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project HERITAGE〜滅びゆく人類が遺した、最後の一閃〜  作者: やまぐっち
第1章 最後の一閃

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第3話 計算された子供たち

 円卓には、七つの椅子が並んでいた。


 かつてこの部屋は、世界各国の代表が集い、資源配分や気候対策を議論する場だった。壁一面には、今では意味を失った各国の国旗が並んでいる。国境という概念そのものが、既に形骸化して久しい。生き残った人類にとって、もはや「国」という単位は、過去の遺物でしかなかった。


 残された科学者と技術者、わずか二十数名からなる評議会。それが、人類の意思決定を担う最後の組織だった。


 リアム・ヴォスとダリウス・コーンは、円卓の中央に立ち、二人が発見した「二つの周期の一致」について、説明を終えたところだった。


 沈黙が、部屋を支配していた。


 最初に口を開いたのは、評議会の長老格にあたる老女、生命科学部門の統括者イレーネ・パーカーだった。白髪を短く刈り込んだ彼女の目には、深い皺の奥に、まだ消えない鋭さが宿っていた。


「四億六千万年後、か」


 彼女は言葉を噛みしめるように呟いた。


「わたしが子供の頃、祖母がよく言っていたわ。『百年先のことを考えるのが、人間にできる一番遠い想像だ』って。あの人が生きていたら、この数字を聞いて、何と言うかしらね」


「理解の範疇を超えているのは、承知しています」


 リアムは答えた。


「ですが、だからこそ意味があると考えています」


 その時、円卓の端から、鋭い声が飛んだ。


「意味がある、で片付けていい話じゃないでしょう」


 声の主は、サラ・キーンだった。この評議会に残る、数少ない医師の一人だ。彼女の目の下には、深い隈が刻まれている。この数週間、彼女がほとんど眠っていないことは、誰の目にも明らかだった。


「私は今朝も、三人の子供を看取りました」


 サラは、感情を抑えようとしながらも、声の端に隠しきれない震えを滲ませていた。


「一人は、七歳でした。最後まで、母親の名前を呼んでいました」


 彼女は、そこで一度、言葉を止めた。喉の奥で、何かを飲み込むような、短い沈黙だった。


「脱水と、栄養失調です。手を尽くしましたが、私たちにはもう、点滴の一本すら満足に用意できない。そんな状況で、あなたたちは、四億六千万年後の、まだ生まれてもいない誰かの話をしている」


「サラ」


 イレーネが、静かに彼女の名を呼んだ。だが、サラは止まらなかった。


「打ち上げには、莫大な電力と資材が必要になるはずです。今、私たちの目の前で死んでいく人々を救うために使えるはずの資源を、確率も分からない賭けに注ぎ込む。それが、正しい選択だと本当に思っているんですか」


 部屋に、重い沈黙が落ちた。誰も、その問いに、すぐには答えられなかった。


 リアムが、口を開いた。


「あなたの言葉は、正しい」


 彼は、静かに、しかしはっきりと言った。


「今この瞬間にも、救える命がある。それを脇に置いて、遠い未来の話をすることに、罪悪感がないと言えば嘘になります」


 彼は、無意識にポケットの中の写真に触れた。


「私自身も、目の前で救えなかった命があります。だから、あなたの言葉の重さは、分かっているつもりです」


「分かっているなら、なぜ」


「ですが」


 リアムは、サラの言葉を遮った。


「今、私たちが持っている資源を、全て今の延命に注ぎ込んだとして、その先に何がありますか。半年、一年、あるいは十年。それで人類の終わりが、少し先に延びるだけです。滅びそのものは、もう覆らない」


「だからといって」


「だからこそ、です」


 リアムの声に、初めて強い感情が滲んだ。


「終わりが避けられないなら、その終わりに、意味を持たせたい。今を生きる誰かの一日を犠牲にしてでも、この星の未来に、何かを繋げたい。それは、身勝手な望みかもしれません。ですが、私にはこれが、今の私たちにできる、最後の抵抗のように思えるんです」


