第一章:沈黙の目撃者
都心の喧騒から少し離れた閑静な高台に、ひっそりと佇む「シルバーグローリーホーム」は、その名の通り、豊かな老後を約束された者たちが集う高級高齢者施設だ。ガラス張りのモダンな外観は、まるで美術館のようにも見え、ここで起こるはずのない「事件」を、誰もが信じて疑わなかった。しかし、その平穏な幻想は、ある日の朝、無残にも打ち砕かれた。
施設の一角にある特別室、703号室の扉が、ゆっくりと開かれた。中から漂う異様な空気を感じ取ったのは、朝の巡回に訪れた若手の介護士だった。彼は恐る恐る足を踏み入れ、そこで凍りついた。部屋の中央、豪華な調度品に囲まれた中で、この部屋の主である入居者、高梨厳が、まるで等身大の人形のように、ぐったりとソファに凭れかかっていたのだ。その首元には、くっきりと残る索条痕。明らかに、絞殺だった。
通報を受けた警視庁捜査一課の面々が現場に到着する頃には、既に施設内はざわめきに包まれていた。日向歩巡査部長は、ベテラン刑事たちに混じり、厳粛な面持ちで現場検証の様子を見守っていた。高梨厳は、かつて一代で巨万の富を築いた資産家であり、その死は当然、世間を騒がせるだろう。しかし、現場の状況は、日向巡査部長を困惑させるに十分だった。
「日向巡査部長。現場は密室で間違いありません。ドアは内側から施錠され、窓も全てロック。バルコニーもありませんから、外部からの侵入は不可能です。」
鑑識主任の声が、静まり返った部屋に響く。遺体には争った形跡も少なく、室内も荒らされてはいない。まるで、穏やかな死を迎えたかのように。だが、首に残された痕跡が、その静寂を打ち破る。
日向巡査部長は、部屋を見渡した。高梨厳は、ソファに座ったまま、まるで読書でもしているかのような体勢で息絶えていた。彼の膝の上には、開かれたままの高級な洋書。そして、その表情は、苦悶というよりも、どこか呆然とした、あるいは悟りを開いたかのような、奇妙なものだった。
「これでは、まるで自殺のようにも見えますが…絞殺となると他殺ですね。しかし、なぜ密室で…?」
日向巡査部長の呟きは、誰に聞かせるわけでもなく、彼の心の動揺を表していた。高齢者施設という閉鎖的な空間。入居者は皆、厳重な管理下にあり、外部との接触も制限されている。一体、誰が、どのようにして、この密室で殺人を犯したというのか。そして、なぜ。
その時、ヒールが床を叩く軽やかな音が、部屋の入り口から聞こえてきた。捜査員たちが道を空けると、そこには、いつものように洗練されたスーツに身を包んだ、警部補、神崎冴の姿があった。彼女の長い髪は完璧にまとめられ、その知的な顔立ちには、いつものニヤリとした笑みが浮かんでいる。
「おやおや、皆さん、随分とお悩みのようですわね。密室、そして高齢者施設での殺人…厄介な事件ですわ。ねぇ、歩くん?」
神崎は日向巡査部長に目を向ける。その視線は、日向巡査部長が抱える疑問の全てを見透かしているかのようだ。日向巡査部長は、少しばかり顔を強張らせながら、神崎に状況を説明した。
「神崎警部補。被害者は高梨厳氏。絞殺です。現場は密室で、争った形跡もありません。凶器も発見されていません。今のところ、犯人像はおろか、犯行方法も全く掴めていません。」
「なるほど。そうでしょうね。」
神崎は、そう言ってゆっくりと部屋の中央へと足を進めた。彼女の目は、部屋の隅々まで、まるでスキャンするように動いている。被害者の遺体、散らかった雑誌、テーブルの上の薬、そして窓から見える穏やかな庭園。全てが、彼女の脳内で高速に処理されていく。
「しかし、奇妙ですわね。この部屋には、被害者の『人生の記憶』が満ちているはずなのに、どこか『空白』を感じさせますわ。」
神崎はそう呟くと、被害者の膝の上にあった洋書をそっと指先でなぞった。表紙には『哲学と記憶の迷宮』とある。まるで、被害者自身の境遇を暗示しているかのようなタイトルだった。
「空白、ですか…?」
日向巡査部長は首を傾げる。彼には、ただ殺人が起きた部屋としか感じられない。
「ええ。まるで、何か重要なものが、意図的に取り除かれたかのように。この部屋の空気、いや、この施設の空気に、どこか違和感を感じますのよ。ねぇ、日向巡査部長。この施設には、何か気になることはありませんでしたかしら?」
