第一章:ノイズの囁き
薄暗い取調室に、カツン、とヒールが床を鳴らす音が響いた。警部補、神崎冴は、向かいに座る男の顔を観察するように見つめていた。男は「人気ライブ配信者ヒカル☆」(本名:坂崎光)のマネージャー、田中雅也だ。彼の背後には、緊張した面持ちで日向歩巡査部長が控えている。神崎の長い指が、考え込むように顎のあたりを彷徨い、不意に、ニヤリと唇の端が上がった。
「…で、あなたは、ヒカル☆さんの死因が事故だと、そう主張なさるわけね?」
神崎の声は、まるで世間話でもしているかのように穏やかだったが、マネージャーは思わずごくりと唾を飲み込んだ。ここ数日、メディアはヒカル☆の急逝で持ちきりだ。彼の最後の配信は、まさに伝説となっていた。楽しげに視聴者と交流していた彼が、突然画面の前で苦しみだし、そのまま意識を失う一部始終が、全世界に生中継されたのだ。
「ええ、そうです。配信中に心臓発作を起こしたと。医師もそう診断してますし、密室状態でしたから、他に考えようがありません。」
マネージャーは必死に訴える。彼の言葉の通り、現場は高層マンションの一室で、外部からの侵入形跡は皆無。防犯カメラも、ヒカル☆が配信中に倒れる瞬間を捉えていた。警察の初動捜査でも、事件性はないと判断されかけていたのだ。
「なるほど。心臓発作、ですのね。」
神崎は椅子に深く身を沈め、足を組んだ。その仕草は、まるでこれから起こる劇の開幕を待つかのようだ。隣で腕を組んでいた歩くんが、もどかしそうに口を開く。
「神崎警部補!ですが、どう考えてもおかしいですよ!あのヒカル☆さんが、あんな配信で急に倒れるなんて…!絶対誰かが手を下したに決まってます!」
日向は、興奮して身を乗り出す。視聴者の一人として、ヒカル☆のファンでもあった彼は、この「事故死」という結論をどうしても受け入れられずにいた。彼のスマホには、ヒカル☆の動画チャンネルが登録され、通知が来るたびに真っ先にチェックするほどの熱心なフォロワーだったのだ。
神崎は日向を一瞥すると、口元に薄い笑みを浮かべた。
「おやおや、歩くん。あなたは感情的になりすぎですわ。私たち警察は、事実に基づいて捜査を進めるべきですわ。ねぇ、マネージャーさん?」
神崎は再びマネージャーに視線を戻す。マネージャーは曖昧に頷くことしかできなかった。ヒカル☆の死で、マネージャーである彼もまた、混乱の渦中にいることは明らかだった。だが、その混乱の裏に、何かを隠しているような不自然な落ち着きも見て取れる。
「それにしても、あの配信映像は興味深いですわね。数百万人がリアルタイムで見ていた映像で、まさか殺人が行われるとは思いませんでしたわ。」
神崎はそう呟くと、デスクの上に置かれたタブレットを指先でトントンと叩いた。そこに映し出されているのは、ヒカル☆が死亡する瞬間の配信映像だ。
「歩くん、あなたはこの映像の、ごくわずかなノイズに気づきませんでしたかしら?」
神崎の言葉に、日向は画面を凝視する。しかし、何度見ても、彼には一般的な映像の乱れにしか見えない。特定のゲームプレイ中に発生する画面のちらつきや、コメントが高速で流れる際の負荷によるものだとしか思えない。
「ノイズ…ですか?あぁ、でも、あれは通信環境のせいでよくあることかと…。僕の家のネット環境でもたまに…」
「フフフ。それが、そうでもないのですわ。」
神崎は静かに笑う。その目には、すでに犯人、犯行方法、そしてアリバイの全てが見えているかのような確信の色が宿っていた。
「まあ、いいでしょう。まずは、この私の愛すべき相棒に、彼の見解を聞いてみましょうかしら。」
神崎はそう言うと、デスクの隅に置かれた、一見するとただのスタイリッシュな端末に話しかけた。それが、警視庁がこの度導入した最新鋭のAI捜査支援システム「クロノス」だった。その存在は、まだ一部の部署にしか知られていない。
「クロノス。件の配信映像について、あなたの解析結果を聞かせてもらえますかしら。」
端末のディスプレイが淡い光を放ち、無機質な女性の声が響いた。
「解析完了。当該映像データには、通常の通信環境では発生し得ない、特定の波長を持つ微弱な信号の乱れを検出。これは意図的な操作によるものと推測されます。また、配信者の生体データには、瞬間的な外部からの刺激による異常な数値変動が確認されました。これは心臓発作ではなく、外部からの要因による可能性を強く示唆しています。」
クロノスの冷静な報告に、マネージャーは目を見開いて絶句した。日向も「え、AIがそんなことまで!?」と驚きの声を上げる。彼の知るAIは、せいぜい交通情報を教えてくれたり、音楽を再生してくれたりする程度だ。まさか、事件の分析にまで踏み込むとは。