「抵抗、ですか」


 サラは、低く笑った。笑いというより、乾いた息に近かった。


「それとも、ただ逃げているだけじゃないんですか。目の前の、救えなかった誰かから」


 リアムは、何も言えなかった。


 言葉が、喉のところで止まった。ポケットの中の写真の感触が、急に重く感じられた。図星だったのか、そうでないのか、自分でもとっさに判断がつかなかった。


「……」


 沈黙が、数秒続いた。それは、これまでの彼にしては珍しい沈黙だった。


「かもしれない」


 やがて、リアムは、絞り出すように言った。


「否定できません。これが、逃げなのか、抵抗なのか、正直、自分でも境目が分からない時がある」


 彼は、サラを、まっすぐに見た。


「それでも、動くしかないと思っています。立ち止まっている自分より、まだましだと」


 サラは、しばらくリアムを睨みつけていた。だが、彼女の目にあったのは、怒りだけではなかった。そこには、リアム自身と同じ種類の、深い疲労と、行き場のない喪失が滲んでいた。


「抵抗、ね」


 彼女は、低く呟いた。


「あなたたちの抵抗のために、あとどれだけの人が、犠牲になるんですか」


 誰もその問いに、答えを持たなかった。


 沈黙を破ったのは、工学部門を率いる壮年の男、セドリック・ラオだった。彼は、いつも通りの落ち着いた声で、議論を引き取った。


「議論を整理させてほしい。論点は二つに分けられる。第一に、この計画に、科学的な妥当性があるかどうか。第二に、限られた資源を、この計画に割くことが、倫理的に正しいかどうか。この二つを、混同すべきではない」


「セドリック、あなたはいつもそうやって、話を分解して、感情を抜き取ろうとする」


 サラが言った。


「悪いが、それが僕の役目だ」


 セドリックは、表情を変えずに答えた。


「感情を抜きにして議論できる人間が、この場に一人もいなければ、僕らは結論を出せないまま、議論だけで残り時間を使い果たすことになる。まず、第一の論点について、僕の見解を述べたい」


 彼は、スクリーンに新たな資料を映した。


「リアムとダリウスが示した、二つの周期の一致。これ自体は、統計的に見て、無視できない相関だ。もちろん、これだけで因果関係が証明されたわけではない。だが、少なくとも、追加調査に値する仮説だと、僕は判断する」


「調査するだけなら、まだいい」


 サラが言った。


「問題は、そこから先だ。調査の結果次第では、あなたたちは、この計画に、全てを注ぎ込むつもりなんでしょう」


「その通りだ」


 ダリウスが、初めて口を挟んだ。彼にしては珍しく、いつもの軽さがなかった。


「隠すつもりはない。俺たちは、これに賭けたいと思ってる」


「賭け、ね」


 サラは、皮肉めいた笑みを浮かべた。


「あなたたち科学者は、いつもそう。確率の話を、まるで信仰みたいに語る」


「信仰じゃない」


 ダリウスは、まっすぐサラを見返した。


「信仰は、根拠がなくても信じることだ。俺たちが今話してるのは、根拠がある方に賭けるかどうかの話だ。全然、違う」


 二人の間に、火花のような緊張が走った。それを鎮めるように、イレーネが、ゆっくりと立ち上がった。


「二人とも、少し落ち着きなさい」


 彼女の声には、長く生きてきた者だけが持つ、静かな重みがあった。


「わたしはね、サラ。あなたの怒りが、正しいと思っている。今を生きる人々を見捨てるような選択は、わたしも支持しない」


「では」


「でも、リアム。あなたの想いも、間違ってはいない」


 イレーネは、円卓を囲む一人ひとりの顔を、ゆっくりと見渡した。


「わたしは、この星が緑だった頃を覚えている、最後の世代の一人よ。子供の頃、庭には蝶が飛んでいた。あなたたちの多くは、写真でしか、それを知らないでしょう」


 部屋の空気が、少しだけ変わった。


「わたしたちの世代は、この星を、ここまで追い詰めた責任の一端を背負っている。だからこそ思うの。もし、今の延命だけに全てを使い切って、何も遺さずに終わるとしたら、それは、二重の意味での敗北だと」


「敗北、ですか」


 サラが、静かに聞き返した。


「ええ。わたしたちが生きた証を、何も残せなかったという敗北。そして、わたしたちが繰り返した過ちを、次の誰かに伝える機会すら、失うという敗北」


 イレーネは、サラの目を、まっすぐに見つめた。


「サラ、あなたの患者を、今すぐ全員救う方法は、もうこの世界にない。それは、あなたが一番よく知っているはずよ。わたしたちにできるのは、限られた資源の中で、何を優先するかを選ぶことだけ」


