紅い月のない夜
あちらにまっすぐ進めば二人がいる、とノアに教えてもらって、亜紀はひたすら同じ方向を歩いていった。
ノアも、オーレも、もちろんバクも、お互いの位置をなんとなく把握できるだけの能力はある。
この中でやっぱりどうしても、自分だけが落ちこぼれている。
それもどうやらノア曰く、半分生きていて半分貘になっている中途半端な状態のせいらしい。
だから努力を重ねたところで力の行使は上手くならないし、気配も探れるようにはなれないのだという。
あなたには伸びしろがありませんと宣告されたようなもので、声を上げて泣き出したい気分だった。
しかし、ノアの言うことを鵜呑みにはしたくない。
彼女が本当のことを言っている確証はないし、あのサキュバスの女のように己の目的のためだけに動くタイプだったら信じるのは危険だ。
気配を探れることも、バクとオーレの役割についてこちらから言う前に当ててみせたことも、確かに彼女が高位の存在である証拠かもしれない。
かといって信じられるかどうかとは簡単に結び付けて良いものではないだろう。
しばらく歩いていたが、一向にバクやオーレの姿は見えない。
まっすぐ進んでいるつもりでも、途中に林立する扉を避けて歩いてきたから、いつのまにか方向がずれてしまっていたかもしれない。
――ひとりとは、なんて心細いものだろう。
真っ暗な世界にたったひとり取り残されたような気持ちになって、亜紀の目にはまた涙が滲んだ。
「やだ、あたし……なんで」
さっきから泣いてばかりだ。
袖をぎゅっと伸ばして目元を拭っても、胸の内側から湧き出るような不安までは拭い去ることができない。
歩調を早め、やがて走って。
早くバクとオーレの2人に逢いたくて、この真っ黒な世界の中で唯一安心できるところに戻りたくて。
自分では2人の居場所を確実に感じ取ることができないのだから、もう、2人から見つけてもらうしかないかもしれない。
そう諦めに似た気持ちが首をもたげたとき、微かにバクの気配を感じとることができた。
意識を集中させて、それが確実にバクのものであると判断できた亜紀は、そちらに向かって走り始める。
一縷の望みにも似たそれを頼りに、ただ、走る。
途中無数に浮かぶ扉を避けながら、溢れ出す涙を拭うこともせずに。
ようやく彼の姿を目視でも確認できるところまで近づいて、思わず飛びつくようにその背中に抱き着いた。
――やっぱり、バクと一緒にいたい。
自分ひとりだけ戻るなんて、できない。
「……亜紀? おかえり……どうしたの」
「ううん……なんでもない、なんでもないの」
そういえばずっと泣きながら走っていたんだった。
泣き顔を彼に見られまいと、広い背中に顔を埋めた。
ぶっきらぼうだけど、いつも頼りになって、あたしのことを守ってくれる、バク。
この背中に何度救われたかわからない。
「やれやれ……アキはバクが本当にお気に入りなんだね」
斜め前方からもう一人の聞きなれた声がして、亜紀は少しだけ顔を上げた。
バクの背後に隠れて伺うようなかたちでオーレの姿を認めるも、泣き顔はやっぱり見られたくなくて、すぐに背中に隠れる。
肩を竦めるオーレは、一瞬だけ顔を見せた亜紀の様子がおかしいことに気が付いたが、あえて何も言わずに黙っていた。
自分の出る幕ではなく、バクでないと意味がないのだろうと思ったからだった。
「ちょっと……本当にどうしたの? いい加減離れてくれない?」
少々困惑したような声をあげるバクの背中からようやく離れる。
数歩後ずさるも、振り返ったバクの顔を見ることができない。
そこでようやくバクも亜紀の様子がおかしいことに気が付いた。
はっ、と息を飲んで、彼女の様子を見て、すぐに可能性に思い当たる。
「……ノアと、何を話した?」
そう尋ねられて、もう、亜紀は涙を抑えることができなかった。
声をあげて泣いて、バクの胸に飛び込む。
「あたし……っ、あたしだけ、なんて、戻りたくない……! いやだよ……!」
全てを、話した。
バクとオーレが現実に戻るには別の体がなくてはならないこと。
亜紀の体はまだ現実で『生きている』らしいこと。
でも、自分一人だけ戻るなんて納得がいかない。
どうしてバクやオーレを置いていかなくちゃいけないの?
