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  作者: 梶島
Dream of Butterfly
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17/19

居る場所のない言葉

「……バクっ! ちょっと、なにもオーレのこと睨まなくたっていいじゃん」

「そうだね」


入った『悪夢』は、荒涼とした風景だった。

現代日本のものらしかったが、空は曇天が厚く覆い、家屋という家屋はもれなく倒壊している。

あちこちに転がる薄汚れた塊や、瓦礫の隙間から除く布などがなんなのか、亜紀は考えないことにした。


咎めても、振り向きやしない広い背中。

なぜ彼がこんなにも急に不機嫌そうになったのかがわからない。

自分が『貘』になったときのことでも思い出したのかもしれないが、それがバクが怒る理由たりえるかというと、疑問が残った。


角材やなんやらが無秩序に散らばっており、かろうじて露出している地面すらぬかるんでいて、意識しなければ足元を掬われそうになる。

バクはさすがとでも言うべきか、そんなコンディションの足元にさほど意識を払う様子もなくすたすたと歩みを進めていた。


「あたしだって色々考えて、って、うぅ……」

「考えて、って。例えば?」


亜紀がぬかるみに足をとられて転びかけたところで、ようやくバクが振り返る。

しかしそれは彼女が転びかけたからという理由よりも、発言に対してだった。

むっとしたように眉根を寄せ、前髪から除く金色は鋭い。


「君はもとの現実に戻れるんだよ? それを蹴る理由は? ……ああ、言っておくけど俺達のことを持ちだすのは禁止するよ」


普段とさほどトーンの変わらない声ながらも、そこに静かに含まれる怒りを亜紀は感じ取った。

しかし亜紀も、同じくらい彼の発言に擽られている。


――あたしのことをあたしが決めたのに、どうしてバクに怒られなきゃいけないの?

あたしがバク達を残して一人だけ戻るなんて嫌なのに、どうしてそれがいけないの――?


