5 秋の夜の演奏会
正彦はその日の夜のことをよく憶えている。
それは彼が高校3年生の11月のある金曜日のことであった。浩太朗はその晩渋谷のホールで行われる〇〇交響楽団の演奏会に父と妹と3人で聴きに行くことになっていた。だが父と妹は風邪をひいて咳がひどく、とても行けないというので代わりに正彦と母の摩利子にお誘いがかかったのである。
正彦も摩利子もクラッシックの生演奏なんてまだ一度も聴いた事がなかった。
2人は喜んで誘いを受けることにした。
渋谷で待ち合わせても良かったのだが、摩利子が郡司家の人たちに挨拶がしたいというので、正彦と摩利子は連れたって幸太郎の家を訪れたのである。正彦は、母と一緒に外出するのは何か照れくさくてめったに一緒に出かけたことがなかった。
以前2人で歩いていると友人に見られて
「また新しい彼女ができたんだね。」と冷やかされたことがあった。
「あれは母だ。」といっても全く信じでもらえなかった。
摩利子はその日クラッシックのコンサートに行くというので、普段は着ないよそ行きの服装で現れた。黒のジャケットに黒の膝丈のフレアスカートという服装は彼女を若々しく上品に見せた。腕には昔、黒木慶秋からもらった銀の腕時計をはめて、真珠のネックレスをしていた。
正彦はそんな母を見て、客観的に見ても彼が付き合っているどの女よりも美しく魅力的であると認めざるを得なかった。
正彦は、母の描いた絵をなるべく見ないようにしていた。風景画はいいのだが、人物画となると摩利子はモデルを雇うお金がなかったから、彼女自身をモデルにしていた。
最近「院展」に出品した「朝の哀しみ」という作品は、明けたばかりの空を背景に愁いを含んだ表情の女の上半身を描いている。
女は裸体で洗い髪、腰に白い布を巻いている。お椀を伏せたような形の良い乳房。正彦の眼にはその絵はあまりに生々しく直視するのが怖かった。
浩太朗の家は高台の高級住宅地にあった。2人が坂を登り切ったとき、ちょうど真っ赤な夕日が西の空に沈もうとしていた。ビル群の彼方の奥多摩の山々。2人は申し合わせたように立ち止まって見事な夕焼けを眺めた。
正彦は後になって振り返って、この日の晩秋の夕べにすべてが始まったのだと思った。




