第1話 飢えた大地
本作は、4億6000万年という途方もない時間軸を舞台にしたハードSFです。
天文学・地質学的な考証を踏まえながら、滅びゆく人類が遠い未来へ何を託せるのかをかいていきます。
派手なバトルや異能力は登場しませんが、科学と、人と人との選択が織りなす物語をお楽しみいただければ幸いです。
空はもう、青くなかった。
正午だというのに、大地に落ちる光は錆色に濁り、地平線の向こうでは絶えず黄土色の砂嵐が唸りを上げていた。かつて水を湛えていた盆地は、ひび割れた粘土の平原と化し、その亀裂の一つひとつが、干からびた喉のように天を仰いでいる。
観測拠点シェルターの分厚い強化ガラス越しに、天文学者リアム・ヴォスはその光景を見つめていた。もう何年、この赤茶けた沈黙を眺め続けているだろう。数えることすら、いつしかやめてしまった。
風がガラスを叩く。細かな砂粒が無数の爪となって、建物の外壁を絶え間なく削っていく音だった。この音を、彼はもう子守唄のように聞き流せるようになっていた。慣れとは、恐ろしいものだ。絶望にすら人は慣れてしまう。
彼の手の中には、小さな写真が一枚あった。表面は経年劣化でわずかに変色し、端は毛羽立っている。そこに写るのは、今はもういない、二人の人間だった。
妻のエレナ。そして、娘のミア。
六年前、水源の枯渇をめぐって起きた暴動の中で、二人は還ってこなかった。あの日、リアムは観測任務で拠点を離れていた。帰ってきたとき、彼が受け取ったのは、二つの名前が記された、簡素な記録票だけだった。
それ以来、彼はこの写真を、肌身離さず持ち続けている。だが、写真を見るたびに込み上げる感情に、名前をつけることを、彼はずっと避けてきた。悲しみと呼ぶには、あまりに乾いていた。怒りと呼ぶには、あまりに諦めが染みついていた。
背後で扉が開き、乾いた足音が近づいてきた。生態学者のマヤ・レンだった。彼女の白衣には、もう何日も洗われていない疲労の匂いが染みついている。
「北方培養槽、また一つ死んだわ」
感情の抜け落ちた声で、彼女は告げた。地下深くに設けられた最後の農業プラント。人工光と循環水で辛うじて生かしてきた作物たちが、また一区画、枯れ果てたという意味だった。
「原因は?」
リアムは写真をそっとポケットにしまいながら尋ねた。
「わからない。土壌のミネラルバランスが、もう限界を超えているみたい。私たちが手を加えれば加えるほど、大地は応えてくれなくなっていく」
リアムは何も言わなかった。言葉を継ぐ意味が見出せなかったからだ。
半世紀前、いや、それよりずっと前から、警告は繰り返し発せられてきた。海洋の循環は静かに止まり、大気は薄い膜のように弱り、氷冠は音もなく痩せ細っていった。人類はその都度、技術で穴を塞いできた。だが穴は増える一方で、塞ぐための資材は、既に底を尽きかけていた。
そして今、最後の閾値を超えたことを、誰もが理解していた。
救いの手は、どこからも来ない。移住可能な系外惑星への道は、燃料と時間の両方の壁の前に、とうに閉ざされていた。かつて夢見た方舟計画は、青写真のまま塵をかぶっている。動かす力を持つ者は、もう誰もいなかった。
窓の外、遠くの丘に、廃墟となった旧都市の輪郭が霞んで見える。かつて何百万もの生活の灯がともっていた場所は、今や骨組みだけの墓標と化していた。あの鉄とコンクリートの残骸もまた、いずれこの星の一部として、静かに土へと還っていくのだろう。
マヤが隣に立ち、同じ景色を見つめた。
「ねえ、リアム。私たちがいなくなった後、この星はどうなると思う?」
問いかけに、彼はすぐには答えられなかった。ポケットの中の写真の感触が、指先にまだ残っていた。ミアが生きていたら、今頃どんな年齢になっていただろうか。何を学び、何を夢見ていただろうか。答えの出ない問いを、彼はもう何百回と、自分に投げかけてきた。
そして、その問いはいつしか、もっと大きな問いへと姿を変えつつあった。
自分の娘に、何も遺してやれなかった。それなら――この星そのものに、何かを遺すことはできないだろうか。
「終わりじゃない、と思いたい」
やがて、彼は静かにそう答えた。
「この星は、私たちがいなくなっても回り続ける。太陽の周りを。銀河の中心の周りを。何もかもが終わったように見えても、時間だけは、決して止まらない」
マヤは怪訝な顔をした。彼の言葉に、いつもとは違う響きを感じ取ったのだろう。
「あなた、最近ずっとその話ばかりね。銀河がどうとか、周期がどうとか」
「気になっていることがあるんだ」
リアムは、ようやく言葉にした。
「まだ、うまく説明できない。でも……もし、何かを本当に遠くへ届けられるとしたら。届く先に、誰かがいるとしたら。それは、無意味じゃないと思うんだ」
マヤは、しばらく彼の横顔を見つめていた。彼女は何も問わず、ただ静かに頷いた。彼女もまた、この六年間、リアムが何を抱えて生きてきたかを、知っていたからだ。
風がまた強くなった。錆色の空の下、干上がった大地は、まるで何かを待ちわびるように、静かに、静かに、震え続けていた。
人類に残された時間は、もう長くはない。誰もがそれを知っていた。
だが、この日を境に、リアム・ヴォスの中で一つの問いが、確かな輪郭を持ち始めていた。
――もし、私たちの声を届ける先が、「今」ではないとしたら。もし、届けた先に、まだ見ぬ誰かの子供たちがいるとしたら。
その問いはまだ、形を持たない小さな種に過ぎなかった。しかしその種は、リアム自身も気づかぬうちに、失われた娘への贖罪にも似た、静かな執念へと育ち始めていた。
乾いた大地の下で、まだ誰も知らない未来への鼓動が、静かに、始まろうとしていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第一話では、物語全体の出発点となる「絶望」を書きました。
ここから、人類がどのようにして希望を見出していくのか、次話以降ですこしずつ明らかにしていきます。
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また、本作はまだストックが少ないため、更新は1〜2日に1話程度のペースを予定しています。
気長にお付き合いいただけると嬉しいです。