「……なんで?」


それは声にも滲む。

珍しくこちらに対する不満を露わにする亜紀を見て、バクはさらに言葉を冷たく尖らせた。

それが当たり前だとでも言うかのように、淡々と告げる。


「なんでって、俺たちは現実では他人でしょ。俺がもう戻れないなら、そこは諦めて貰わないと困る」

「っ!? そんな言い方ってなくない!?」


ついに声を荒げて、亜紀はバクに掴みかかった。

他人、という言葉に突き放された気分だ。

身長も体格も自分よりずっと大きい彼に縋るように、そのパーカーの胸元を握りしめる。

それでもバクの表情は変わらずに、ただなんの温度も載らない視線を亜紀に注いでいた。


「なんで!? 一緒に戻れる方法を探そうって、そう決めたじゃん!」


バクはもとの現実に戻ることに対して消極的だった。

しかし、『いつか一緒に戻ろう』という亜紀の願いに応じて、彼も同調してくれたことをはっきりと覚えている。

二人で戻れる手段があるのなら、きっと一緒に戻ってみせよう、と。

そう誓ったはずだった。


「……何か誤解してないかな? もう俺と君は違うんだよ。ここは死人の世界だ。まだ生きている君が、死んでる俺に引きずられてここにいるのは、異常なんだから」


突き放すバクの表情も声も冷たくて硬い。

握りしめたパーカーの向こうの体温が分からないくらい冷たい夢の中で、これは本当のバクじゃなくて偽物の作りものなんじゃないかとすら思えてくる。

ついに亜紀のその両目にじわりと涙が滲むのを見て、バクはそっと彼女の肩に両手を乗せるとそのまま引き離した。


――バクは、自分と別れろって言いたいんだ。


そこに至ると、亜紀の中で沢山の想いが沸き上がる。

確かに夢の世界に囚われてしまったのはバクとの出会いがきっかけだった。

彼の寂しい優しさに触れて、放っておけなくなって、自分の核を破壊して、『二人の貘』というイレギュラーな存在になる。

『貘』になってから今までの一年間、彼はつっけんどんながらも、静かな暖かさでいつも亜紀を守っていてくれた。


それなのに、どうして。

今のバクは、どうしようもないほどに冷たい。


「……バクは、ノアの言うことを信じるの?」

「サキュバスの女よりは信憑性があると思ってる」


最後の可能性は、ノアが嘘を吐いているかもしれないということ。

しかしバクは死神を信じていた。


貘とオーレ・ルゲイエの正体をすぐに見破ったこと。

自分の核と同じ形をした小鳥を出してみせたこと。

彼女から説明された亜紀の力が中途半端な理由も納得がいく。

そしてあの、おぞましい日本刀。


ノアを疑うべき要素はほとんど見当たらない。

しかし亜紀はまだ納得がいかない様子で、バクを揺さぶった。


「バクとオーレが死んでるとか、あたしがまだ生きてるとか、わかんないじゃん。あの刀だってそうだよ。あれに切られて、ほんとに戻れるのかなんてわかんないし、もしかしたらあたしはノアにただ狙われてて、そのまま消えちゃうのかもしれない」 

「……それならさっさと斬ってるでしょ、あの女も」


わざわざ騙すなんて非効率だ、と言い添える。

認めたくない気持ちはわからなくもない。

こっちだって同じ気持ちだったから。


――亜紀と離れたくなんかないのに。


どうしようもないジレンマが苦しい。

胸を焼き焦がす矛盾に窒息しそうで、自分勝手な気持ちを全て吐きだしたくなる。

だけどそれを言ってはいけない。

今は、亜紀を引きよせてはいけない。


そう望むことすら、今の自分には許されないのだから。


「……それじゃ駄目なんだよ」


今まで押し込めていた感情も、もう我慢の限界だった。

お願いだから、分かって。

懇願にも似た言葉を、吐きだすようにぶつけていく。

できるかぎり冷たく接しようと決めていたのに、そうしていられるほどの強さはとっくに擦り切れていた。


「俺はもうきっと現実じゃ死んでる。これはほとんど確信に近い。あの死神に言われなくたって、本当はずっとそう思ってたんだ。亜紀に言われた後も」

「……どうして、そんな」


一緒に戻ろう、という言葉。

それは嘘だったのかと、亜紀はショックを隠しきれなかった。

自分にただ合わせてくれていただけで、彼は内心諦めたままだったのか、と。

彼の生への希望を再び灯す事ができたと喜んでいたのは、ただのぬか喜びで、自分は愚かな子供だったのか。


「それでももし万が一、亜紀と二人で戻れる可能性があるならそれには乗りたいと思ってた。これは本当だよ。……でも、そんな方法なんてある訳がない! 自分の命のことは、自分が一番よく分かってる……」


亜紀はもう涙を堪えてなどいられなかった。

自分が涙を流せばその分バクを困らせると分かっていても、熱くなった両目は冷めてくれない。

まばたきをしなくても頬を伝ってしまうそれを、バクはそっと指で拭ってくれた。


「これ以上亜紀のことを縛りたくない。亜紀は俺とは違うんだから、現実で普通の人生を生きて欲しい」


頬を覆ってくれた手は、暖かい。

それに自分の手を重ねて、亜紀はバクを離すまいとする。


どうして、バクがこんな目に遭わなくちゃいけないんだろう?

