11.遺す言葉
時折、自分が解離性同一症――いわゆる多重人格――なのではないかと思うことがある。
……いや、私自身の記憶や意識がはっきりしていて、自分がどうして今の行動を取っているかもわかる以上、それには当たらないということは重々承知している。私は、自らの意思で多くの動物を実験台とし、多くの罪なき人たちを殺している。そう、私はあくまで私であり、この身体のうちに宿る心は一つだ。わかっている。
それでも解離性同一症を疑う理由は、さして難しいことではない。私が、自分の行っていること一つ一つに対して相応の罪悪感と怒り、そして慙愧の念を抱いているから、それに尽きる。
それは、いまだに人間の心を維持しているからこそ抱く感覚だ。ハイアースの現代技術をもってしてもいまだ解明できない、複雑怪奇な人間の身体に宿る様々な感情の一部。それをデビルが有していればこそ、こんな考えを起こすのだ。
デビルの本能は、すべてを侵せと私にささやく。すべての生き物をデビルと化し、この星のすべてを青く染め上げろと。それが私の運命なのだと。
それは抗いようのない衝動であり、人間に当てはめるならば三大欲求にも比するだろう。
この本能に、私の心が言うのだ。
違う、と。
やめろ、と。
二つの異なる意思。これが、私が自身に解離性同一症があるのではと思うすべてだ。
無論、先ほども言ったが私は自らの意思で多くの罪を犯している。抗えないデビルとしての本能がそうさせるのだから――その罪から逃げるつもりはないが――仕方がない。私はまさに、人に仇なす悪魔に他ならないのである。
二つの意思がせめぎ合う私の心は決して安定してはいないが、日ごろから調子のいいことを言いふらしているおかげで疑う者はいなかった。今まさにこの瞬間まで、誰にも疑われることなく――いや、あの出来の良すぎる一番弟子とそのメイドは気がついていたかもしれないが――、私は人として生きてきた。
だが、それがいつまでも続くとは思わない。このような矛盾した精神は、いずれ崩れてしまうだろう。だからこそ、私は自らにできることを模索することにした。
この右手に星屑が宿り、遠からぬ死を未来視したあの日、私は決心したのだ。デビルになるならそれもいいと。私は元々、デビルをもっと積極的に調査し、デビルハンターたちの生存率を上げるべきだと思っていた。自らに最も近い場所、すなわち自らが実験台になるならば、それもいいと思ったのだ。
青い運命が私を侵すならば、それすらも利用してやろう。
そうして私は、秘密裏にデビルの研究を始めた。この身体に宿った星屑を余すことなく利用し、デビルを倒す力をロウアースに与え続けた。
それは十年に及び、気づけば私は人間としての自我を維持したまま完全なデビルとなっていた。身体に苦痛はなく、異形化の兆しもない。至って健康体のまま、私は今の身体となっていたのだ。
どうしてこの結果に至った理由は、はっきりとはわかっていない。運が良かったのか、それとも何か他に要因があったのか……あるいはその両方か。
ともあれ、それに気がついた時、私はこれこそ私がすべきことだととっさに思った。元の存在の意識、間隔、記憶を維持したままデビルになれるならば――これはすなわち、ある意味でデビルという最大の敵を駆逐したことになりうるのではないのか。デビル化した上で、デビルの本能を乗り越えることができたなら……それは、それこそが、人類のデビルに対する勝利と言えるのではないか、と。
残念ながら私はデビルの本能を有していたので、完全とは言えない。ならば。
そう思えば、私は早速行動を開始することにした。動物実験を繰り返した。この過程で、ミッドランドを万全足らしめる重力制御装置がこの国のデビルの源泉だということ、血液感染でデビル化が進むすること、異能力を獲得する個体が全体のおよそ半数に及ぶこと、デビル化を遅延させる抗生物質の獲得など、色々な成果を得ることができた。最初のものはまあ、表沙汰にすべきではないと高度な政治判断を行ったが。
過程や方法はともかくとしても、私はデビルでありながら人間として、この世界の秩序を願って研究を進めてきた。そしてそのいずれもが、ロウアースにとっては良い成果になったと言っていいだろう。
だが半年前、遂に恐れていたことが起きた。あの子が星屑に感染してしまったのだ。
