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うぐいす駅にて  作者: ロブチカコ
20/48

19

 伸ばされたTの手を振り払うように、Hは身をよじった。しかし、Tは諦めず、Hの肩に腕をまわそうとする。Hが小声で反抗した。

 

「ちょ、っと、ここでは」

「なんで」

「人に見られたら」

「だれもいないよ」


 います! 鳥羽は心のなかで叫ぶ。しかし届くはずもなく、Tは両腕でHの体を包みこもうとする。Hはまだ、弱々しく抵抗していた。

 

「なに、なんなの、おまえ」

「なんなのって……、チャンスだと思って」

「や、急すぎない?」

「急? え、この前段階って、なんかあったっけ」

「だって、おまえ、最近全然、こんなふうに……」


 さわってこなかった、という言葉をHが飲みこんだのが、鳥羽にはわかってしまった。そしてTもまた、Hの飲みこんだ言葉を悟ったようだった。Hの抵抗などおかまいなしに、抱きしめる。

 

 見てはいけないと思ったのに、鳥羽は目を逸らせなかった。Tの尻の真下あたりに頭を置いている鳥羽からは、Tの顔は見えても頬までだったが、Tの方を向いたときのHの顔は、街灯の明かりもあって、割合よく見える。その、Tの肩の上にあるHの目が、しきりにまたたいている。

 

 しばらく抱きしめたあと、Tはほんの少しだけ体を離し、Hの顔を、くちびるを、見つめた。窺うように、Tが顔を近づけると、Hはうつむく。

 

「だめ?」


 Tがささやいて聞いた声に、Hは首を縦にも横にも振らず、黙っていた。TはHの頬に手をあて、ほんの少しだけ顎を上げさせると、自分は身を屈めて、ふたたび顔を近づけた。

 

 最初のキスは、一瞬だった。くちびるを離したふたりは、見つめあい、またすぐに重なる。

 

 夏草の匂いが、途端に強くなった。それに混じって、頭からかぶったサイダーの甘さが、鼻をかすめたような。

 

「すげえ、あまい」


 Tが、キスの合間に言った。

 

「なんか食べた?」

「……さっき、アイスと、サイダー」

「うわ、最高」


 Tはさらにキスを深くした。

 

 ごうん、と音がする。電車が、公園の前を通り過ぎているのだ。

 

 Hの顎が、Tにあわせるようにゆっくりと上がっていくのを見ながら、鳥羽はおかしな気持ちを味わっていた。ベンチ裏に転がっている自分。その真上でキスをする男同士の若い恋人たち。屈辱的な状態、非日常な光景、それを見せられる悪夢。しかし、緑の青臭さのなかで、ふたりの昂りに同調してしまっている自分もまた、そこにいた。

 

 そして、短時間にかかったさまざまなストレスで精神がどうにかなってしまったのか、ふいに一瞬、夢を見ているような、体が浮き、自分自身から少しずれてこの光景を見ているような感覚があった。その感覚のなかで、くちびるが離れ、そっとひらかれたHの吊ったまなじりを見て、やはり自分の好みの顔だと思った。

 

「……電車から、見られたかも」


 HがTの肩に額をのせてつぶやいた。Tはその頭をぽんぽんとなでた。

 

「見えても、だれかわからないって」

「そうかな」

「そうだよ。それに、べつに見られてもいいじゃん」

「……よくない」

「いいじゃん」


 Tが、肩に顔をうずめているHの、耳だか頬だかにキスをした。Hが頭をふって振り払うような仕草をするが、まったく力がこもっていない。

 

「おれがさわってこないの、気にしてたんだ?」

「………」

「さわってほしかった?」

「ばかじゃねえの」


 Hの暴言は、Tの胸のなかでくぐもる。Tは、えへへと笑った。

 

「おれ、我慢してたんだ。つきあいはじめたら、はじめたで、人前でどれくらいさわっていいもんか考えちゃって。さわりまくったほうが、よかった?」

「まくるとか、やめろ」

「じゃあ、まったく、一切、さわんないほうがいい?」


 Hは黙っている。

 

「どっちよ」


 Tが笑いながら、Hの体ごと、腕を揺する。Hは、Tの腕のなかから、ぽつりと言った。

 

「さわんないほうがいい」

「えー!」

「人前ではさわんな」

「えええー、なにそれ、いまの流れだと、不安にならない程度にさわって、みたいな感じだったじゃん!」

「うるせー。人前ではだめ」

「……じゃ、いまは人前じゃないからいいんだ」


 そう言うと、さきほどのキスの成功で自信を持ったらしいTは、強引を装ったわざとらしさで、またHのくちびるを奪った。

 

 ピロートークのような甘い会話に硬直していた鳥羽の、声にならない「もうやめろ」の叫びは、むなしく草むらの湿気に吸いこまれる。そうして、もう見てられないとばかりに、いまさら、固く目を閉じた。

 

 もう帰りたい。帰らせてくれ。五分だけって言ったじゃないか。とっくに過ぎてるぞ、ぼけなす。こんなの、もはや拷問だ。浴びたジュースがベタベタになって、草が貼りついてくる。これ以上放置されると、甘い匂いにつられて虫が寄ってきてしまう……。

 

 蟻だらけになった自分を想像して、鳥羽はむせび泣きたくなった。もっと大きい虫が寄ってきたら、きっと気持ち悪くて、叫んで暴れだしてしまうぞ。隠れた意味がなくなるぞ。甘い匂いにつられる大きい虫ってなにがいるんだっけ。カブトムシとか? カブトムシが来たら、捕まえて売ってやる……。

 

 現実逃避に走り出した鳥羽への拷問は、しかし終わるどころか、むしろ、着々と次の段階へと進行していた。鳥羽がそれに気づいたのは、おぞましい声が漏れ聞こえたからだ。

 

 ううん、とか、ふうん、とかいう声だった。鼻から出す、甘ったれた声だ。鳥羽が大学時代につきあった女の子も、こんな声を出したことがあった。思わず目を開いた。

 

 ふたりの状態は、さきほどとそんなには変わっていなかったが、Tのがっつき具合が、Hに覆い被さらんばかりに増しているのは、鳥羽の目にもわかった。

 

 まずい、と思った直後に、ぎょっとする。ベンチの板の隙間から見えるHの腰のあたりに、Tの手があって、その手がHのシャツの裾を捲りあげ、潜りこんだのが見えたのだった。

 

 脇腹を撫でられ、Hがまた、声を漏らした。甘さ半分、抗議半分。Tはやめない。勢いのまま、ベンチの上で押したおそうとする。

 

 鳥羽は心のなかでやめろと叫びながら、しかし目はつむるどころか、見開いていた。見たくない、もうここにいたくない、けれど、目を閉じられない。

 

 しかし――。

 

 鳥羽が想像した、それ以上の最悪の展開は、いつまで待っても来なかった。なぜかふたりは、中途半端な角度を保って静止していた。声も、荒れた息づかいも、衣ずれの音も、止んでいる。

 

 Tが体を起こした。なにか、手もとを熱心に見ている。

 

「あれ? これ……え? あれ?」


 Tが、手にもったモノをよく見ようと、街灯の光のなかに掲げた。それは鳥羽の視界にも入った。叫びそうになる。しかし、先に叫んだのは、Tのほうだった。

 

「これ、おれが買ったやつじゃん!」

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