壱
空がほんのりと朱色に染まっていく。
どこまでも続く平原の中、一人の少年が小高い丘の上に立っていた。
鳥の群れが頭上をゆったりと通りすぎていく。
それを仰ぎ見る歳の頃は十五くらいの黒髪黒瞳の少年。
少年はずっと何かを待ち続けていた。地平線の果てを凝視したままぴくりとも動かない。
黒い影がゆっくりと伸びて時を刻んでいく。
そして。
辺りの空気を震わせて、遠くから響く汽笛の音が枯れた草木の葉を揺らした。
土色に染まった重い雲、生暖かい風には鉄の匂いが混じり湿気を帯びていた。
殺風景な渋色の荒野の果てに煙が上がったのは夕刻に近い頃。
地の果てから毒々しい黒煙が、尾を引きながらゆっくりと迫ってくる。汽車だ。
地平線の果てから続いている線路。汽車は軋んだ悲鳴を上げながら彼の前を通りすぎ、禿げ上がった丘の向こう。上空に薄く黒雲の張った赤錆びた街へと向かっていく。
風が吹くたびに土煙が視界を遮る。むっとした風が背後から吹きつけ、ちりちりと砂が少年の背中に当たった。
白い水蒸気と黒煙を空へと吐き続ける街の向こうには天まで続く煌々と輝く光の柱、光竜柱。それは世界を支える光の柱であり、この世に命を与え命をはぐくむもの。
今、光竜柱の光は根元近くにまで下がっている。やがて光が完全に沈むとこの世界での夜が来る。
赤くなり始めた光竜柱の光りに目を細めながら、少年は丘を滑り降り、岩に繋いであった老驢馬の手綱を手に取った。軽々しく老驢馬に跨り、街へと向けて老驢馬を駈ける。
老驢馬の背で、皮紐で括った薪が湿った音を立てる。丘に行く途中近くの森で泰斗が拾い集めたものだ。三日続いた雨は森のすべての薪を湿らせていた。
黒く短い髪が風を切り、黒い瞳は空を見ている。薄く紙のように張った雲、それに透けて天鏡が見えた。鏡のような天に反射した街、それは同じく黒々と煙を吐き、騒音さえ響いてきそうなほど大きく天を覆っている。
黒髪の少年、泰斗は姉の蓮紅と二人暮しをしていた。母は三年前に他界。父は五年前に行方不明になっていた。
街に近づくと石を積み上げただけの質素な外壁が見えてくる。永い年月、街の人々を下常風から守り抜いてきた外壁は雨風に削られ、所々欠けている部分がある。
外壁に沿ってしばらく進むと街を囲む外壁の東西南北の四方向に開かれた門、その一つ北門が見えてくる。
門が閉まるのは夜の間だけ、それ以外門はいつも開いている。顔なじみの門兵のいる瓦の欠けた北門を潜り、泰斗は街へと入った。
門を潜ると同時に蒸気の音と、耳障りのする機械音が耳に飛び込んでくる。
そして、錆びた鉄の匂い。
ここを訪れた旅人はまずこの音と匂いにまずは驚くものだ。しかし最初は耳障りだったそれも、次第に慣れ、気にならなくなる。そうでなければこの街では暮らしていけない。
この街に生まれた者であるならば、この音なしには生きていけないだろう。
門を潜った目の前には見上げるほどに大きな製鉄工場があった。工場の壁板は錆び剥がれ、中の錆びついた機械が丸見えになっている。
吹き上げる蒸気と石炭の黒煙は空を覆い、まだ陽は沈まないというのに、工場の周りだけやけに暗く感じられた。
漏れてくる水蒸気まじりの風が老驢馬の鬣を揺らす。それを見ながら少年は馬頭を巡らせ大きな建物が立ち並ぶ街通りへと向かう。
街通りといってもそれほど大きくはない。ここ太蘭の街は人口約四万。その街でもっとも大きな通りですら、馬車が三台やっと通れる程度だった。
