Project - 3『Gates of Eden』
──こちょばい。
僕の実家である長崎では“くすぐったい”時、“こちょばい”と言う。福岡出身のやつで“こそばい”とか“こしょばい”と言うやつもいたが、まさか飛んで飛んでの北海道に住む人たちまでが“こちょばしい”という言葉を使っているなんて僕には思いもよらなかった。そう考えるとお母さんたちが赤ん坊をくすぐる時に「こちょこちょこちょ~」と言うあの“こちょこちょ”の「こちょ」というのは全国共通の擬音概念なのだろうか? 要確認事項である。
そんなわけで目がさめると“リョーマ”のやつが僕の鼻をこちょこちょとしていた。それほど珍しい鼻とも思えないが何か気に入るような部分があったのだろうか。リョーマはふにゃふにゃと何か告げようとしている。かわいいやつだ、よーちよーち、こちょこちょこちょ……人間には伝わる共通概念だとしても猫にこの“こちょ”は通じるのだろうか。まあ、いい。こういうのはニュアンスの問題である。
前回読んでない方のために説明すると“リョーマ”というのは僕が飼うことになった猫である。全身白い毛並みで脇のところに一ヶ所だけ黒い斑点がある、まあ、どこにでもいるような猫で……いや、葉加瀬博士はこいつをチームの一員だと言ったし──ということは飼っているというよりは部屋をシェアしている関係と言うべきなのだろうか。猫というより“同僚”という立場になるのだろうか。だが普通、同僚は鼻をこちょこちょしてルームメイトを起こすことはない──難しいところである。
さて、出勤初日であるのだ。シャワーを浴びた後、僕はリョーマを抱いてエレベーターで二階へと降りる。その二階にある卓球教室とネイルサロンの間にあるのが僕の神聖なる仕事場──葉加瀬二郎秘密研究所(はて、そんなネーミングだったっけかな?)なので……あるが……なんだこりゃ?
なにやら研究所の前に五六人行列ができているではないか。見ると黄色い看板に〇が描かれその○の中には“二郎”とぶっきらぼうに書かれている。ん……?
そうか、なるほど。
「あの~すみません、ここラーメン屋じゃないんで」と断りを入れると並んでた人たちは「んーだよ、ふざけんなよ」と舌打ちして散っていった。
「そういうわけですので博士、部屋の前にある黄色い看板に“二郎”。あれは御近隣の方々が誤解を招くおそれがあるのでやめた方がよろしいのではないかと」
「やあやあ、城之内くんおはよう。それにキューちゃん」
「キューちゃんではありません博士。“リョーマ”です。昨日会議で決定したじゃないですか?」
「ああ、そうだったそうだった」と博士がポンと手を鳴らした時、「ちわー、ゴーメンクダサイ!ゴーメンクダサイ!」とまたドアが開いた。
ターバンを頭に巻いた褐色の肌の男がぬっと顔を出す。リョーマがフーッと警戒の態度をみせた。
「お引き取りください。うちはラーメン屋ではありません」
「ラーメンジャナイネ、ゴーメンクダサイあるね」
「残念ながらゴーメン屋でもないです」
「No,No……」
「城之内くん、その人は荷物を届けにきたんだよ。御苦労様~」
「ちわー、テンプル騎士団デース。ゴチューモンの“エデンの果実”をお届けにマイリマシータ!」
ずいぶん変わった名前の店である。
昔、“新鮮組”なんていうストアがあったけどあれと似たようなもんなのか……?
「ここにオミートメお願いシマース!」
オミートメ? ああ、ハンコか。
「サインでいいですかね」
「どうもーっ、またのゴリヨウをお願いシマース」と、ターバンを巻いたそのテンプル某とかいう店の男は陽気に去っていった。僕の手にピンク色の変な果物を残し。
「なんですか、アレ?」
「なにってテンプル騎士団だよ」
「それはまあ、そう言ってましたしねぇ」
どう答えていいのかよくわからなかった僕はリアルとオカルト7:3、プラス社交辞令くらいで返事をしておく。
「“エデンの果実”? ……って、伝説のあの果実ですか」
「うむ」
「ホントにあるんですね~」
「ね」
「しかもホントに、まんま果実じゃないですか。フルーツじゃないすか」
「ね、びっくりだよね」
「はぁ~、こんなに簡単に手に入っちゃうもんなんですねぇ、ハッハッハ」
「まあ、彼ら的には相当苦労したんじゃないかな~とは思うけどね、ハッハッハ」
「そんな風には見えなかったけどなぁ……」
「さあ、それをミキサーにかけたまえ、城之内くん」
「ミキサー?」
「皮は剥かなくていいぞ。その皮にはダークマター・ポリフェノールという物質がたっぷり含まれてるからな」
僕は給湯室に行きミキサーを出す。そして言われるままに“エデンの果実”とやらをセットしてスイッチを入れた。ダークマターなんちゃらはとりあえずこっちに置いておくとしよう。うん。それよりなぜ僕はこんな朝食の支度みたいなことをさせられているのだろう?──そんなことを考えているとミキサーがガガガと鈍い音をたて始めた。
「うわ!」
……爆発した。
「あーあー、何をやってるんだね。“エデンの果実”が普通のミキサーでしぼれるわけないだろ?」と慌ててやってきた葉加瀬博士が床に転がったピンクの果実を拾い上げる。あれだけミキサーがバラバラに弾けとんだというのに、拳大ほどのその果実には傷ひとつついていなかった。
「こっちだ。こっちを使うのだ」と博士が出したミキサーはずしりと重かった。
「このミキサーは世界で二番目に硬いロンズーデーライトという物質で作られている。さらに刃においては……さあ、そこで問題です。世界で一番硬いと言われている物質は何かね、城之内くん」
「え、えーと……」
リョーマがにゃあと鳴いた。
「みろ、キューちゃんに先に答えられたぞ」
「キューちゃんではありません博士。“リョーマ”です。えーとですね、ボラゾン……いや、違うな。そうだ、ウルツァイト窒化ホウ素だ!」
火山性の残留物から得られる材料でできた物質である。高硬度鋳鉄切削などに使われたりもする……が。まさかね。
「ピンポーン!」
「えええっ!」
な、なんなのこの果実?