騙されて、ずっとひとりぼっちで、そこから逃げ出せるチャンスが訪れても、あたしのことを想ってくれて。

それなのに、もう戻れないだなんて残酷すぎる。


「……やだ、いやだよ。どうして?」


駄々をこねる子供のような、漠然とした拒否の言葉しかもう出てこなかった。

残酷すぎる不幸に絡め取られて、この世界に縛られているのは彼だって同じだ。

そこから解放される術は、ないのだろうか。

自分の命を半分分けてでも、バクをここから解放してあげたいくらいだった。

そんな亜紀を見て、バクの表情にひときわ濃い悲しみの色が滲む。


「俺の、最後のお願いだって言っても。……亜紀はそれを聞いてくれない?」


それだけ言うと、バクは亜紀の頬から手を離し、一歩、また一歩と向こうへ歩きだした。

木の軋むような音とともに、20メートルほど先にある半壊の家屋がさらに崩れ落ちる。

世界の終わりのような風景の中で、亜紀はただ遠くなっていく背中にかける言葉も見つからないまま、後ろをついていくことしかできなかった。


小さな、淡い青色のたった一輪の花。

あんなに絶望的な世界の中で確かに芽吹いた希望のようなそれが、夢の核だった。

これを摘み取らないと、自分たちは存在を保てない。

かわいそうだと思いながらも、そっとそれを取りこんだ。

ほわりと胸に広がる暖かな感覚。

もう慣れたはずのそれが、今はなんだか妙に息苦しい。

夢の主が夢から醒めてしまえば一緒に消えてしまう存在だというのに。

この小さな花がまるで今の自分たちのようで、亜紀は胸の奥がぎゅうと絞めつけられる思いに襲われた。

現実から摘み取ってきた命を夢の世界に閉じ込めるなんて、なんて残酷なシステムだろう。

自分たちはただ、翻弄されるしかないのだろうか。


核を亜紀が取り込んで夢から出るまで、二人の間にろくな会話などなかった。



「……バク、あたし……ノアとちょっと話したいんだけどいいかな」


扉をくぐって夢の中から抜け出すと、ようやく亜紀が口を開く。

少し視線を彷徨わせた後、バクはパーカーのポケットから和紙の蝶を取りだした。

それを亜紀に手渡そうとした瞬間、蝶は彼の手を離れて羽ばたき始める。

鱗粉をまき散らすように光の粒を弾けさせ、白い蝶は淡く輝きながらも不規則な軌道を描く。

くるくると回るように宙を舞っていたそれは、ひらりと一瞬で少女の姿を形どった。


「はーいはい、呼ばれて飛び出てどろろーんなのデス。案外早いお呼び出しデスね?」


それはそのままノアの輪郭を作り上げ、蝶の姿はもうどこにも見えない。

おどけた台詞を吐きつつ、長い髪と和服の裾を翻しながら着地したノアは、その勢いのまま亜紀に抱きつくように縋った。


「ま、だいたいのことは承知デス。さて、それではあのへんで秘密のお話でも」

「えっ!? うわ、ちょ、ノアっ!?」


ずるずると亜紀を引きずるようにして、ノアは黒い空間の向こう側へと行ってしまう。

彼女の腕の中でじたばたと暴れる亜紀の抵抗など痛くも痒くもないとでもいうかのように軽やかな足取りだった。

やがてそれは、黒に溶ける。

バクはそれを止める気も追いかける気も起きず、遠ざかる二人の背中を何も言わぬままただぼうっと見つめていた。


「ほーんと、自分がちょっと目を離すとギスギスするねぇ、君たちは」


そこに、後ろからおどけた調子の声が投げかけられる。

自分の仕事を終えて戻ってきたらしいオーレだった。

左腕にひっかけていた子供用の傘と紺色の傘をぽんと空中に放り投げると、それは手品のように消え失せる。

そのまま空いた右手でバクの背中をばしんと叩いた。


「……余計なお世話だよ」


露骨に不快感をたっぷりと表せながら睨みつける。

今はオーレの相手が出来るほど、バクの気力も残ってはいない。

それを察したのか、オーレの声色が幾分か落ち付いた柔らかいものになった。


「おや、その様子だとバクも随分堪えてるようだね? こっちもこっちで少しお話しようか」


ぱちんと指を鳴らすと、二人の目の前にオレンジ色の光の粒子が生まれ、集まりだす。

燐光はやがて丸いテーブルと二つの椅子を形作り、テーブルの上にはいつのまにかティーセットとクッキーまでもが現れていた。

さながら喫茶店の一角をそのまま持ってきたような一式だったが、生憎周囲の風景はいつもの黒い空間に扉が浮かんでいるだけだ。

そんなことは気にすることもないとでも言うように鷹揚な仕草でオーレはその椅子に腰かけて、ポットからカップへと紅茶を注ぎ始める。


「君がどういう人生を歩んできたのか、自分は知らない。それでも、『こんなことになるならいっそ亜紀と出会わなかったほうが良かった』なんて後悔だけは、しちゃいけないよ?」


