音の中を歩く
いつものようにバスに乗り、アタマは学校へと向かう。
いつもはビクビクしているが、今日は心に余裕があった。
(はあ、私が住んでいる場所って、治安は良いはずなんだけどなぁ)
なぜこうも怯えなければならないのか、とアタマは心中で項垂れる。
(……本当、嫌な音が聞こえないって、すごく楽……)
しみじみとその事実を噛みしめ、道中の楽しみである小説を読む。
と、視界の端に花が咲いた。
白とピンクのコスモスだ。
顔を上げると、運転手に向かって何やら文句を言っている人が見えた。
その人が口を動かす度、花が咲き乱れる。
(な、何を言っているんだろう)
いつもは耳を塞ぎたいと思うのに、聞こえないとなると気になってしまう。
くーの頭を撫で、『ON』にする。
すると、思っていた以上の大声が耳に届いた。
「だからぁ、なんで信号が青なのに発進しねぇのかって聞いてんだよっ!……時間調整?んなのそっちの都合だろうが!見ててイライラすんだよっ!!」
酔っているのか、呂律の回っていない怒鳴り声が響く。
朝から元気だな、とアタマは僅かに呆れを覚えた。
が、そんな思いは「ダンッ」と床を踏む靴の音に潰されてしまう。
「見ろ、赤になったじゃねぇかっ!」という怒声が耳に届く。
次いで、人差し指で苛立たし気に手すりを叩き始めた。
舌打ち、バスの手すりを叩く音、……全てが怖い。
アタマは急いでくーの頭を撫でると、『ON』から『OFF』に切り替える。
すると、視界に花畑が戻って来た。
嫌な音が消えた。
たったそれだけのことで、安心感が段違いに跳ねあがる。
痛かった胃が、スッと軽くなったような気がした。
そっと息を吐き出し、小説に視線を落とす。
周りの乗客と同じように下を向いてしまえば、もう気にならない。
耳に届くのは、バスのアナウンスと振動で何かが揺れる音だけだ。
(……運転手さんにも、この力があったら……ああでも、「なに客のこと無視してんだよっ!」って怒鳴られて、最悪、暴力沙汰に発展するかもしれないのか)
アタマは、許袁呂の言った意味が、分かったような気がした。
聞きたくなくても、気がざるを得ない『音』はあるのだ。
そっと顔を上げ、運転手に怒鳴っていた人を見る。
発進したことに満足したのか、『普通』の顔に戻っていた。
眉を顰めてもいない、いたって『普通』の表情。
どこにでもいる……いや、穏やかささえ感じてしまう。
(ぱっと見は、すごく大人しそうな人なんだけどなぁ。ああでも、世の中ってそんなもんか。ネットで誹謗中傷している人だって、暗い部屋でパソコンやスマホを睨みつけているんじゃなくて、晴れ渡った空の下で、涼しい顔をして片手間にしている人もいるだろうし……)
そんなことを考えながら、アタマは視線を運転手に移す。
ミラー越しに見えるのは、優し気で、ちょっと気弱そうな顔の人。
(……あの人も、筋骨隆々の見た目か、体中にヤバいオーラを纏わせていたら、さっきみたいに怒鳴られることもなかったんだろうな)
アタマは心中で「人を選んで怒鳴りやがって、情けない奴っ」と吐き捨て、すぐに自己嫌悪に陥った。
(…………私も結局は、見ていただけ……)
鼻を啜った音は、小さなタンポポになり、消えた。
■
休み時間。
アタマは鞄から小説を取りだし、黙々と読み始めた。
友人と言える友人はいない。
かといって、イジメられている訳でも、仲間外れにされている訳でもない。
俗にいう『空気』とも違う、『二人一組のときに必要な人』だ。
三人グループの中の誰かがあぶれた時の為の存在。
とはいえ、それも時と場合による。
出席状況によっては、教師と組むこともままあった。
特に、『嫌だ』『なんで私が』と思ったことはない。
むしろ、楽だとすら感じていた。
奇数人のグループに属してしまうと、こういう時にピリピリとしてしまう。
人間関係に気を遣うのもしんどい。
人の気持ちを推し量るのが苦手だから、余計なことを言いそうで怖い。
そのことを、陰で嗤われるかもしれないと想像するだけで嫌だ。
考えれば考えるほど、一人でいることを選んでしまう。
それに、グループに入っていたところで、いざという時あぶれるのは自分だ。
(……そう、彼らのように)
小説から少しだけ顔を上げ、斜め前の席で騒いでいる男子生徒たちを見る。
カラッとしていて、仲が良い四人組。
よく、お笑い芸人のモノマネや漫画の感想やゲームの話をしている。
だが、その中で一人だけ、微妙にタイミングがずれている存在がいるのだ。
自分が口を開いたときに限って、「そういえば」と言葉をかぶせられる。
意気揚々とモノマネをしようとしたときに限って「あっ、最近読んだ漫画の話なんだけど――」と口を挟まれ、行き場のない手が空を彷徨う。
そして、そのまま話は進み時間は終わる。
他の三人に、悪気がある訳ではない。
気づいてすらいないだろう。
本人も、「仕方ないよな」と受け入れている節がある。
だが、覗き見た顔は確かに『複雑』を湛えていた。
仲が良い分しんどそうだ、とアタマは心の片隅で思っていた。
(それに、『お揃いの何か』を鞄につけるのも嫌だしな。ぬいとかキーホルダーとか、あんなに大量につけて重くないのかな?)
視線を前に向けると、灰色髪をしたぬいと目が合った。
『パルメザン』という乙女ゲームに出てくるキャラクターだ。
(コンビニとかで舞台公演のポスターを何度も見かけたけど、すごい人気よね。……カッコいいとは思うんだけど、やっぱそれだけ)
誰も彼もしゅっとしていて、ふくよかさに欠けている。
イラストの笑みは爽やかではあるが、抱擁感はない。
(なんて、こんなこと言おうものなら刺されるわね……)
アタマは小さな溜息を吐き、ぱらりと頁をめくる。
いま読んでいるのは、戦国時代のとある武将の生涯を書いた小説だ。
かなりマイナーな武将で、話の内容も『硬い』。
加えて、アタマは『歴女』というわけではない。
興味を惹かれるタイトルだから読んだ、というだけだ。
本屋に足を運んだ時の気分次第で、読むものは変わる。
故に、歴史や小説で語り合える相手もいない。
(……あっ、嫌なこと思い出した)
本を開いたまま、アタマは「はああぁぁぁ……」と溜息を吐く。
今度の土曜日、怨憎県会苦町という所に住んでいる親戚に会いに行かなくてはいけないということを思い出したからだ。
アタマの住んでいる町から、車で一時間半ほどの場所。
運転するのは自分ではないので、行くこと自体は苦ではない。
問題は、親同士が話をしている間、その娘と過ごさなければならないことにある。アタマと同い年のではあるのだが、少し苦手なのだ。
(言っちゃ悪いんだけど、ラワタちゃんって気にし過ぎな性格なんだよね)
去年の正月を思い出し、アタマは再度、溜息を吐いた。
親がいると邪魔でしょ、と言われ二人で神社に向かって歩いていた。
そこそこ大きな神社だったため、車の通りも多い。
『あ、信号が変わりそう!』
点滅した青信号を認め、アタマは足が遅いながらも走った。
しかし、振り返るとラワタは横断歩道の向こう側。
仕方ないか、と信号が赤から青になるまで待った。
珍しいことに、車の通りは多いが人通りは少なかった。
そして、信号が青に変わったのだが――。




