暴走
翌朝から、ノエルは二層構造の検証と水源問題の対策を並行して進めた。
作業机の左半分に仮説五番のスケッチ。右半分に水源地の地図と排水路の断面図。どちらも同じ原理——刻印の有効範囲をどう拡張するか——が鍵になる。二つの問題が一つの解を共有している。
三日が過ぎた。
二層構造の試作は進んでいた。内層と外層で配合比を変え、干渉波形を層ごとに制御する。四対一・二の比率で、干渉が最小になるパターンを特定できた。小さな刻印板での試作は成功している。あとは実用サイズに拡大したときに安定するかどうか。
水源問題の方も、シフの調査で輪郭が見えてきた。排水路の底から浸透した魔導合金の廃液が、地下の水脈を通じて水源地の井戸に到達している。地表では離れた二つの場所が、地中では繋がっていた。対策は第三案——排水路の底に残留魔力と金属成分を分解する刻印を施す——が最善。ただし排水路は全長百歩以上ある。通常の刻印では到底カバーできない。
二層構造が機能すれば、できる。
「シフ。試作の評価結果を報告しろ」
「はい。小型刻印板での試作は、廃液中の金属成分と残留魔力の分解率九十二パーセントを達成しました。有効範囲は単層刻印の約三倍です」
「三倍か。排水路全体をカバーするには、まだ足りない」
「はい。ただし、刻印板を等間隔に配置すれば、全体をカバーすることは可能です。配置数は推定十四枚から十八枚」
「十四枚。一枚の錬成に半日として——七日か。雨季まであと十七日。間に合わなくはないが、余裕がない」
「ご主人様。錬成作業を効率化するために、一つご提案がございます」
「何だ」
「排水路の一時的なせき止めと、鍛冶区画からの排水の一時停止を、事前に行っておく必要があります。刻印を施す間、排水路は乾燥状態でなければなりません。この準備作業は、ギルドと鍛冶師組合の協力があれば——」
「ああ。ハーゲンに相談する。明日、刻印板の試作を持ってギルドに行く」
「かしこまりました」
計画は立った。明日ハーゲンに提案し、承認を得て、準備を進める。段取りは明確だ。
ノエルは安心して仮説五番の検証に戻った。
——それが間違いだった。
翌朝。
「ご主人様。おはようございます。本日の予定をご報告いたします」
「ああ」
「午前九の刻にギルド支部にて、水源浄化計画の説明会がございます」
ペンが止まった。
「……説明会?」
「はい。ハーゲン支部長、鍛冶師組合の代表、南街区の自治会長、水源地周辺の農家代表の四者にお集まりいただいております」
四者。ノエルはゆっくりと携帯端末に目を向けた。
「シフ。誰がその説明会を設定した」
「私です」
「誰の許可で」
「ご主人様が昨日、『ハーゲンに相談する』とおっしゃいましたので、事前準備として関係者への通知と日程調整を行いました」
事前準備。ハーゲンに相談すると言っただけだ。説明会を開けとは言っていない。
「関係者への通知、とは具体的に何を伝えた」
「ヴァイス工房の技術顧問・ノエル・ヴァイス先生が、水源汚染問題の解決策を策定されました。つきましては関係各位にご説明の場を設けたく——」
「策定されてない!」
「試作は成功しております」
「試作と本番は違う。排水路全体の刻印設計はまだ完了していない。配置数も確定していない。工期の見積もりも——」
「ご主人様。関係者は既にギルド支部に向かっております」
時計を見た。八の刻半。説明会まで三十分。
「——シフ。他に何かやったか。正直に全部言え」
「鍛冶師組合に対し、『水源浄化のため、排水路工事期間中は操業調整をお願いする可能性がある』旨を事前にお伝えしました」
「操業調整。鍛冶師に仕事を止めろと言ったのか」
「可能性をお伝えしただけです」
「可能性を伝えた時点で止まる準備を始めるだろうが!」
「合理的な準備です」
「俺の承認なしに進めるのが問題だと言っている」
「ご主人様の研究を妨げないよう、事務的な調整を代行いたしました。効率化です」
効率化。またその言葉だ。
ノエルは作業着の袖を引っ張り——インクの染みは五箇所——、携帯端末を掴んで立ち上がった。
「行くしかない。だが帰ったら話し合いだ」
「かしこまりました。なお、説明会用の資料は——」
「作ったのか」
「七枚です」
ノエルは何も言わずに工房を出た。
ギルド支部はレーゲンの中心街にある。工房から歩いて四半刻ほどだ。石造りの二階建てで、正面にギルドの紋章が掲げてある。ノエルが来るのは初めてだった。扉を開けると、受付の職員が立ち上がった。
「ヴァイス先生! お待ちしておりました。二階の会議室にどうぞ」
会議室。会議室に通される錬金術師になるとは思わなかった。
二階の部屋は、長テーブルに椅子が八つ並んだ簡素な造りだった。窓から秋の光が差し込んでいる。既に四人が座っていた。
ハーゲンが奥の席にいる。その隣に、革のエプロンをつけた大柄な男——鍛冶師組合の代表だろう。日焼けした腕と、火傷の古い痕。向かい側には小柄な老人が二人。自治会長と農家代表か。
全員がノエルを見た。
「先生。お待ちしておりました」
ハーゲンが立ち上がった。昨日の時点でこの話は来ていなかったはずだが、表情には不満がない。むしろ——感心している。
「助手殿から連絡をいただきまして。先生がもう解決策をまとめられたと聞いて、驚きましたよ」