あの子は私にとって、この世界で唯一の身内だ。生まれたばかりの娘といまだ若い妻を残してロウアースに落ちた私にとって……たとえ自らの力不足で救いきれなかった子であっても、そんな責任感から引き取った子であっても、私にしてみれば、たった一人の身内だった。
危なげなくデビルハンターをこなしていた彼の感染源が、恐らく私だろうという仮説には乾いた笑いしか出なかったが、とにかく私は考えた。彼を救うにはどうすればいいのか。考え、調べ、そしてやはりデビルを人間に戻す方法はないとわかり……最後に、長年の研究の中に答えを得た。
すなわち、人間としての記憶と自我を維持したまま、デビルの本能を持たずにデビル化する。これ以外に、彼を救う方法はない。そう判断するに至った。
そうだとわかれば、もはや深く考えている余裕はなかった。事態は一刻を争う。もはや、人道的なことをあれこれと気にする段階ではなかったのだ。ただでさえ、危ない橋を渡っていた。それが完全にレッドゾーンへと振り切れるのに、大した時間はかからなかった。
それからは、ミッドランドのデビル事件は爆発的に増加した。実験と称して、私が星屑をばらまいていたのだから当然だ。
それを許してもらおうとは思わない。決して許されることではないことはわかっている。
だが、それでも私は、彼を失いたくなかったのだ。不完全な……そして、極めていびつな親心と言っていいだろう。どのような誹りも甘んじて受ける。
それでも、そうだとしても、私のこの気持ちは……この想いは、嘘偽りのないものだから。妻の故郷、ジャパンの言葉で言うならば、天地神明に誓って。
この手記は、私の身内――まさか生き別れた娘にこのロウアースで会うとは思わなかったが――や弟子たちのいずれかが見ることになるだろう。赤の他人が見る可能性も否定はできないが、それはほぼないと言っていいだろう。それだけ私の人付き合いは少ない。そしてはっきりと誰が最初に手にするとは断言できないが、これを手にする機会を得た誰かもわからぬ君に、一つお願いがある。
ここに書かれた内容を公表するタイミングは、すべてが終わってからにしてほしいのだ。
今私がしていることは、人道的に許されない人体実験にも等しい。おまけにぶっつけ本番だ。それでもこれを阻止されてしまったら、もはや彼を救うことはできないし、かすかに開かれたデビル化の治療への道も閉ざされてしまう。
だから、すべての公表はすべてが終わってからにしてほしい。私が完全な死を迎える、その時まで。この手記を遺書として扱ってくれるのであれば、私はもう何も望まない。
さて……ここから先は、ハイアースとロウアースを行き来する方法、それから私がこの半年という短い期間の中で、急きょ推し進めたデビル研究とその成果をつづる。後者を具体的に言うと、デビル化のプロセスと自我を保ったままデビル化する方法となる。
もちろん、十年続けた研究を基礎にしているとはいえ、所詮は急造の理論だ。最も重要な個所を、正確に確認できていない他人の異能力に頼る必要もあるし、他にも穴はあると思われる。最大の懸念は、この理論の前提が私の『デビル化を心底から受け入れた人間ならば意識を残す』という、突拍子もない仮説に基づいていることだ。
最後の仕上げは私が直接この目で確認するつもりだが、それを確認してから論文の仕上げを書き上げる余裕はないことは火を見るより明らかなのだし……。
▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼
「よお、久しぶり」
「やあ、スウォル。君がうちに来るなんて珍しいじゃあないか!」
タイピングの手を休めてナルターが振り返れば、そこには酒瓶を手にしたスウォルがにい、と笑って立っていた。相変わらず、何をしても絵になる男である。
「いや何、リーブの今後を話し合おうと思ってな」
「……それはとても、重要だね」
スウォルの提案は、至極真面目なものだった。その割に酒瓶があるわけだが、それはある種の潤滑油というものであり、また土産という意味もあるだろう。
ともあれナルターは、肩をすくめながらもテーブルの上に散らかっているものを手当たり次第にどかすのであった。
「肴は用意できないよ?」
「いいってことさ」
「ではひとまず座っていてくれたまえよ。ちょっと今書き物をしていてね」
「わかった、そうさせてもらうよ」