 サラは、何かを言いかけて、言葉を飲み込んだ。


「わたしは、両方を、少しずつ選びたいと思っている」


 イレーネは続けた。


「全てをこの計画に注ぐのではなく、今を生きる人々のための最低限の医療と食料は、これまで通り確保する。その上で、余力を、この計画に振り向ける。全か無かではなく、その間の道を探る。それが、わたしの提案よ」


 部屋に、それまでとは違う種類の沈黙が満ちた。


 その時、部屋の隅で、ずっと黙っていた若い研究者が、遠慮がちに手を挙げた。通信技術を専門とする、ノア・ブリッグスだった。


「あの……発言してもいいですか」


 全員の視線が集まると、彼は一瞬たじろいだが、それでも続けた。


「僕は、まだ経験も浅いですし、偉そうなことを言える立場じゃないと分かっています。でも、一つだけ、確認させてください」


 彼の声は、緊張のためか微かに震えていた。


「僕らは今、途方もない賭けをしようとしています。四億六千万年という時間の果てに、本当に知性を持つ何かが誕生している保証は、どこにもありません。もし何も生まれていなかったら……サラさんが言うように、僕らは今を生きる人々の一部を犠牲にして、誰にも届かないものを、虚空に放つだけになる」


「その懸念は、正当だ」


 セドリックが答えた。


「だからこそ、今回の決定は、全てを賭ける決定であってはならない。イレーネの提案通り、段階的に進めるべきだ。まず、限られた資源で、探査機の基礎設計と、軌道計算の精度向上に着手する。全面的な資源投入の判断は、その結果を見てから、改めて行う」


 サラは、しばらく黙っていた。やがて、深く息を吐いた。


「……分かりました。段階的に進めるという条件なら、これ以上、強くは反対しません」


 彼女は、円卓を囲む面々を、一人ずつ見渡した。


「でも、覚えておいてください。わたしは、賛成したわけじゃない。反対を、一旦、保留にするだけです。もし、この計画のために、目の前の誰かの命が、これ以上失われるようなことがあれば、わたしは何度でも、この場でこの話を蒸し返します」


「それでいい」


 リアムが言った。


「その緊張感を、忘れるべきじゃないと思う」


 イレーネが、円卓を見渡して言った。


「賛成する者は」


 彼女がそう問いかけると、円卓を囲む顔ぶれの中から、一人、また一人と、静かに手が挙がっていった。


 拍手をする者は、一人もいなかった。


 誰も、勝ったとは思っていなかった。誰も、自分たちが正しいと、言い切れる者はいなかった。それでも、人類は、進むことだけを選んだ。


 サラは、最後まで手を挙げなかった。だが、それ以上、声を荒げることもなかった。彼女は、ただ静かに、円卓の中央――リアムとダリウスの立つ場所を、じっと見つめ続けていた。


 こうして、正式に一つの計画が始動することになった。後に「継承計画」と呼ばれることになる、人類最後の事業。それは、全員の合意ではなく、消えない亀裂を抱えたまま、静かに動き出した。


 会議が終わり、人々が三々五々、部屋を後にしていく中、リアムは一人、窓の外に広がる乾いた大地を見つめていた。


 サラの言葉は、今も彼の胸の奥に、重く残っていた。彼女は間違っていない。今この瞬間にも、救えるはずの命がある。それを脇に置いて、自分は、まだ見ぬ未来の子供たちのことを考えている。


 その矛盾を、彼は否定するつもりはなかった。ただ、その矛盾を抱えたまま、前へ進むしかないのだと、彼は自分に言い聞かせていた。


 自分はもう、この星で生きる子供たちを、これ以上救うことはできないかもしれない。だが、時間という卵の中で、まだ見ぬ未来の子供たちの誕生を、遠くから見守ることはできるかもしれない。


 乾いた風が、窓を鳴らした。


 リアムは、静かに目を閉じた。


 その風の向こうで、まだ生まれてもいない誰かが、確かに息をしているような気がした。そして同時に、今、この星で息を引き取っていく、名も知らぬ子供たちの気配もまた、彼の耳から、離れることはなかった。

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