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神妙な面持ちで、Tは言った。
「この欲を発散するために、親友の特権をいかして、いままで以上にさわりまくってやろうと思ったんです」
「……アホか」
Tは否定せず、むしろ深く頷いた。
「もうね、アホみたいに、親友の職権乱用ですよ。たまに、本気でいやがられてたらどうしようとか、さすがにさわりすぎて気持ちがバレるかな、とか心配してたんですけど、近くにいると、止まんなくて。でも、でもね、そうやってるうちに……」
Tは、足を貧乏ゆすりする。
「なんか、なんて言うんでしょう、うまく言えないけど、あいつの表情とか、視線とか、仕草とか、……反応が、変わってきた気がして」
鳥羽の脳裏に、満員の電車のなかで、Tの腕に守られて目を伏せているHの姿がよぎった。
「これ、なんなんだろう。おれ、あいつのこと好きすぎて、目がおかしくなってるんですかね? どう思います?」
「……知らん」
「いや、でも確かに、前までとは違う。でも、どう違うかっていうのは説明できない」
鳥羽のことを見もせずに、Tは独り言のように喋り続けた。
「どう違うのかはわからないけど、違うように見えるし、なんか、いままでより余計に可愛いし。おれ、もう我慢できなくて。だから、告白しようと思ってたんです。それでもすぐには勇気が出なくて、きょうぶらぶらしながら悩んでて、でも、やっと決心がついて。……それなのに」
Tは、鳥羽を睨んだ。
「今日これから家に押しかけてでも告ろうと思って、あいつにライン送ろうとしたのを、あんたがじゃましたんですよ!」
絡んだときに覗きこんだ、『話があるんだけど』は、そういうことだったのか。
「それは……、なんというか、ごめんなさい」
「しかも、別れろみたいなことばっか言って、未来の不安を煽られたし」
「ほんとうに、ごめんなさい」
Tはふてくされた顔をしている。鳥羽は、むりやり笑顔を作った。
「じゃあ、今から、改めてライン送ろうか。な!」
鳥羽はふたりの恋を応援するつもりなどなかったし、本音を言えば、もともと男が好きでなかったのなら、いまの感情を一過性のものと割り切って、やめておけばいいのにと思っている。しかし、自分のせいと言われるとやはり寝覚めが悪かった。馬に蹴られて死んでしまうよりは、Tの思うままにさせたほうが鳥羽は楽だし、男同士なら病気にさえ気をつければ、子どもができるような心配もない。取り返しのつかないようなことにはならないだろう。たぶん。
責任を逃れる言い訳をあれこれ考えつつ、鳥羽はTの肩を揺すった。
「さあ、な! 勇気をだして!」
「……もう、気が削がれました」
「そんな! 大丈夫だって! いけるって!」
「無責任なこと、言わないでください」
「確かに責任はとれないけどさ。でも、ねえ」
「男同士って、世間的にも厳しそうだし」
「あー、まあ、それは……」
「おれは、なに言われても、乗り越えられます。自信あるし。でも、あいつはどうか……。不安を煽られたって言ったけど、あなたに言われたようなこと、本当に起きそうで」
高校生の言う、恋愛における自信なんて、羽根よりも軽いなあと思ったが、言わなかった。
「それに、告白したら」
Tの声に、かすかに涙が混じった。
「もしかしたら、もう二度と、笑いかけてくれなくなるかもしれないんですよ?」
鳥羽は、ため息を飲みこんだ。もう、かける言葉を持たなかった。
沈黙のなかを、電車がまた、やってきた。くちを開けて人をぽろぽろと降ろし、優しい大きな動物のように、ふたたびゆっくりと動き出す。その窓の明るさは、眼鏡を外している鳥羽の視力では滲んで見えたが、Tは涙で滲んでいるだろう、と思った。