言われても、バクは動きもしなければ言葉ひとつ発さなかった。

さっきまで睨みつけてきていた彼はもうまっさらなとでも言うべき無表情をその顔に貼り付けて、眉一つ動かそうとしない。


――図星なのだろう。


内心オーレは胸がちくりと傷んだ。

しかしそれをできるかぎり表に出さぬよう、彼の態度を気にしたふうでもないように振る舞いながら、向かいの椅子を指さしてみせた。


「ほら、座って。今は少し落ち着いてみるべきだと思うんだけれど?」


にっこりと笑う。

もう一つのティーカップにも琥珀色の液体を注ぎ終えると、それを差し出しながら『どうぞ』と手で示した。

さすがのバクも大袈裟にため息をつきながら、オーレの向かいの椅子を引く。


「……あんたと話してると、余計に掻きまわされそうだ」

「そんなことはしないよ。ほら、今のうちに君も少し本音を吐きだしてみるべきだと思うよ?」


ほらほら、温かいものでも飲んでリラックスして。

そう柔らかな声で促してきた金髪の青年に、渋々ながらもバクは応じるのだった。



「――ノア」


亜紀はノアに引きずられるようにしていたが、そのうち普通に並んで歩くようになり、ノアの後ろをついていく形になり。

しばらくそうして歩いていたものの、亜紀は立ち止まった。

呼ばれたノアはゆっくりと振り返って微笑んでみせる。

生気のない冷たい笑顔に、亜紀は背中がぞくりとするのを感じた。

獲物を見付けた蛇のような、死を直感させる視線。

しかしそれに反してノアの声は柔らかいものだった。


「おや、このへんでいいのデス? まだ彼らの気配をがっちり捕捉できる範囲内デスが」

「あたしにはわかんないから、いいよ」


もう漠然とした方向すら見失ってしまっている。

ノアに分かるということは、きっとバクとオーレの二人にもわかるのだろう。


――でも、あたしにはわからない。


自分が本当に半端者で、ノアの手を借りれば元の現実に戻れたとしても、それだけでは望む幕引きになどならない。

ノアのことを全面的に信じるのも疑問だったが、今は彼女から情報を引きだして、それが本当かどうか自分で判断しながら決めていくしかないのだと亜紀は決心していた。


「あのさ、バクとオーレがもう死んじゃってるって、絶対に本当なの? あの二人も一緒に、もとの現実に戻れる方法はないの?」


問いかけたかった言葉は、思ったよりあっさりと口から飛び出す。

早鐘のように鳴り続ける心臓は、ありもしない幻想の血液を全身に循環させ、身体を火照らせた。

どこまでも現実と変わらない感覚をまだ持ち続けているこの世界が、本当に死んでいるとは思えない。

なにかきっと、本当に『悪い夢』を見ているだけなら、目が覚めればハッピーエンドのはずだ。

しかしノアの笑顔は、その亜紀の言葉を受けて僅かに質が変わる。

飄々とした裏側に死臭を貼り付けたそれから、嘲りの色を滲ませるものへと。


「……死神に、蘇生を求めるデスか?」


滑稽な話だ、と一笑に伏す。

後ろで手を組んで首を傾げながら、くすくすと笑い混じりにこう続けた。


「彼らに戻るべき身体があるなら不可能でもないデスがー……ええ、おそらくはもう肉を失っているのデス」


肉が、ない。

現実に戻りたくて懇願しているというのに、突きつけられたものはあまりにも現実的だという皮肉。

ノアの言葉が意味することを、亜紀は理解したくないと思いつつ理解できていた。


――あの二人はもう、火葬されてしまっている?