神崎は、どこか楽しそうにクロノスの端末を見つめた。
「おやおや、クロノスくん。あなたもなかなかやるじゃありませんか。ですが、肝心なのは、その意図的な操作が、どのようにして、そして誰によって行われたか、ですわ。ねぇ、歩くん?」
神崎の視線が、再び日向に向けられる。日向は、神崎の底知れない洞察力と、AIの最先端技術に、ただただ圧倒されるばかりだった。この「事故死」の裏には、視聴者の誰も気づかなかった、巧妙な「死角」が隠されているに違いない。
続いて、神崎と日向は、ヒカル☆の死亡現場である高層マンションの一室へと向かった。現場は既に鑑識による捜査が終了し、静まり返っている。部屋の窓からは都心の夜景が広がり、まるで何もなかったかのように、冷たい空気が漂っていた。
「うわぁ、これが人気配信者の部屋ですか…。なんか、もっと派手な感じかと。」
日向は、部屋を見回して呟いた。壁一面に防音材が貼られ、プロ仕様のカメラやマイク、照明機材が無数に設置されている。いくつものモニターには、ゲーム画面やコメント欄、自身の顔が映し出されており、配信者の孤独な戦場を物語っていた。
神崎は部屋の中央に立ち、ゆっくりと周囲を見渡した。彼女の目は、部屋の隅々まで、まるでスキャンするように動いている。
「派手、ですかしら。しかし、彼にとっては、ここが戦場であり、全てだったのでしょうね。ねぇ、歩くん。あなたはこの部屋から何を感じますかしら?」
「え…何も、って言ったら怒られますかね。強いて言えば、ちょっとだけ、焦げ臭いような…気のせいですかね。なんか、電子部品が焼けたような…?」
日向は鼻をひくつかせたが、神崎は微かに頷いた。彼女の顔には、日向には理解できない、深い思索の影が浮かんでいた。
「気のせいではありませんわよ。しかし、それは焦げ臭いのではなく、微かなオゾン臭ですわね。通常、精密機器が過熱した際に発生する匂いですが…この部屋の機材は、全てチェック済みで異常はないと鑑識は報告していますわ。」
神崎はそう言いながら、部屋の片隅にある空気清浄機に視線を向けた。作動しているようだが、フィルターは新品のように綺麗だ。これほどの匂いがするならば、フィルターはもっと汚れているはずだ。
「それにしても、完璧な密室でしたわね。オートロック式の玄関ドアに、内側から施錠された窓。バルコニーにも面していません。犯人が外部から侵入した可能性はゼロでしょうね。」
日向が、改めて部屋の状況を確認するように報告する。彼は、ヒカル☆の部屋の間取り図と、防犯カメラの配置図をスマホで確認しながら、その完璧さを改めて感じていた。
「ええ、その通りですわ。外部からの侵入者がいない。それが、今回の事件の最大のミステリー。同時に、犯人がいかに巧妙なトリックを用いたかの証拠でもありますわね。」
神崎はそう言うと、配信時にヒカル☆が座っていたゲーミングチェアにゆっくりと腰を下ろした。まるで、その場の空気と一体化するかのように、静かに目を閉じる。
「クロノス。この部屋の換気システムと、外部への音漏れ、電波干渉について、改めて解析を依頼しますわ。特に、超音波領域、可聴域外の周波数帯に注目してくださいまし。」
神崎の言葉に、日向は首を傾げた。
「超音波…ですか?そんなのが事件と関係あるんでしょうか?僕たちには聞こえない音ですよね?」
「おやおや、歩くん。あなたはまだ、人間の五感で捉えられないものの中に、真実が隠されているということに気づきませんか?犯人は、まさにその『人間の死角』を突いたのですわよ。視覚、聴覚、嗅覚、触覚…人間が認識できる範囲は、案外狭いものですわ。」
クロノスが無機質な声で応答する。
「解析開始。超音波領域を含む、広範囲な周波数帯の電波干渉パターンを再解析します。過去の類似事例も照合対象とします。」
神崎は満足げに頷いた。すると、彼女のスマートフォンが着信を告げた。画面には「佐倉玲子」と表示されている。警視庁サイバー犯罪対策課の若き課長だ。
「もしもし、神崎ですわ。ええ、現場にいますのよ。…はい、クロノスからの報告は受けましたわ。特定の波長を持つ信号、ですわね。それで、あなたの見解は?」
神崎は、電話の相手に耳を傾ける。佐倉玲子の声は、電話越しにも冷静で理知的だ。彼女はデジタル犯罪の最前線に立ち、最新のテクノロジーを熟知している。