あたしは、みんなで戻る方法を探したいのに――。
涙交じりで順番もめちゃくちゃな話を、バクとオーレは最後まで黙って聞いていてくれた。
止まらない嗚咽を漏らしながらどうにか話し終えた亜紀に向けてバクが放ったのは、冷たい一言だった。
「……君は一人で戻るべきだよ」
その言葉を聞いた瞬間、時が止まったかのようにすら思えた。
ノアに言われた一言が頭の中で繰り返される。
――『本当に、3人で戻るのがあの2人にとって幸せなのデスか?』
でも、違う。
そんなはずはない。
こんな真っ黒な世界に取り残されるのが幸せなはずがない。
「いやだよ……あたし、一人で戻ったって……意味ないよ。バクも、オーレも、みんなで戻らないと」
しかしバクはゆるく首を振る。
オーレは、と視線を移しても、彼も真剣な面持でやっぱり首を振るだけだった。
「なんで……」
「確かに、全員で戻れたら良いのかもしれない。でも現実でもう肉体がない俺たちはどうしようもないんだよ」
ノアにも言われたことだった。
全員で戻りたければ、死体を用意しなくてはならない。
もちろんそんなことは不可能だ。
でも、きっと何か別の方法が、まだ、きっと――。
望みを捨ててしまったら、可能性さえ潰れてしまいそうでできなかった。
細く揺らめくだけの危うい望みを、それだけを頼りにやっと立てているような状態。
しかしバクはじっと亜紀の目を見つめたまま、言う。
金色に光る、彼女とは違う瞳が射抜く。
「それで亜紀の未来まで閉ざされてしまったらもっと意味がない」
――どうして。
――どうして、彼らがこんな目に遭わなければいけないんだろう?
――どうして、彼らが、何をしたっていうんだろう?
理不尽としか言いようがない夢の世界のからくりを、亜紀はただ呪った。
重い空気がずっしりと場を支配して、呼吸すら重たく感じられる。
この吐息すらも幻想で、偽りの呼吸で、幻の身体なのに。
ただ亜紀の嗚咽だけが響く黒い闇に、今度はオーレの低いトーンが響く。
「……戻ったほうが良い。アキは自分たちとは違うんだ。……酷な言い方、だけれど」
「そんな……」
そう言って、オーレはふっと表情を緩めた。
全てを諦めたかのようにも見える微笑みを浮かべて、一歩、また一歩と亜紀に近付く。
そして大きな手で彼女の頭を優しく撫でると、慈しみの籠った声で言った。
「ありがとう。自分は、アキのおかげで随分楽しい思いをさせてもらった。……もう、十分だよ」
「どうしてそんなこと!」
まるで今生の別れのようなことを言い放ったオーレに、亜紀は怒りを露わにする。
しかし彼はそれも想定済みであるかというように、柔らかく抱きとめる。
急に抱きすくめられて、亜紀は次に続く言葉を放つことができなかった。
「……ありがとう。本当に、ありがとう。短い間だったけれど、きっと永遠に忘れないよ」
「待って、オーレ、やめてよ……そんなこと、言わないで」
抱きしめていた腕をほどくと、オーレはふっと笑って、紺色の傘を虚空から取り出す。
傘をぽんっと開くと、次の瞬間にはもう彼の姿はなかった。
その時、口の動きだけでこう言っていた。
『さよなら。』
「ん~、理解できないのデス」
突然の出来事に放心していた亜紀の意識を引きもどしたのは、能天気な声だった。
呼び出してもいないのに、またも死神の少女が現れていたのだ。
からん、ころん。
下駄を鳴らして、どこか楽しげにすら見える足取りで亜紀達に近付いてくる。
人差し指を顎に当てながら、思案する素振りを見せて二人のことをそれぞれ見上るように視線を移していった。
んー、と唸って、視線は亜紀でぴたりと止まる。
「せっかく元の現実に戻してあげられるワタシが現れたというのに、貘とオーレ・ルゲイエに固執する理由はなんなのデス?」
小首を傾げて、ずいと亜紀に詰め寄った。
投げかけられたのは直球の疑問。
今度はその人差し指を彼女へと向けて、「不思議デスね?」とおどけた声で言う。
亜紀は一歩後ずさり、ノアと距離をとった。
目を伏せて、苦虫を噛み潰したような顔を繕いもしない。
「……ノアには、わからないよ。ずっと一緒にいたのに、お別れしないといけないなんて、辛いと思うのが普通だよ」
この1年、ずっと彼らとはべったりと一緒だった。
ぶっきらぼうだけど本当は優しくて、いつも守ってくれていたバクも、明るくて楽しい時間を一緒に過ごせるオーレも。
どちらのことも、大好きだった。
自分だけ現実に戻るのは、彼らを裏切るようで、自分自身の気持ちにも嘘をつくことで、とてもできそうにない。
しかしノアはにいっと笑って、亜紀の顔を覗き込む。
「もっと大勢と『お別れ』するほうを選ぶのデス?」
もちろん、現実には戻りたい。
現実で過ごしてきた14年間はかけがえのない時間だし、そこで紡いできた絆は大切なものだ。