「あの姿はあくまで彼らが生きていた頃の名残。元の身体をベースに描かれた幻想なのデス。それはアナタも同じ」

「う、うん。それはなんとなくわかるよ」


感覚も、感情も、全てそのままにこの世界に居られてはいる。

しかし、意識をすれば飛べたり、雨などをすり抜けたり、現実ならばあり得ない能力だっていくつも得ていた。


さすがに『ここ』が現実だとは思えない。

だからこそ、元の現実に戻ることを渇望しているのだ。

たくさんの人と、たくさんの想いと、たくさんの出来ごとに囲まれた、もとの世界に。


ふ、と息をついて、ノアは続ける。


「それと出来る限り同じ状態で肉体が保たれているならば、完全に切れたリンクを繋ぎ直すことも、できるとも言いにくいデスが不可能ではないデス」

 

上げた右腕が黒いもやを纏ったかと思えば、次の瞬間には黒塗りに金細工の施された鞘が先端からするりと現れた。

ノアはそれを手に取ると、鞘に巻きつけられている赤い刀紐を指さす。

どうやら刀は接続を切り離す道具で、刀紐は接続する道具だと言いたいらしかった。


「ま、本職ではないデスから成功率は極めて低いのデス。やる気があるなら魂を縫い付ける専門の誰かを呼んでもいい、デスが」


ぽん、と刀を放り投げる。

虚空に一瞬で溶けたそれを横目で見た後に、また亜紀に向き直った。

長い白髪が翻り、その上では結った赤い髪紐が揺れる。


「もうあの二人の身体は、無いと見てまず間違いないのデスよ。現実では完全に死んでいるし、彼らの年季を考えれば、ね」

「……そんな」


頭では分かっていても、心がついていかない。

確かに、オーレだってもう何十年もこの世界に居ると言っていたし、バクだって5年くらいになる。


それから、もう一つ。

バクは、語ってくれたことがあった。

自分が患っていた心臓の病と、貘になる直前まで過ごしていた病院での生活のことと、生きる希望を失っていたことと――家族の重荷になっているのが嫌だった、という気持ちを。


むしろ俺が死ぬことで、家族は楽になれたと思う。

俺さえいなければ、父さんも母さんも苦しまずに済んだはずだから。

そう語ったバクの瞳は、寂しそうでもなんでもない、ただ現実を受け入れたようなそれだったのを、亜紀は強く覚えていた。


そんな悲しいことを、言わないで欲しかったから。

俯いて唇を噛む。

そんなことをしたって状況は変わらないし、ここで悔しさを募らせても何にもならない。


――無力だ。


ぎゅうと握りしめた拳は爪が食い込んで痛みが走る。

噛んだ唇からは微かに鉄の味がした。

そんな亜紀の様子とは対照的にどこか楽しげですらあるノアは、腕を組むようにしながら人差し指を立てて顎に当て、思案するように空を見上げる。


「さすがに肉体の生成は不可能デス。もとの身体でなくても、ココロの器たり得る何かに無理矢理結びつけるという手もあるにはあるデスがー……まあ、あまり現実的なお話ではないのデス」

「……方法が、あるの?」


もうなんでもよかった。

バクも、オーレも、みんなが戻れる方法があるなら知りたかった。

亜紀の縋るような視線を受けて、ノアは楽しげに笑う。


「現実的なお話ではない、と言ったのデス。ココロの器たり得る何か、というのはすなわち『魂の宿らない別の身体』。……ほら、アナタには不可能デスよ?」


死体を、用意しろ。


ノアが告げた方法は、確かに現実的ではなかった。

夢の世界から出られない亜紀には到底不可能だし、現実に戻れたとしても不可能な話だ。

希望をちらつかされたのにすぐさま取り上げられて、亜紀は肩を落とす。

それを見てまたくすくすと笑みを漏らしながら、ノアは口元を袖で隠しつつ楽しげに言ってのけた。


「ほら、もう諦めたらどうデス? どうせ現実に戻ればここでの記憶は無くなるのデスから、未練無く戻れるデスよ?」

 

