付けつつ描くなら、男が主人公でないと難しいと感じています。
やはり空想の戦国が気楽で良いでしょうか・・・