渚沙の涙
父が亡くなったという手紙を読んで私は……私の中に燻っていた彼女への恨みが泡のように消えてゆくのを感じた。
と、同時に亡き父に対し怒りの心がふつふつと湧いて来て……喪失感とか悼む気持ちはまるで起きなかった。
きっと、この時
私は完全に父から離れる事ができたのだろう。
父はどうしようもない人。
私や母さんを捨ててまで成した“新しい家族”を残して頓死するとは……
私にはこの手紙の差出人たる美也子さん……父の再婚相手とその子供たちに……同情の気持ちしか抱けなかった。
“因果応報”とか、“いい気味だ”とかの言葉は毛ほども頭をよぎらなかった。
私は自分が“いい人”などとは決して思ってはいない。
それどころか
人の一生を喰いつくす下賤だ。
にも関わらず、このように思えたのは……
きっと彼女たちに“自分と母さん”を重ねてしまったからだ。
私は、今回もお世話になった弁護士の鈴木センセイを介して
『父の遺産の相続放棄をする事』『もし何か困った事が起きたら鈴木センセイを通じてでもいいから必ず相談して欲しい』『いつか……自分にとっても妹、弟に当たる、美也子さんのお子さんに合わせて欲しい』との意向と手紙を彼女へ届けた。
それから数日経って……彼女から電話が掛かってきた。
泣きながら謝罪する美也子さんに対し私は「父の看取りをしていただいた事への感謝と……自分の母も既に他界していて親戚づきあいもない私は事実上の天涯孤独の身の上だから……このご縁を大切にしたい」との私の気持ちを言葉を尽くして伝えて……最後には電話を挟んで二人して大泣きした。
ヤングケアラーだった私が、私と母さんの糊口を凌ぐ為に始めた“夜のお仕事”だったが、母さんが亡くなって
もう辞めてしまおうかとも思ったのだけど……
彼女と子供達になにかが起こってしまった時に力になれる自分で居たいと
前にもまして“守銭奴”となった。
狭い世界ではあるが……お店のナンバー1の座は誰にも譲らなかったし、いただいた給料袋をテーブルの上に立ててみて倒れた事は一度もない。
そういう自分を保つ為、人より抜きん出る為の支出も決して少なくは無かったが、『“先の見えない”自分なのだから稼げるうちに稼がねば』と、考え得る全ての事を実行した。
彼女……美也子さん一家とは、それほどに遠く隔たっては居なかったが……いざ逢うとなると中々整わず、もっぱらメッセか電話のやり取りだった。
それが最近少し間が開いて……そう言えば電話では話していないなあと思っていた矢先に
突然、鈴木センセイから電話があって
久しぶりに“同伴”のお誘いかしらと電話をとったら
美也子さんの訃報だった……
そして今、
私は鈴木センセイとタクシーで葬祭会場へ向かっている。
「“まさみ”ちゃん(私の源氏名で『似ている』と言われた女優さんにちなんだ)。黙っていて悪かったね。なにせクライアントについての“守秘義務”だったから……」
そう言って鈴木センセイは私に美也子さんの“遺書”を手渡した。
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渚沙 様
2通目のお手紙がこんな形になってしまって……突然、逝ってしまって本当に申し訳ございません。
実は1通目のお手紙を書いた時に、既に覚悟を決めなければならなかったのですが……遺される美波と海音を思うと、自身の生に諦めが付けず……ようやく成し得たのが主人……あなたのお父さんの死を、あなたにお伝えすることでした。
決してあなたを軽視したり、悪意があったりしたのではございません。
あなたと同じ様に、私の子供達も遺されていくのかと考えると……気持ちがすくんでしまったのです。
『何か困った事が起きたら必ず相談して欲しい』
そうおっしゃっていただいたあなたの優しいお心にも応えられなくてごめんなさい。
もし、今でも
そのお心が残っているのなら
一度は『私の妹、弟』とおっしゃっていただいた美波と海音の事を
ほんの少しで構いませんから
見てあげてください。
物凄く“親バカ”な事を言いますが、二人とも優しい子なんです。
あなたと同じ様に
ごめんなさい。
手に力が足りず
読みづらい字になりました。
続きは……
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手紙は便箋の途中で 潰えていた。
口を抑え肩を震わせる私に鈴木センセイは声を掛ける。
「で、まさみちゃんはどうしたい?」
「“言わずもがな”です。 あの子達にこれ以上の不幸……二人きりになってしまった家族がバラバラになる……なんて事があっていけないのです! 断じて!!」
「それでは……まさみ……いや、渚沙さんが唯一無二の肉親として二人を引き取ると言う方向で話を進めてよろしいですか?」
「宜しくお願いします。 あと、もう一つ! 私、昨日、フラワーショップでの販売スタッフの職を得ました。もう夜の仕事には戻りません。そうは言っても、これまでやらかして来た“枕”や“手練手管”の罪が無になる訳ではありません。ただ、できれば“妹”や“弟”にはその事を知られたくないのです」
鈴木センセイは頷いた。
「『渚沙さんに子供達の事をお願いできたら』と言うのがクライアントの希望でしたから私としては渚沙さんのご意向には極力副わせいただきます」
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葬祭扶助のお葬式って、こんなにも寂しいものなのだろうか……
会場は、ほんのわずかなスペースなのに、冷たく閑散としていた。
恐らく役所関係の職員なのだろう。
年配の女性がひとりと……
後は、まるでお守りの様にその写真を毎日眺めていた二人の子供……中二の美波ちゃんと小三の海音くん。
ふたりが寄り添う様を見るだけで、私は涙が溢れてしまう。
でもまずは……
私は手にお数珠を持って
初めて美也子さんに“お会いした”
ああ、優しいお顔……
旅立つ前は
苦痛は和らいだのだろうか……
もっと早く
万難を排してもお会いすべきだった……
いや、そもそも
万難など無いのに……
ごめんなさい。
美也子さん……
あなたとキチンと逢ってお話したかったのに
私がグズなばっかりに……
その機会は永遠に失われてしまった。
涙が後から後から止まらない……
私、母さんのお葬式では泣かなかったのに!!
いや!違う!!
私は今、あそこで立って
こちらを見つめてくれている
美波ちゃんと海音くんのおかげで
泣かせてもらえているんだ。
きっと
自分の母さんの時の分まで……
私は
お化粧がみっともなくならないようにそっと涙を拭いて
寄り添って立っている“きょうだい”の前に歩み寄った。
「はじめまして 音羽渚沙と申します。」
少し深呼吸して言葉を継ぐ。
「知っていますか? 私はあなたたち二人の姉なんです。私なら、あなたたちが別れて暮らさなくても済むよう、手助けできますよ」
こうして
手探りではあるけれど
お父さんが名付けた三つの名前は
ひとところに集まった。
2024.4.19更新
渚沙さんのラフ画