神崎の問いかけに、日向巡査部長は考え込む。事件性はないと判断されかけていた初動捜査で、彼が最も不可解だと感じたのは、現場の隣室に住むある老人の存在だった。
「はい。実は、隣の702号室に、事件当時の唯一の目撃者と思われる方がいまして…。」
日向巡査部長は、隣室の山田老人について説明を始めた。山田吾郎は、80代後半の男性で、高梨厳とは旧知の仲だという。しかし、重度の認知症を患っており、彼の証言は、極めて曖昧で、現実と妄想が入り混じったものだった。
「山田老人ですか。ぜひお話を伺わせてくださいまし。日向巡査部長、ご案内をお願いできますかしら。」
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山田老人の部屋は、高梨厳の部屋とは対照的に、簡素で生活感があった。部屋の隅には、使い古された将棋盤が置かれている。彼は、椅子に座り、ぼんやりと窓の外を眺めていた。捜査員が声をかけると、ゆっくりと振り返った。
「こんにちは、山田さん。少し、お話を伺ってもよろしいでしょうか。」
神崎は、穏やかな声で語りかけた。山田老人は、神崎の顔をじっと見つめ、ゆっくりと頷いた。
「わしは…わしは見たんじゃよ。夜中に、あの人が来るのを…。だが、はっきりとは…。」
山田老人の言葉は途切れ途切れで、核心に迫ろうとすると、すぐに別の話題に飛んでしまう。
「あぁ、そうじゃ。緑色の服の男が…!あの男が、あの将棋盤を…ぐずぐずと…。」
山田老人の指先が、部屋の隅の将棋盤を指す。将棋盤は、特に変わった様子もない。日向巡査部長は、困惑した表情で神崎を見た。
「緑色の服の男、ですか。他に何か、気になることはありませんでしたかしら?」
神崎は、焦らず、静かに問い続ける。彼女の瞳は、山田老人の言葉の端々から、何か重要なものを見つけ出そうとしているかのようだ。
「そうじゃ…あの時、黒い猫が…ニャー、ニャーと…わしを見つめとったんじゃ。そして…あの人が…あの人が消えてしまうんじゃよ…。」
山田老人の目は虚ろで、まるで過去の映像を追っているかのようだった。彼の言葉は、まるで子供の空想のように支離滅裂だ。日向巡査部長は、内心、これは証言として採用するのは難しいだろう、と考えていた。
「山田さん、その黒い猫は、どこから現れましたかしら?部屋の中にいたのですか?」
神崎は、特に「黒い猫」という言葉に食いついた。高齢者施設で猫を飼うことは、通常許可されていない。
「いや…どこからか…わしをじっと…ニャー、ニャーと…。あれは…あれは幻ではなかった…。」
山田老人は、震える声でそう言った。日向巡査部長は、山田老人の発言が、彼自身の認知症による混乱だと判断し、神崎に耳打ちした。
「神崎警部補。やはり、山田老人の証言は、信憑性に欠けるのではないでしょうか。認知症の症状で、幻覚を見ることもよくありますから…。」
しかし、神崎は日向巡査部長の言葉に、静かに首を振った。彼女の顔には、いつものニヤリとした笑みが浮かんでいる。その笑みは、日向巡査部長には、神崎が何か重要なものを見つけ出した合図に思えた。
「おやおや、歩くん。あなたはまだ、人間の五感で捉えられるものだけが真実だとお思いですかしら?それに、その『幻覚』の中にも、真実は隠されているものですわ。特に、この『黒い猫』は、大変興味深いですわね。」
神崎はそう言うと、山田老人の目を見つめ、続けた。
「山田さん。その『黒い猫』は、どこかから聞こえてきただけ、という可能性はありませんかしら?例えば、誰かの声とか、何か装置の音とか…。」
神崎の問いかけに、山田老人の表情が、一瞬だけ、はっとしたように変わった。だが、すぐに彼の目は再び虚ろに戻ってしまった。
「音…?音じゃったか…。そうじゃ…音じゃったかもしれん…。」
その微かな反応を、神崎は見逃さなかった。彼女は、日向巡査部長に指示を出した。
「歩くん。山田老人の証言を、全て詳細に記録してくださいまし。特に、『緑色の服の男』と『黒い猫』、そして『将棋盤』に注目を。そして、この施設のスマートホームシステム、特に音声認識デバイスや、自動再生機能を持つ機器について、使用履歴を徹底的に調べてください。佐倉課長に協力を仰ぎましょう。」
神崎の言葉に、日向巡査部長は、戸惑いつつも頷いた。彼女の指示は、一見すると無関係に思えるものばかりだが、過去の経験から、神崎の指示には必ず深い意味があることを知っていた。
