独りの理由
クラム、とドアの向こうから先生の声がして、気持ちが現実に引き戻される。ドアのそばに行きながら「はい」と応えると、低く穏やかな声が届く。
「風呂に入ったろう、怪我をもう一度手当するから、おいで」
ドアを開けると、手当の道具の入った木の箱を持った先生が立っていた。クラムが頷くのを見ると、かすかに口角を上げてから廊下を歩いていく。クラムもその後ろを追いかけ部屋のドアを閉めた。
リビングに着くと、パシュカが床でゴロゴロとボールを使って遊んでいる。寝すぎるほどに寝たパシュカは元気だった。
夕方のあの話の後グラスバードが魔術を込めた餌をやると、人に懐くペットかのように大人しくなった。ここにいる間だけだと先生は笑っていた。その笑顔を、今の手当ての準備をする先生の横顔に重ねる。
「さあ、ここに」
夕方と同じように、ソファの自分の座る隣を促す。クラムは言われた通り座り、半袖のシャツの袖を肩の方に捲り上げた。その動きの反動で壁を見る。ハンガーで壁の取手にかけられたワンピースが目に入った。二の腕の部分は浅く裂けている。
クラムの視線の先に気付いたグラスバードは口を開く。
「あれにはキミを守るまじないが掛かっているけれど、どうやら法則があるらしいね」
「法則……?」
「キミをアーバンリキュガルとの戦いからは特に重要に守るように、代わりに別のものからの攻撃には弱いのかもしれない」
グラスバードには、アンジェリカが何故そんなまじないを選んだのか分かるので、眉を歪めた。
(他の攻撃からなんて、お前が守れということだろうね)
このワンピースを直しに見せに行ったときの彼女の蔑むような眼が見て取れるようだった。
グラスバードが処置を進め始めるのと同時に、クラムは黙り込む。クラムには、明日『先生』に会うことになる前に、聞いておきたいことがあった。
「……先生」
しかし迷いがあったからか、そう声を出せたのは、もうグラスバードが薬を塗り終え、包帯を巻き始めている時だった。ん?と集中した様子の先生は返す。
「ガザリス・シャン・マーバリーとは、誰ですか?」
グラスバードの動きが止まる。
話を聞いていたのだから、それが『先生』の祖母だとはわかる。でも先生のあの時の反応と表情が、あまりにもクラムの心に残って離れなかった。
だからクラムは聞いておきたかった。その人が誰なのか。
(貴方にとって)
動きを止めていた先生の肩が少し落ちたように感じるのと同時に、包帯を巻くのが再開された。それを大人しく受ける。
「その人は、協会からの命で、初めて私のために来た守護者だ」
いつかのように誤魔化されるのかと振り向きそうになったが、言葉は続いた。グラスバードにももうそのつもりはなかった。
「そして、青い私が初めて恋をし、愛した相手だった」
包帯が切られ、留め具がつく。ピッタリと肌に張り付いたようになって処置が完了すると、先生は道具を木の箱に仕舞い始める。
「私たちはどうやら、あの男に振り回される運命にあるらしいね」
木の箱の蓋を閉じるのと同時に聞こえたのは、寂しいような声だった。
「……今からする話は、楽しいものではないからね。話し終えたらすぐ、忘れて欲しいと私は思う」
それでも、話すと決めてくれたなら……
先生の気持ちを汲んで、頷いた。先生はまた夕方と同じように、窓の方を見て話し始めた。
七十年程前、グラスバードが師匠から灯台を継いで三十年ほどした頃だった。その頃のグラスバードは人付き合いが得意ではない気の弱めな青年、という感じだった。ある朝、突然協会から電話が来てこんなことを言われた。
「訓練のために守護者を宛てがうから、面倒を見てくれ」と。
前にも言った通り、グラスバードはアーバンリキュガルを全て焼き払うことができる力を持っているから、守護者など不要だった。ただ、自分たちの面目を作り出したい協会と、絶対に安全なグラスバードの元というのは都合が良く、駆け出しの者や実務にやるべきか不安な者の最初の研修の場として、最適だと思われたらしい。
そんな事情を話して、一方的に切られた。まあ意味はわからなくなかったし、そのころ自分の意思も特になかったグラスバードは、人と暮らすのに不安はあったが、関わらなければいいだろうと了承した。