てゆーか、どこまでこのオカルト話に付き合えばいいの?
僕はそのスーパーウルトラ強度のミキサーにおそるおそる果実をセットするとスイッチを入れた。果実は音もたてずサラサラと削られていき、一分もしないうちに綺麗なピンク色のジュースが出来上がった。
博士はそれをグラスに注ぐと満足そうに光にかざして眺めた。
「……目玉焼きとトーストはどうします?」
「何を言っとるんだね君は。さあ、城之内くん、グッとやってくれたまえ」
「…………は?」
「飲むのだ、キミが」
「…………ぬ?」
「なんだ“ぬ”て。飲みたまえ。てゆーか飲め」
「じょ、上司が飲め飲めとせまるのはパワハラの一種ですよ!」
しかし……まあ、これも仕事のうちかとひとまずは小指の先に液体をつけておそるおそる舐めてみることにした。綺麗な色とは裏腹にねとりとからみついてくる液体は最初バリウムのような味覚を感じた。いや、むしろ魚にせよキノコにせよ色が綺麗なモノほど危険度が高いというよな……ホントに大丈夫なのかこれ?
やがて唐突に苦味と酸味が押し寄せてきた。いや、やっぱダメだろこれ! 脳がキョヒってるって!
僕は液体をぶほっと吐き出した。
「ああっ! な、なんちゅうことを。城之内くん!」
なにかよからぬ信号が発せられている。ニューロンがバチバチとそう告げている気がする。
「この一杯に地球の未来がかかってるんだぞ」
「地球はともかく僕の未来がなんか危険そうです」
そうやって飲めや飲まぬの押し問答をしてるうちにグラスが手から滑り落ちて割れた。ピンクの液体が床に飛び散る。
「「あーーっ!」」
気がつけばうにゃうにゃと鳴きながらリョーマがそれを舐めていた。
「な、なんということだ……」
「いや、しかしですね……。お、おい、リョーマ、舐めるなって。危ないって!」
「みろ、またキューちゃんに先を越されたぞ。情けないやつだ」
「博士、キューちゃんでもバケラッタでもありません。“リョーマ”です。おい、大丈夫か? 大丈夫なのか?」
急いで僕はリョーマを抱き上げた。リョーマはふにゃあと鳴くと不思議そうな顔で舌舐めずりをした。僕は少し腹立たしくなってきていた。それと同時に悲しくもあった。
「は、葉加瀬博士!」
「な、なんだねなんだね」
「どういうことなんですか、いったい? こんなショボい動物虐待してる間にも“クロフネ”たちは刻一刻と地球に向かってるんですよ! 我々に残された時間は──」
「城之内くん……」
博士はリョーマの顎を撫でた。ゴロゴロというあの猫独特の喉頭筋肉の収縮音が部屋に響き渡る。
「知ってるかね。猫がなぜ喉をゴロゴロと鳴らすのか? それはこの宇宙がどうやって始まったのか?──その謎と同じくらい、未だ解明されていないミステリーなんだよ」
「……?」
博士はリョーマの顎を撫でた。ゴロゴロというあの猫独特の喉頭筋肉の収縮音が部屋に響き渡る。
「…………」
博士はリョーマの顎を撫でた。ゴロゴロというあの猫独特の喉頭筋肉の収縮音が部屋に響き渡る。
「………………………………」
博士はリョーマの顎を撫でた。ゴロゴロというあの猫独特の喉頭
──いや、もういいって!
「で?!」
「は?」
「いや──猫のゴロゴロと宇宙の始まりがミステリーはわかりました。で?──で? なんなんですか?」
「いや、それだけだよ」
「普通なんか続くでしょ? そっからなんか、カッコいい台詞に繋がってくとか──あるっしょ? 普通?」
「いや、こないだ読んだブログにそんなこと書いてあったから誰かに言いたいなーって。それだけだよ。ハッハッハ」
“クロフネ”による人類滅亡の危機まで、あと9年と6ヶ月。我々の研究は今始まったばかりであった。
いや、そう思いたい。