「そして、この部屋の換気システムや、隣の高梨氏の部屋との壁の構造についても、鑑識に再調査を依頼してください。特に、音の反響や、微細な振動についてですわ。」
神崎はそう付け加えた。彼女の頭の中では、既にこの事件の輪郭が朧げながら見え始めているかのようだった。
「それにしても、不思議ですわね。山田さんの『記憶』は、まるで巧妙に編集された映画のようですわ。重要なシーンだけが抜けていたり、全く関係のないシーンが挿入されていたり…。」
神崎は、部屋を出ながら呟いた。日向巡査部長は、その言葉の真意を掴みかねながら、神崎の後を追った。
「歩くん。この事件の真犯人は、被害者の記憶だけでなく、目撃者の記憶までをも支配しようとしたのでしょうね。まさに、『心理の死角』を利用した犯行ですわ。」
神崎は、廊下の窓から見える穏やかな庭園に目を向けた。その表情は、どこか遠い世界を見つめているかのようだ。彼女の目には、この高齢者施設に潜む、見えない悪意が映っているかのようだった。日向巡査部長は、神崎の底知れない洞察力に、ただただ圧倒されるばかりだった。この「記憶の断片」に隠された真実を、神崎は一体どう暴き出すのだろうか。
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日向巡査部長は、神崎の指示通り、山田老人の証言を事細かに記録し、佐倉玲子サイバー犯罪対策課長に協力を仰いだ。佐倉は、いつもの冷静な表情で、施設内のデジタルデバイスの解析を開始した。
「日向巡査部長。山田老人の部屋のスマートスピーカーから、事件のあった夜、不審な音声データが複数回再生されていた痕跡を確認しました。特に、『猫の鳴き声』と、男性の低い声による『数字の羅列』です。いずれも、再生時間はごく短く、人間の耳にはほとんど認識できないレベルの音量で再生されていました。」
佐倉の報告に、日向巡査部長は目を見開いた。
「猫の鳴き声…!まさか、山田老人の言う『黒い猫』は、本当に猫ではなく、スマートスピーカーから再生された音だったんですか!?」
日向巡査部長は興奮気味に言った。彼の頭の中では、山田老人の「断片的な記憶」が、少しずつ繋がり始める感覚があった。
「その可能性は高いです。さらに、その音声データは、外部からのリモートアクセスによって再生されたものと推測されます。そして、そのアクセス元は…」
佐倉は、タブレットの画面を神崎と日向巡査部長に見せた。そこに表示されていたのは、施設内のIPアドレスだった。
「施設内…!つまり、犯人はこの施設の内部にいるということですか?」
日向巡査部長は、愕然とした。施設の職員か、あるいは他の入居者の中に、殺人犯が潜んでいるというのか。
神崎は、その報告を聞くと、口元に薄い笑みを浮かべた。
「おやおや、やはりそうでしたわね。猫の鳴き声と数字の羅列。それが、山田老人の記憶を操作するための、具体的な『刺激』だったのですわね。これで、『黒い猫』の正体が判明しましたわ。ですが、問題は、なぜそのような回りくどい方法で記憶を操作したのか、ですわ。」
神崎の視線は、再び山田老人の部屋、そして高梨厳の部屋へと向けられた。
「佐倉課長。その音声データが、具体的にどのような内容であったか、詳しく解析してください。特に、『数字の羅列』に注目を。それが、何を意味するのか。そして、氷室蓮プロファイラーに、この施設の職員、および高梨厳氏と特に親密だった入居者全員の心理分析を依頼してくださいまし。彼らが、山田老人の心理状態を熟知していた可能性を探るのですわ。」
神崎の指示は、次々と的確に飛んでいく。日向巡査部長は、そのスピードと精密さに、ただただ驚くばかりだった。
「それにしても、この犯人は、実に周到ですわね。殺人を犯しただけでなく、目撃者の記憶までをも操作しようとするとは。人間の心の弱さを、これほどまでに利用するとは…。」
神崎は、そう呟くと、人差し指で顎を撫でた。彼女の目は、まだ見ぬ真犯人の姿を、既に捉えようとしているかのようだった。
「しかし、どんなに巧妙に隠された『記憶の断片』も、必ずどこかに綻びを見せるものですわ。そして、その綻びこそが、私たち探偵が真実を掴むための、唯一の鍵となるのですわよ。ねぇ、歩くん?」