そうしてやってきたのが、ガザリスだった。グラスバードは当時シャンと呼んだが。大変可愛らしい外見の少女だった。白く細く、金の髪はくりんと毛先が癖でカールしていて、それをきちんとまとめ上げていて。麦色の目はリスのようにくりくりとしていた。
「今日からお世話になります。ガザリス・シャン・マーバリーです」
頭を下げてハキハキとした言葉と笑顔を見せる彼女は、当時のグラスバードには眩しすぎた。部屋だけ当てがい、しばらくあまり積極的に関わろうとしなかった。
ただ、実務の研修で来ているわけだから、見守りはしないといけないと思っていたわけだ。研修であることやグラスバードの力については、ガザリスには伏せられていた。それなりに対処可能な数のアーバンリキュガルを定期的にこの灯台に流して、戦わせてあげ、その姿を影から見ていた。
グラスバードは協会の人間が、というよりも生身の人間がアーバンリキュガルと戦う姿をそのとき初めて見た。思っていた以上に彼女は戦うことができたが、その闘い方には恐ろしいものを感じた。
協会がどんな風に人材を育成しているかグラスバードは知らなかったが、少なくとも人間が普通に暮らしているだけなら持つことのない狂気をそこから感じた。
しかし戦いが終われば彼女はいつもケロッといつもの明るい調子に戻るのだ。大きな怪我をすることはほとんどなかったが、かすり傷はやはりあるので、協会の子とはいえど、さすがに女の子であるから、傷はあまり残らない方がいいだろうと、グラスバードはいつも特別な塗り薬を作ってあげていた。それを受け取ると嬉しそうにするので、グラスバードの心も次第にほぐれ、普通に話すようになった。そうして共に暮らす中で、グラスバードはその少女に恋をし、愛するようになっていった。
ここでまずかったのが、グラスバードはそういう感情を抱いたときどうすればいいかわからなかったことだ。普通の人間の集団の中で暮らしてこなかったから、本で知識を得るにしても著者が正しいソースになる人物かわからないし、ただ、彼女は笑いかけてくれるし、自分といるとき嬉しそうなので、彼女も自分と同じ気持ちだと思っていた。
それでも不安になることがあって、ある日グラスバードは尋ねた。私はキミを愛しているが、キミはどうかと。そういう意味の言葉を。彼女はいつもと同じ笑顔で、もちろん私も愛していると答えた。グラスバードは思わず彼女を抱きしめた。彼女はくすぐったそうに笑って受け入れるだけで、拒絶しなかった。
人生の中でこんなにも幸福を感じる時間があるのかとグラスバードは思った。今思えば、それすら彼女の博愛であったのに。
日々を過ごしていたある朝、協会から彼女に手紙が届いた。珍しいので何かと思ったが、特には気にしていなかった。彼女はその手紙を読んでから掃除を始めたり、服を整理したり、何か私物を外の岩壁の方へ持ち出したりして、しかもそれを何往復もするので、グラスバードもたまらず気になって家の中に戻って来たときに聞いてみた。「何をしてるのか」と。彼女は目を瞬いたあと、掃除です、と笑顔で答えた。そうか、としか言えなかった。
しばらく自室にこもっていたが、夕方ごろリビングに戻ると、何か妙に部屋の中がスッキリとしているのに気づいた。よく見れば、彼女の使っていた木の食器なども無くなっている。何がおかしいことに気づいて慌てて外に出ると、彼女の行き来していた黒岩の方で、煙が立ち上っている。
近づいて見れば、彼女がそこで私物を燃やしていたのだ。何をしてるのかと慌てて降りて行ったが、彼女はいつもの調子だった。
「ですから、掃除ですよ」
「何故燃やす必要がある、入り切らないなら別の棚や、部屋だって他にスペースを空けてやる」
彼女は困った顔をした。
「それはいりません」
「何故」
「明日協会に帰ります」
グラスバードの勢いは止まった。
今朝の手紙でそう命令が来ました、とガザリスは続ける。
帰る、それはどこかではわかっていたことだが急すぎて頭が追いつかない。
「……帰る、のか」
「はい」
「確か……五年ほどはここにいると」