その言葉は、ぞくりとした悪寒として亜紀の背中を撫で上げた。


「……忘れる、ってこと?」


記憶は、無くなる。

つまりそれは、忘れるということ。

頭でそれが結びついて理解するのと、ノアの華奢な両肩に掴みかかるのは、ほぼ同時だった。


「……そんなの! どうして? 記憶が無くなるって、どうしてそんなことにならなきゃいけないの!?」


ノアに当たってもしょうがない。

それは分かっていたが、もはや亜紀にとって新たなヒントをくれるのは彼女しかいないのだから頼る他ない。

亜紀に掴みかかられても、ノアの浮かべる薄い笑みは崩れなかった。

くくく、と喉の奥で笑うと、亜紀の頬に手を添える。

ぞっとするほど冷たい手だった。

つぅ、と撫で下ろすと、そのまま喉を掴むように手を添える。

何の温度もない表情と真っ白な瞳から亜紀は目を逸らすまいとじっと見つめた。


「死人は記憶を残して生まれ変わりはしないし、ましてや死後の記憶が残ることはない。……お分かりデスか?」


確かに、自分には前世の記憶なんてものはない。

しかし今話しているのは前世でもなんでもなく、今まさに生きている自分の話だ。

ノアの答えに納得がいかない亜紀は、探るような声で問いかけを重ねる。


「あたしは……生きてるんでしょ? なら、記憶だって」


ふ、と息を抜くように笑うノア。

それはほとんど呆れに近い色だった。


「……現実に戻るということは、貘としてのアナタは今後一切居なくなる、つまり死ぬということデス。こう答えれば理解するデスか?」


ノアの右手に力がこもる。

喉を締められて、亜紀の顔が苦痛に歪んだ。

全身の血液が首から上に集まって膨張するような感覚。

どうして知らないはずの感覚を体感しているんだろう。

こんなものは味わったことがないはずなのに。

それともノアの力のひとつだろうか。


「ぁ……っ、かはっ」


呼吸を必要としないはずの身体はありもしない酸素を求めて喘ぐ。

時間にしてほんの十数秒。

ノアはすぐに亜紀を解放し、そのまま掴まれた両肩から亜紀の腕を払いのけた。

力の抜けた両腕は幻想の重力に倣い、だらりと落ちる。

亜紀はよろけつつ数歩後ずさり、締められた首に手をやりながら、げほげほと何度か咳き込んだ。

そのまま膝から崩れ落ちるように地に尻を付く。


「……本当は、死ぬなんて陳腐な表現は使いたくもないのデスけれど」


右の手首をぶらぶらと揺らしながら、つまらなさそうに言う。

死を司る死神でありながら、死という言葉を厭うノア。

亜紀は真っ白な少女を見上げながら、ふと浮かんだ疑問を口にした。


「……ねえ、ノアはもともと……『生きてた』の?」


問いかけを受けて、つまらないものを見るような目で亜紀を見下ろす。

数秒黙ったまま視線がぶつかり合った。

ふ、と息を吐くと、あっさりとした語調で答える。


「ええ。元はアナタと同じで現実で生きてたデスよ。……死んだ時にたまたま死神として拾われたのデス」


その言葉を受けながら、よろよろと亜紀は立ち上がる。

向かい合って立ったノアの身長は、自分よりだいぶ低い。

もしかしたら自分よりも年下かもしれない少女が、もとは同じ人間として生を受け、現実で生きていた、というのなら。

この気持ちはわかってもらえるのではないかと、亜紀は再び両の手をぐっと握る。

今度は悔しさではなくて、強い決意によって。


――きっとノアは全てを告げてくれてはいない。

それをどうにか引き出して、微かな可能性でもみんなで戻れる方法を探りたい――!