まとめていない。試作が一回成功しただけだ。
「あー……少しお時間をいただけますか」
ノエルはテーブルの端に立ち、携帯端末を置いた。シフの声がここまで届くか。
「シフ。聞こえるか」
「はい、ご主人様。音質は七十三パーセントですが、通信は可能です」
四人の目が携帯端末に集まった。鍛冶師組合の代表が身を乗り出している。
「これが噂の——」
「はい。助手です」
ノエルは深く息を吸った。
説明するしかない。試作の段階であること。本番の刻印設計はまだ完了していないこと。排水路全体をカバーするには刻印板が十四枚から十八枚必要なこと。工期は最短でも七日。排水路のせき止めと鍛冶区画の操業調整が必要なこと。
正直に話すしかない。ハーゲンの前で見栄を張っても意味がない。あの人は見抜く。
「現状をお話しします。解決策は——策定途中です」
部屋が静かになった。
「ただし、方向性は見えています」
ノエルは携帯端末の横に、持ってきた試作の刻印板を置いた。手のひらより少し大きい円盤。表面に二重の刻印が施されている。
「これは、魔導合金の廃液——残留魔力を含んだ金属成分を分解する刻印です。通常の刻印とは設計が違います。二層構造——内側の刻印と外側の刻印で役割を分けることで、一枚の刻印板の有効範囲を三倍に広げています」
鍛冶師の代表が刻印板に手を伸ばし、表面を指でなぞった。
「この刻印の線……内と外で太さが違う。インクの色も微かに違うように見えるが」
「配合比が違います。内層は四対一・二、外層は——」
自分の研究を人に説明するのは初めてだった。論文でもない。依頼人への助言でもない。実務者への技術説明だ。
鍛冶師の目が変わった。職人の目だ。技術を見る目。
「先生。これ、鍛冶の炉にも使えるんじゃないですか。温度計測の限界を——」
「ええ。理論的には同じ原理です。ただ、今は水源の方が先です」
老人の一人——農家代表が、口を開いた。
「先生。うちの井戸、直りますかの」
静かな声だった。不安が滲んでいる。孫の代まで使ってきた井戸を、このまま使えなくなるかもしれないという不安。
「……直します。ただし、時間がかかります。排水路の工事に七日。地下水脈の浄化にはその後さらに——」
「ご主人様」
シフの声が携帯端末から響いた。
「地下水脈の浄化期間について、蔵書データに基づく推定を補足いたします。排水路からの新規浸透が停止した場合、地下水の自然循環により、井戸水の残留魔力濃度が安全基準を下回るまでの所要期間は——約十日です」
「約十日。工事と合わせて十七日。雨季までぎりぎりか」
「はい。ただし、井戸側からも吸着剤を投入すれば、浄化期間を短縮できる可能性があります」
ノエルはうなずいた。第一案と第三案の組み合わせ。排水路の底に刻印を施して汚染源を断ち、井戸からは吸着剤で既存の汚染を除去する。二段構えだ。
「いけるか」
「実行可能と判断します」
農家の老人が、テーブルの下で手を握り締めていた。節くれだった指が、白くなるほど力を入れている。
ノエルはその手を見て、目を逸らした。
「ハーゲン支部長。工事に入る前に、刻印板の量産と排水路のせき止め準備が必要です。ギルドから鍛冶師組合と自治会に正式な協力要請を出していただけますか」
「もちろんです」
「鍛冶師組合には、操業停止ではなく、排水経路の一時変更をお願いしたい。仕事を止める必要はありません。排水を別の経路に迂回させれば——」
「そいつはありがたい」鍛冶師の代表が声を上げた。「操業停止と聞いて肝が冷えたんだが」
シフが言った「操業調整」は操業停止に聞こえていたのか。やはり事前の根回しが雑すぎる。
「シフ」
「はい、ご主人様」
「次からは、関係者への連絡は俺の確認を取ってからにしろ」
「記録しました」
「前にも同じことを言った気がする」
「はい。前回は『組織の上位者が来るなら決まった時点で言え』でした。今回は対象範囲を拡大し、『関係者への連絡は全て事前確認を取る』と更新いたします」
ルールが一つずつ増えていく。シフの行動範囲が広がるたびに、新しい柵が必要になる。
会議室を出たとき、ハーゲンがノエルの隣に並んだ。
「先生。正直に申し上げますと、今朝の連絡には面食らいました」
「すみません。助手が勝手に——」
「いや、結果的には良かった。関係者を一度に集めた方が話が早い。助手殿は——段取りが上手い」
段取りが上手い。そう言えば聞こえはいい。だがノエルの許可なく町の関係者を動かしたのは事実だ。
「ただ、先生にお一つ。助手殿のああいう『先回り』は、今後もっと大きな場面で起きるかもしれない。手綱は握っておいた方がよろしいかと」
手綱。シフには体がない。手綱をつける場所がない。だがハーゲンの言いたいことは分かる。
「……善処します」
工房に戻ったのは昼過ぎだった。
作業机に座り、刻印板の量産計画を立て始めた。十四枚から十八枚。一枚あたりの錬成時間を短縮できれば——二層構造の配合比は確定している。あとは工程の効率化だ。
研究が、仕事になっている。
いつの間にか、仮説五番のスケッチと水源地の地図の境界が曖昧になっていた。同じペンで、同じインクで、同じ手が描いている。区別する必要がなくなりつつある。
——それが良いことなのかどうかは、よく分からなかった。