「神崎警部補。クロノスが検出した信号は、一般的に知られる無線LANやBluetoothの帯域とは異なり、指向性の高い特定用途の無線機器から発せられる可能性が高いです。特に、音響振動を発生させる非接触型デバイス、あるいは指向性音響スピーカーのようなものから発せられた可能性があります。私も過去に、同様の信号を検出した事例をいくつか報告しています。」
佐倉の専門的な言葉に、日向は目を丸くした。
「ひ、指向性音響スピーカーって…音をピンポイントで送れるやつですか?そんなので人が殺せるんですか?映画でしか見たことないですよ…」
神崎は佐倉に、歩くんの疑問を代弁するように尋ねた。
「佐倉課長、そのデバイスは、通常であれば無害なものでしょう?しかし、特定の条件下で、人間に致命的な影響を与えることは可能なのですかしら?」
佐倉の声は、依然として冷静だった。
「理論上は可能です。特定の周波数、特定の強度で、人体に共鳴振動を起こさせることで、めまい、吐き気、平衡感覚の喪失、さらには内臓にダメージを与えることも。特に心臓に直接的な振動を与えれば、心臓発作と酷似した症状を引き起こすこともあり得ます。致死に至るには、相当な出力が必要ですが、密室環境下であれば、その影響は増幅される可能性もあります。」
日向は、想像を絶する犯行方法に青ざめた。映画やドラマの世界の話が、現実で起きていることに戦慄する。
「そ、そんな…。じゃあ、犯人はどこから、そんなものを…?」
「フフフ。それが問題なのですわ、歩くん。」
神崎は、口元にいつものニヤリとした笑みを浮かべた。
「マネージャーさんの証言通り、ヒカル☆さんの部屋は密室。外部からの侵入形跡はありませんわ。しかし、クロノスと佐倉課長の見解は、外部からの『刺激』があったことを示唆していますわね。さて、矛盾が生じましたわ。この矛盾をどう解き明かすか、それが私たちの仕事ですわ。そして、この矛盾こそが、犯人の最も巧妙なトリックですのよ。」
神崎は電話を切り、日向に指示した。
「歩くん。ヒカル☆さんの配信者としての人間関係、特にライバル関係にあった人物を徹底的に洗い出してくださいまし。特に、『シャドウ』という配信者。彼の過去の言動、アリバイ、そして彼の配信環境についても詳細に調べるように。」
日向は、シャドウの名前を聞いてハッとした。シャドウは、ヒカル☆とは犬猿の仲で有名だ。お互いの配信で、公然と煽り合ったり、ディスり合ったりしていた。だが、それも配信界では「ビジネス不仲」と呼ばれる一種のエンタメだったはずだ。
「シャドウ、ですか?あの、ヒカル☆さんのこと、ずっとSNSで叩いてた…でも、彼も配信者ですよね?事件当日は、彼も自分の部屋で生配信してたはずです。完璧なアリバイがあるんじゃないですか?」
日向の言葉に、神崎は静かに頷いた。
「ええ。完璧なアリバイがあるように見えますわね。しかし、最も完璧に見えるアリバイこそ、最も疑うべきだと、あなたは思いませんか?彼は、何百万もの視聴者の目をごまかし、自身の配信中に殺人を実行した。そう考えるのが、私の推理ですわ。」
神崎の視線は、部屋の窓の外、遠くに見える別の高層ビル群に向けられていた。まるで、そのどこかに、犯人が隠れているとでも言いたげに。
日向は、神崎の言葉の真意を掴みかねながらも、彼女の指示に従うしかなかった。彼はスマートフォンを取り出し、シャドウに関する情報を検索し始める。
クロノスのディスプレイが再び光り、新たな解析結果が表示された。
「解析完了。シャドウの配信映像には、ヒカル☆の映像で検出された微弱な信号の乱れは確認されず。しかし、シャドウの配信中に、数秒間の映像と音声のわずかな同期ずれが、計三度検出されました。通常の配信トラブルとは異なるパターンです。」
「ほう…同期ずれ、ですって。」
神崎の目が、鋭く光る。その「同期ずれ」が、シャドウの完璧なアリバイを崩す、最初の糸口になることを、神崎は既に確信していた。彼女は、この小さな綻びが、犯人が意図せず残した「人間の痕跡」であることを見抜いていた。
「歩くん。シャドウの配信映像をもう一度、今度は微細な表情の変化、言葉のイントネーション、そして彼の視線の動きに注意して確認してくださいまし。特に、その『同期ずれ』の瞬間に、彼が何をしていたか、何を言っていたか、ですわ。そして、その時の彼の『感情』を読み取ってみてください。そこに、犯人が隠したかった真実が隠されていますのよ。」
日向は、神崎の指示に戸惑いながらも、シャドウの過去の配信映像を再生し始めた。一見、何でもないような映像の中に、神崎だけが気づく「真実の欠片」が隠されているのだ。神崎は、再び椅子に深く腰掛け、長い指で顎を撫でながら、静かにニヤリと笑った。