「……なら、ノアにだって分かるんじゃないかな。一年も一緒にいたバクたちを差し置いて、あたしだけ戻るなんて納得がいかないってことを」


しかしその強い決意も、一笑に伏す。

は、と鼻で笑うと、ノアは近くの扉にもたれかかり、にやにやとした笑みを浮かべながらその枠に真っ白な手を撫でるように滑らせていく。

蠱惑的にも見えるその仕草は、亜紀をぞっとさせた。

がりがりに痩せた骨ばった白い腕が袖から覗き、そのあまりにも生気の感じられない腕は、本当に自分と同じ『生きていた人間』なんだろうかという疑問すら浮かばせる。


「ワタシにくだらない生を説こうとしても無駄デス。アナタは自分が稀有なケースであるということを理解できてないようデスね? ……何度も言うように、不可能なものは不可能なのデスから、おとなしく一人で戻ればいいのデス」


結局、また同じところに返ってくる。

堂々巡りになってしまう問いかけ。

それにもう飽きたのか、ノアは扉にしなだれかかったまま、右腕だけを宙に挙げる。

黒い燐光が右手を中心にふわりと広がって、次の瞬間には日本刀の形を作り上げていた。


「――そろそろ無駄だと思わないデスか?」


脱力した仕草で、日本刀の豪奢な鞘は脱ぎ捨てられる。

冷たく光る刃は研ぎ澄まされた死の象徴。

かちゃりと鍔を鳴らし、切っ先は亜紀に向けられる。

早くこの刀で斬らせろと言わんばかりの、無言の圧力。

ノアの華奢な体と刀から放たれる壮絶な死臭にも似た圧迫感は、呼吸のしかたを忘れそうになるほどだった。

しかし亜紀は切っ先をじっと見つめたまま目を逸らさずに、問いを重ねる。


「……本当にあたしは……あたしだけは、戻れるの?」

「ええ。アナタだけは、ね」


それがどうした、と言うように肩を竦めてみせる。

しかし亜紀はその言葉を待っていたとでもいうように、強い語調で返した。


「あたしだってもう一年だよ。一年も『死体』が残ってるはずない」


そう。

亜紀が貘になってから、およそ一年は確実に経過しているのだ。

亜紀のもとの体から魂が乖離して夢の世界に囚われたのが一年前ということは、その間体はどうなっていただろうか?

バクやオーレの体が残っていないであろうことは確かにそうなのだろう。

だが、自分の体が残っているという確証がない。

そこまではノアもきっと知らないはずだ。


逆転の発想だが、『自分だけ戻ることはできない』という新しい可能性を認めさせることで、また別の道を探ろうとしたのだった。

しかしその希望も、すぐに打ち砕かれる。


「まだ生きているのデスよ。いわば植物状態というもののまま、アナタの身体は心だけがこちらに来ている抜け殻。魂を求める体の放つ生の匂いが臭くて臭くてたまらないのデス」


臭い、と鼻をつまんでみせながら、おどけたようにノアは言う。

刀を現わせたのは威嚇のためだったのか、亜紀に通用しないと判断したのか、元の鞘の中へと刀身をするりと滑り込ませた。

ぎらつく死は豪奢な金細工の施された鞘の中へと納まり、ノアの纏っていた禍々しい空気もいくらか和らぐ。

しかし思い出したかのように言い添えた言葉は、亜紀の示した『可能性』を裏付けた。


「あぁ、そうそう。アナタの身体だって現実で『燃やされて』しまえば、もう戻れないということデス」

「燃やされ……っ、つまり、現実であたしがもう『生き返らない』と見なされれば、火葬されちゃう……ってこと?」

「アナタの今の状態は非常にイレギュラー、デス。現実でも生きているのか死んでいるのかいまいち判別がつけられないまま生命維持をしているような状態……と言えば、分かるデス?」


