もう限界だ
朝の光が窓から差し込んでいるのは分かる。分かるが、顔を上げる気力がない。
二階の寝床から降りてきたのが夜明け前。そのまま机に座って依頼書を眺めているうちに意識が飛んでいたらしい。錬成炉の余熱がまだ工房に残っている。昨夜のポーション調合で使った薬草の匂いが、換気の悪い部屋にこもっていた。
机の上には未処理の依頼書が七枚。昨日の分が三枚、一昨日からの持ち越しが四枚。錬成炉の素材在庫リストは三日前に確認したきりで、ギルドへの月次報告書は提出期限を二日過ぎている。
ノエル・ヴァイスは机に突っ伏したまま、小さくうめいた。寝癖のついた茶髪が依頼書の上に散らばっている。昨夜の調合で袖口についたインクの染みが、左手に三つ、右手に一つ。鏡を見なくても分かる。目の下の隈はたぶん昨日より濃い。
「……いつからこうなった」
錬金術師になったのは研究がしたかったからだ。素材の組み合わせによる変換法則の解明。魔導刻印の新しいパターン設計。核錬成における魔力循環の最適化。面白いテーマはいくらでもある。あるのに、手が回らない。
理由は単純だった。レーゲンには錬金術師が少ない。
王都グランハルトから馬車で五日。石畳の大通りの両側に職人の工房と商店が並び、その外を麦畑と牧草地が取り囲む。大きな事件も起きないが、大きな変化もない。そういう町だ。人口八千人の地方都市に、ギルド登録の術師が自分を含めて四人。うち一人は引退寸前の爺さんで、もう一人は素材錬成しかやらない。残る一人はグリフ専門で、ポーション類は引き受けない。
結果、汎用的な依頼の大半がノエルのところに流れてくる。
「ヴァイス先生、解熱のポーション五本お願いします」「ヴァイスさん、うちの鋤に刻印してもらえませんか」「先生、魔導ランプの核が切れたんですけど」
先生と呼ぶな。俺は二十七だ。
ノエルは顔を上げ、依頼書の山を睨んだ。解熱ポーションは調合するだけだから三十分。農具の刻印は現物を見ないと分からないが、まあ一時間。魔導ランプの核交換は十五分。
問題はそこじゃない。
依頼を受けるたびに来客がある。来客があると手が止まる。手が止まると研究が進まない。研究が進まないと機嫌が悪くなる。機嫌が悪いと来客対応が雑になる。雑になると苦情が——もういい。考えるだけで疲れる。
「悪循環だ」
呟いたところで、工房の扉が叩かれた。
ノエルは反射的に椅子から滑り落ち、机の下に潜った。
三回目のノックが響く。
「ヴァイス先生、いらっしゃいますか? ギルドの配達です」
配達。つまり新しい依頼書だ。息を殺す。足音が止まる。沈黙。
「……お留守ですか。では扉の前に置いておきますね」
足音が遠ざかる。ノエルは机の下から這い出し、天井を仰いだ。
二十七歳の錬金術師が、居留守を使って配達を躱している。
情けない。分かっている。だが認めたくない事実がある。
ここ一ヶ月、研究に費やせた時間は合計で六時間だった。一日あたり十二分。新しい魔導刻印のパターン仮説を立てたところで、検証に入る前に依頼が割り込む。仮説を忘れないうちにとメモを取る。メモだけが増えていく。
ノエルは工房の隅に積まれた研究メモの束を見た。仮説だけなら三十本はある。検証済みはゼロ。
「……面白そうなのばっかりなんだがな」
ため息をついて扉を開ける。石畳の通りに朝の光が伸びていた。向かいのパン屋の煙突から白い煙が上がり、焼き立ての匂いが風に乗ってくる。荷馬車が一台、ゆっくりと通りを横切っていった。工房の看板——「ヴァイス錬金術工房」と素っ気なく彫られた木の板——が、朝日を浴びて少しだけ傾いている。直す気力はない。扉の前に置かれた依頼書を回収する。
案の定、新規が二枚。溜息を重ねて扉を閉め、工房の奥へ戻る。間口は広くないが、奥行きはそこそこある造りだ。扉に近い手前が来客との応対スペースで、椅子と小さなテーブルが一組。中ほどに錬成炉と素材棚。その奥が、ノエルが研究用に占拠している作業机と本棚のスペースだ。奥の机から扉は見えない。声は聞こえるが、姿までは分からない程度の距離感。
錬成炉の横に、使いかけの素材棚。その奥に、ノエルが「いつか使う」と取っておいた雑多な素材の箱がある。
箱の底には、師匠の遺品整理で見つけた古い魔導核が一つ。
出所不明。刻印様式がどの時代の文献とも合わない。通常の核より明らかに高密度で、素材構成の分析を試みたが、途中で飽きてそのままになっている。
飽きた、というのは正確ではない。あの核の分析は面白かった。ただ、依頼に追われて時間が取れなくなっただけだ。
ノエルはぼんやりとその箱の方を見つめた。
核錬成は本来、魔力の蓄積と放出に使う。魔道具の動力源。それが常識だ。だが、ノエルにはずっと引っかかっていることがあった。
核が魔力を制御できるなら、情報の制御にも使えるんじゃないか。
魔導書に蓄積された知識。各地の書庫にばらばらに収蔵された膨大な情報。それを一つの核を経由して参照・整理・出力できたら——
たとえば、来客対応ができる。
たとえば、依頼書の分析ができる。
たとえば、ギルドへの報告書を自動で作れる。
ノエルの目が、少しだけ光を取り戻した。
核を情報処理に転用する。馬鹿げた発想だと自分でも思う。核はエネルギーの器であって、情報を扱う道具ではない。そんなことをやった文献は見たことがない。
だが。
「面白そうだな」
気づけば、ノエルは箱の前にしゃがんでいた。布に包まれた魔導核を取り出す。掌に収まる大きさ。持ち上げると不思議な重さがある。物理的な重さというより、中に何かが詰まっている感触。
こいつを核に使えば——普通の魔導核では足りない情報処理の負荷にも、耐えられるかもしれない。
ノエルは振り返った。机の上の依頼書。未提出の報告書。棚に積まれた研究メモ。窓の外では、また誰かが工房の方に歩いてくる足音が聞こえる。
選択肢は二つ。このまま依頼を捌き続けて研究を諦めるか、時間を作る手段を自分で錬成するか。
ノエルは魔導核を握り、立ち上がった。
「——よし。作るか」
俺の代わりに雑事を全部片付けてくれる、優秀な助手を。
扉が叩かれた。四度目の来客。
ノエルは魔導核を作業着のポケットにねじ込み、机の下に潜った。
……我ながらどうかしている。助手を作ると決めた直後に、またこれだ。
「——あと少しだけ、待ってくれ」
それが依頼人に向けた言葉なのか、自分自身に向けた言葉なのかは、よく分からなかった。