電車は、その役目を終えるまで、何度同じ駅に止まるのだろう。何人のひとびとを、乗せるのだろう。ふと、そんなことを考えた。
電車が去り、降りた人々も去って、ホームがふたたび静まった頃、Tはおもむろに立ちあがった。
「もっかい、よく、考えます」
そしてふらふらと改札へ向かう。鳥羽は、慌てて声をかけた。
「あー、あのさ!」
Tが振り返る。視力が悪いせいか、しょんぼりとしたその顔が、鏡でたまに見る、疲れたときの自分の顔とそっくりに見えた。
とりあえずなにか言わないと、とだけ思って声をかけたので、言葉が出てこない。
そのとき、なぜか、高校生のときの初恋のひとの顔が浮かんだ。いつだったか、机を向かいあわせにして、なにか作業をしていた。それがなにかのタイミングで、教室にふたりきりになって――。
告白するならいまだ、と鳥羽は、もじもじしていた。すると彼女が、
『鳥羽くんって、あんまり、目あわせてくれへんよな』
と言ったのだった。好きだから、きみの目だけが見れないのだと、結局そのときは言えなかった。
鳥羽はTに、
「目を見て言うのが、大事だと思う」
と、言った。言ってから、Tは告白するのを迷っているのに、告白するときの注意点を言ってどうするのだ、と自分で思った。Tはちょっとだけ笑った。そして鳥羽に軽く頭を下げ、反対側のホームと繋がっている地下道をおりていった。しばらくして、とぼとぼと向かいの改札を出ていく姿が見えた。
鳥羽はベンチに座ったまま、しばらく放心していた。考えがまとまらない。とりあえず、Tはポニーさんとはつきあっていなかった。ふたりで街を歩いていた理由は、聞き出せなかったけれど。そして、TとHの間には、やはり恋愛の感情があった。ふたりを応援するつもりはないが、Tは告白できるだろうか。
ああ、Hもきっとおまえを好きでいるよと、言ってやれたらよかったが……。そんなことをすれば、毎朝ストーカーじみた行為をしていたことがばれてしまう。
ぐるぐるとまわる思考に疲れて、夜空を見上げると、裸眼でいるせいで、星がぼやけている。ポケットから眼鏡をとりだそうとして、身動きしたときに、なにかが地面に落ちた。
Tが買ったブレスレットだった。いつの間にか腿の上に置いていて、そのまま忘れていた。慌てて立ち上がり、地下道を走って改札を出たが、当然どこにもTの姿は見えなかった。
暖かく絡みつく風が、夏の到来を告げていた。
日曜を挟んで、月曜の朝のうぐいす駅。
鳥羽は、TがHの腕をつかんでホームの隅に連れていくのを見た。
Tは怒っているのかと思うほど真剣な表情で、Hの手を握ったまま、俯き加減になにかを話していたが、ふいに不安そうな顔になって、Hの顔を一瞬だけ見た。しかしまた俯き、そして、なにかを言った。直後、Hの目が泳いで、顔がみるみる赤く染まった。
まさか、告白したのだろうか。目を見ろと言ったのに、あいつ、ろくに顔を上げもしなかった。
やってきた電車に、発車間際に乗りこんだふたりは、気まずげで、なにも会話を交わしていなかった。しかし次の日には、いつもどおりになっていた。ただ、Tのあの過剰なスキンシップは、なりをひそめていた。
告白したのか、成功したのか、失敗したのか、あの夜の酔っぱらいと同一人物とばれたくはないのに、それでもふたりを見守らずにいられなかった鳥羽は、そのまた翌日も、ホームで電車を待っているふたりに近寄っていった。
そしてその時、Tの手がするりとHの手に絡んだのを見た。
HはTを見上げると、照れたように俯いてから、威勢よく振り払った。笑みを抑えきれないその頬に、明るい朝の陽が差していた。
もう、ふたりと同じ車両には乗るまい。そう鳥羽が誓ったその日、関東全域で梅雨明け宣言があった。