厳密には現実でも死んでいるとは言えない状態なのだろう。

生命維持をされて、ただ生かされているだけの抜け殻の体。

それが現実でいつまで周囲の人間から見切りをつけられずに生きていられるのか――。


つまり亜紀が戻るのにも、期限があるということ。

そしてその期限は、現実で亜紀の生命維持に関わっている人間に委ねられている。

 

「イキの良いうちに狩られておいたほうがお得だと思うデスよ? ここにずっと居るのは、現実で筋肉が衰えたりいろいろ弊害があるのでオススメしかねるのデス」


からん、ころんと下駄を鳴らし、ノアは亜紀へと歩み寄る。

それから逃げようと数歩後ずさるも、すぐに別の扉が背中についてしまう。

扉を背にして追い詰められた亜紀の頬に手を添えると、ノアはにいっと口角を上げた。


「それとも一生貘としてこの世界でその命を費えたいと言うのなら、それはそれで構わないデスが」


贅肉のない骨ばった冷たい手。

冷たいと感じるのは、自分がノアに恐怖心のようなものを抱いているせいだろうか。

そう思えばそうなって、そう思わなければそうはならない世界で、ノアの持つ有無を言わせぬ冷たさや禍々しさはなんなのだろう。

自分より一回り小柄な、年もそう変わらなさそうな少女なのに。

冷え切った手を温めるように、亜紀は彼女の手に自分の手を重ねる。


「……そんなことない。あたしは、現実に戻りたいの。……バクやオーレと、一緒に」

「ふむ。まぁ、アナタが先に現実に戻って、二人の器を用意する、という方法もあるにはあるデスね。……記憶を持ったまま戻れるなら、の話デスが」


どうにか記憶を持ったまま現実に戻って、二人ぶんの体を用意する――。

それはそれで、途方もない話だった。


「……ところで、あの2人は現実に戻りたいと思っているのデスか? まだ現実に未練があるのデスか? ――本当に、3人で戻るのがあの2人にとって幸せなのデスか?」


ノアの問いに、亜紀は答える言葉を持たなかった。


「……それ、どういう……」


ただ絶句して、問いを問いで返すことが精いっぱいで。

しかしノアは飛び跳ねるように後ろに下がると、いたずらっぽく笑って後ろで手を組んだ。


「あー、そろそろ別の仕事のようデス。名残惜しいデスが、これもお仕事なので」


つぅ、と右手を宙に挙げると、指先にまたも白い燐光とともに和紙の蝶が現れる。

ひらひらと羽ばたくそれは不規則な起動で亜紀の胸元へと飛び、亜紀の手に収まるとスイッチが切れたかのように動かなくなった。

亜紀の知る紙より少しごわついた手触りのそれは、前回渡されたものと同じもののように思える。

ノアはくんくんと鼻を鳴らすと、うっとりとしたような顔をして自分の体を抱きしめた。


「ああ……本当に、アナタの生の匂いは強いのデス。どれだけ離れても、アナタの気配は手繰れそうだと思うくらいに……」


恍惚の色を含んだ声色と独り言にしては大きすぎる声量で言うと、日本刀を腰に差す。

自分が生きていることを嗅ぎ付けてきたことといい、この紙の蝶から漂う微かなお香のような香りといい、死神は匂いを辿って動くものなのだろうか。


「ねぇ、ノア。最後に聞いていいかな」


去ろうとするノアを呼び止める。

くるりと振り返ると、真っ白な髪がさらりと揺れた。

張り付けたような微笑のまま亜紀を見るノアは何も言わなかったが、それを無言の肯定ととって亜紀は問いかける。


「ノアは死神として今『生きている』ことを、どう思ってる?」

「……それはもう」


勿体ぶるように間を空けると、今までのなかでもひときわ心の底からと思える笑顔を浮かべて、言った。




「楽しくって楽しくって、仕方がないデスよ」

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