しかし、貘として夢の世界で過ごした1年もまた、亜紀にとってはかけがえのない記憶と時間なのだ。
貘として生きることを選ぶなら、現実で過ごした14年間とは永遠の別れとなることは分かっている。
でも、割り切れない。
わがままでしかないのも、分かっていた。
どうしようもないことなのも、分からなければいけないのかもしれないと思い始めていた。
そんな思いが胸をよぎるたびに、目頭がじわりと熱を持つ。
「んー、尚更理解できないのデス。貘とオーレ・ルゲイエにどれだけ思い入れているのデス?」
あきらめたくない。どうしても探したい。
ノアだって死人だというなら、元の現実に関して正しく把握しきれていない可能性があるはずだ。
「……あたしはノアを信じない」
亜紀は宣告する。
その想いがたどり着いた答えは、拒絶だった。
しかしそれからほとんど間を置かずに、バクがぴしゃりと言う。
「いい加減にして」
怒気すら孕んだような声に、亜紀は少しだけ怯む。
見上げた彼の目は確かに怒りを燃やしているようで、どうして、と問う前にバクは口を開いた。
「ノア」
それだけを呼ぶと、頷く。
すると、待ってましたとでもいうように虚空から日本刀が現れた。
にっと口角を上げると、ノアは豪奢な鞘から刀をするりと抜く。
華奢な腕にはいささか大きすぎるそれを亜紀の顔へと突きつけ、首を傾げた。
「というワケなのデス。どうも、さようなら」
「ちょっ……バク!?」
どういうことなんだ、と彼のほうを見ても、バクはこちらに目線を合わせようとしない。
しかし気づいてしまった。
バクの右手に収まった、和紙の蝶。
亜紀はようやく理解した。
――バクがノアを呼び出していたのだ。
ノアは両手で柄を握ると、振り上げる。
目を細めて笑いながら、混乱する亜紀に追い打ちをかけるかのように歌うような声色で流暢に事のあらましを話しだした。
「恨まないでほしいデスね。狩ってもいい、むしろ狩ってくれと貘から頼まれたのデス」
――斬られる。
そう思って、かわさなくちゃ、と頭では思うのに体がついていかない。
痛いだろうとかそういうものではなくて、もっと本質的なものを殺される恐怖感が強すぎて、動けない。
「ワタシ個人としても、アナタは狩られるべきだと思うのデス。ワタシの利がどうとか以前に、こんなのは歪んでいるのデス」
ぐ、と振り上げた両腕に力が籠る。
研ぎ澄まされた刀身が鈍く光る。
「半端ものとしてずぅっと彼の足を引っ張りながら永遠に生き続けるのデスか? うまく行使できない力はこれからも上手くならないデス。現実に戻って幸せに暮らしたほうが、『お互いのため』なのデス」
あんなに望んでいたはずの現実が、今は抵抗したくて仕方がない――!
言い返そうと思っているのに、口からは意味のある言葉が発せられない。
抵抗しなきゃ、と焦る心だけが空回りして、喉の奥がひくついた。
「では現世で。こちらに来るにはアナタはまだ早すぎた」
振り下ろされた刀身は、亜紀の魂を容赦なく斬り捨てた。
「……バク」
亜紀が『いなくなって』から、1か月くらい経った頃。
オーレはバクの後ろ姿に声を投げかけた。
亜紀がノアの手によって現実に戻されてから、バクはずっと複雑そうな顔をしていた。
彼女は、うまく現実に戻れたのだろうか。
「……後悔しているかい?」
そう問うと、ゆっくりとバクは振り返る。
感情の籠らない無表情に、金色の瞳だけが爛々と光っていた。
しばらく黙っていたが、ゆっくりと首を振ると、やがてぼそぼそと喋りだす。
「……賭け、に近いところもあったけどね。亜紀が元の現実に戻ることに抵抗すれば……魂が現実に戻れないかもしれなかった」
「でも、ノアの言うことを信じるなら、アキはきちんと現実に戻れたんだろう……?」
ただ、頷く。
ノアは確かに信用はできないが、むやみに嘘をつく性格でもなさそうだった。
だから、信じるしかない。
現実に戻ってしまった亜紀のことを知るには、もはやノアを頼る他ないのだから仕方がない。
もう彼女は、自分たちとは違うのだ。
自分たちの手の届かないところに、行ってしまったのだ。
亜紀はもう自分たちのことも忘れて、現実で幸せにならなくてはいけない。
もう、気にするのをやめなくちゃいけないと思うのに、心の中から亜紀の存在を消すにはまだまだ時間がかかりそうだった。
バクはそっとポケットから和紙の蝶を取り出す。
何かあれば呼んでくれとノアから渡されたものだ。
彼女もそれなりに気にかけてくれているらしいが、あの人を食ったような笑みを今は見たくない。
もう一度ポケットにそれを押し込みながら、ほとんど強がりでしかない冗談を言うのが精いっぱいだった。
「もともと、貘が2人いるほうがおかしかったんだよ。だからいいんだ……これで。これが一番良かったんだよ」