片付いた――と言っていいものかどうか――テーブルに着いて、スウォルはうっすらと笑う。
そんな彼に背を向けて、ナルターは作業を再開した。しばらく、タイピング音だけが研究室内に響き続ける。
ちなみに彼が向かう機械。どこからどう見てもパソコンだが、ハイアースのそれとは違う。ディスプレイ自体は代わるものがあるとはいえ、電気がろくに使えないロウアースで動力の代わりを務めるのはやはり発条機関であり、そのサイズはハイアースのそれと比べるとはなはだ大きい。ゆえにロウアース、ことミッドランドにおけるパソコンは貴重品だ。金銭的な意味ではない。スペースおよび重量的な意味だ。
「……なあおやっさんよ」
「なんだい?」
筆が乗ってきたナルターに、スウォルが声をかけた。
「リーブのこと、どう思う?」
その問いに、一瞬だけナルターの手が止まる。
「……助けられるなら助けたいけどね」
「……よかったよ」
「どういうことだい?」
スウォルの言葉の意味がわからず、思わずナルターは振り返った。
スウォルは目を細め、しかし鋭い視線をナルターに注いでいた。その眼光は頼れるリーブの兄貴分としてのそれではなく、ましてやナルターの後輩としての目でもない。それは、デビルハンターとして、戦場を駆けるものとしての目だった。
「義理の息子が死にかけてるんだ。にもかかわらずこうやって研究所にこもってる、勘違いされてもおかしくないだろ」
「……確かに。でも、人には人それぞれの悲しみ方があるからね」
「わかってるよ。心のうちが聞きたかっただけなんだ」
「……そう、かい」
いつものようなテンションを見せることなく、改めてスウォルに背を向けたナルター。だが彼の目は、直前に見たスウォルのそれに触発されたのか、往年のデビルハンターらしい目に戻っていた。ぎらぎらとした、獲物を狙う――かつての最強の目。
タイピング音が再開される。ゆっくりと、時間が流れていく。
「なあおやっさんよ」
「なんだい?」
「報告は一応しておくぞ。リーブだが、恐らく今夜、日付が変わったあたりで麻酔が切れる。そうなったら、……残念だが殺すしかない」
「麻酔が解ければデビル化が再開してしまうものね。峠は思ったよりすぐか……」
「そうだ。でもその前に、やれることはやっておきたい」
「というと?」
今度は手を休めずに、ナルターは問いだけを返す。
「カイトに動いてもらおうと思っている」
返ってきた言葉に、今度はナルターも手を止めた。その口元には、小さく笑み。
が、それをスウォルに見せることなく、もう一度タイピングを再開する。
「カイトなら、身体はなんとかできるだろう。……もしかすると、対話もできるかもしれない」
「そうだね、私もそう思う。そしてきっと、リーブを救うにはそれ以外に方法はないだろうね!」
「……同意見か。そうだよな……あいつの能力を知ってたら、同じ結論になるよな」
「彼女が今平穏に暮らしているのも、恐らくはその能力のおかげだろうしね!」
「まあ一か八かになるけどな。それでも、やらないよりはマシだ」
「大丈夫さ」
スウォルのため息に、ナルターは断言した。そして、また彼へと振り返る。
「私は確信している。彼女さえ手を貸してくれるならば、リーブはリーブとして戻ってくるだろう、とね」
「……やけに自信満々だな?」
「研究の成果から、そう言うのさ。もっとも、青い運命に飲まれている可能性は否定できないけどね」
「それはそりゃそうだ」
がはは、と笑うナルターに、スウォルも笑った。悲壮感はなく、ただ現実を粛々と受け入れる、そんな姿勢で。
そして、改めてスウォルが口を開く。
「なあおやっさんよ」
「なんだい?」
三度目の呼びかけに、ナルターはタイピングをやめた。そして直前まで操作していた画面から、印刷を実行する。
それからしばらく、プリンターが動く音だけが続いた。スウォルが続きを口にしたのは、それが終わった直後である。
「自首してくれねえか?」
その言葉に、打ち出された書類を確認していたナルターの手が止まる。
そして彼はゆっくりと、それこそもったいぶるような速度でスウォルへと振り返った。何度目になるかという相対は、にらみ合うような形となる。
と。
ナルターの口端が、上がった。
彼は、笑っていた――。
いよいよ物語も佳境に差し掛かって参りました。
あと4,5話くらいになるかと思います。