そうだ、協会から最初に提示されていたのはその期間だった。だから今後のことについては、ゆっくり考えるつもりだったのだ。まだ二年しか経っていない。
「その理由については書かれていました、あちらの人手が足りないそうです」
あっさりと言ってのけ、火の調子を見て薪を追加する。彼女の様子があまりにも淡々としていて、グラスバードはこわくなった。
「私が頼めば、キミはここにいられるはずだ。打診する。協会と連絡を取るから、片すのは一度やめなさい」
ガザリスは振り返る。不思議そうな顔をしている。
「……何故です? 協会が困っているので、私は行きますよ」
グラスバードは焦った。
「ああ……そうだな、人手不足なら、一度応援に行ってやるのもいい。だが私物を焼く必要はないだろう、ほらあの皿は、私と揃いで作ったじゃないか」
炎の中にある皿はもはや炎の材になっている。
「……そうですね、楽しい思い出でした」
思わず見た彼女の横顔は、本当に懐かしい記憶を慈しんでいるようだった。グラスバードにとっては、昨日このとのようなのに。
「……だから、つまり、その人手不足に対応できたら、戻ってくるだろう。だから残しておけばいいじゃないか」
ガザリスは首を傾げる。嫌な予感がした。
「いえ、ここにはもう来ないですよ」
唖然とする。声が震えないように気を張る。
「何故だ、戻ってくることができるなら、それを望むだろう」
「……いえ、特には。貴方は良い人でしたが……」
グラスバードは声が出ない。代わりのようにガザリスの細い腕を掴んだ。
「キミは私を愛しているだろう?」
そう言ってくれた彼女の言葉を思い出す。まだ青かった、とこの時の自分を思い出すたび思う。そのときの彼女の表情を、グラスバードは忘れることができない。
彼女は本気で困惑していた。
協会の人間に、何を言っているのかと、まるで声が聞こえるように。
それを見たグラスバードは、それ以上、彼女の腕を掴んでいることはできなかった。その夜、グラスバードは久しぶりに一人で寝たが、眠ることはできなかった。
翌朝、彼女は玄関で挨拶する時にも、いつもの笑顔を見せていた。
「それでは、お世話になりました。さようなら」
礼儀正しく爽やかな別れの挨拶をして、彼女は去っていった。自分がここにいたという一片の痕跡も残さずに。
話をする先生は、遠い過ぎ去った過去を見ているというには、あまりにも痛そうな声色をしていた。何より、詳細さを語れることが、先生にとってその傷が深いものであることを物語っている。
クラムも、話を聞いて唖然としていた。あまりにもポカンとして自分でも自覚がなかったので、窓から視線を戻した先生がクラムを見て怪訝な顔をしたほどだ。
「どういう顔なんだい、それは」
そう問われてハッとする。口元を手で押さえて「いえ…」と口ごもる。何と言えば良いだろう。自分の感じたものをきちんと伝える言葉がうまく出せる予感がしなかったが、それでも何とか口に出した。
「……自分とは、全く違う感覚の人類がいることを……実感している、というか……」
グラスバードはそれを聞くと、クラムを見たまま頬杖をついた。ついさっき私もキミの師匠に同じ感覚を味わっていたよ、と思う。
クラムはまだ口元に手を当て、何と言葉で表せばいいかを真剣に考えている。その驚きように、グラスバードは少し笑い、心が軽くなるのを感じていた。何故だろう、と考える。例えばこわいものがあるときに、自分よりこわがっている人を見ると冷静になるという、あの感覚に近いような。
他人にこの話をしたことはないから、話せたこと自体もあるだろうが、何よりその反応が、クラムにとって、自分には考えられないというものだったので。
(そうか、キミは違うのか)
グラスバードの口角が上がる。何故そんな嬉しそうな顔をするのかと追求されないために、クラムから見えないように顔を逸らす。目の先にあった窓から、また夜の空を見た。雨はもう止んでいた。
夜が更け、クラムが眠りに落ちたすぐの頃、グラスバードは電話の受話器を手に取った。繋がるのが、聞きたいわけではない声でも。
「明日は私たちがそちらに伺う」
遠くの森では、梟が鳴いている。