街通りに出ると湿った土の匂いがした。
建物の根元にしがみつくようにして並ぶ露店。少年は店の中を覗き込みながらゆっくりと老驢馬を進めていく。
「よう泰斗、汽車はちゃんと見えたか?」
露店で野菜を売っていた初老の男がくしゃりと笑い優しげに声をかけた。
泰斗は老驢馬を止めて振り返る。
「三日も降った雨がようやく止んだからね。今頃、泰斗が丘に登っているところだろう。ってみんなで言ってたところさ」
頭に山のように簪を挿した初老の女がそう言って欠けた歯を見せて笑った。
泰斗が薪拾いを口実にして、毎日のように丘に登っていることを、この辺りの者なら誰でも知っている。
「しっかり見えたよ、地の果てから真っ黒い煙を吐いて、街に入っていったんだ」
泰斗は老驢馬の鬣を撫でながら嬉しそうに言った。
「ははは、俺たちだって天鏡を見ていればそれくらいは分かるさ」
空を見上げながら男は笑って、足元の籠に入っていた桃を一つ掴み、泰斗に投げてよこす。泰斗は片手でそれを掴み取り、お礼を言ってから老驢馬を進めた。
その隣に立っていたやせた男がくしゃりと笑う。
「蓮紅によろしくな」
露店の者たちに軽く手を振り、泰斗は家路を急ぐ。街通りは泰斗と同じく、家路を急ぐ者たちが急ぎ足で通りすぎていく。
伸びる影が長い。陽が沈みかけているのだ。
泰斗は人通りの中を歩くのが好きだった。彼が幼い頃はよく父に手を引かれ、この通りを歩いていたものだ。
やがて街の大通りを通りすぎ、閑静な通りへと老驢馬を入れる。ふと振り返ると、建物が光を切り取り大地の上に巨大な影を落としていた。
老驢馬も道を覚えているのか、泰斗が手綱を引くことなしに、自ら家へと足を進めた。
工場の音を遠くに聞きながら泰斗は狭い道を進む。
遠くから鐘の音が響く。夕刻を知らせる鐘の音に泰斗は老驢馬を急がせた。早く帰らなければ蓮紅が怒る。五歳しか違わない姉に泰斗は頭が上がらなかった。
家に帰ると果たして、頬を膨らませた蓮紅が家の門の前に立っていた。
泰斗と同じ黒髪に黒瞳の娘。束ねられた髪は長く背中まで伸び、真っ直ぐな瞳で泰斗をねめつける。泰斗ばかりか老驢馬までもが首をもたげ、敗走する兵のような表情でしずしずと家の門をくぐった。
「また汽車を見ていたのね」
ため息混じりに言う姉に泰斗は振り返って苦笑する。
「まあいいわ」
諦めているのか蓮紅はそれだけ言って老驢馬の手綱を引いた。
泰斗は途中で老驢馬を降り、蓮紅から手綱を受け取ると、家の裏の小屋に老驢馬を繋ぐ。
泰斗は老驢馬の背から薪を下ろし、それを納屋に運ぶ。高床式の納屋に一抱えもある薪を運ぶ作業は泰斗にとっても楽な仕事ではない。しかし、どんな辛い作業でも力仕事は自分がしなければと泰斗は常日頃から思っていた。
薪を納屋に置き、大きく息をついてから太い枝に皮紐で横棒をくくりつけた簡易な梯子を降りて、泰斗は土の上に降り立つ。
草履が土を噛んでちりりと音がした。心地好い小音を噛み締めるようにして歩き、老驢馬に藁をやってから明かりの漏れる家の中に入る。
戸を開け中に入ると同時に、山菜のいい匂いが鼻腔をくすぐる。
「今日は隣の家から肉を貰ったのよ」
蓮紅は嬉しそうに細かく砕いた肉片を山菜汁の中に入れた。泰斗も蓮紅も肉は久しく口にしていない。それでなくともこの辺りで肉を口にする者はほとんどいない。
貧しい生活だったが泰斗はそれを不満に思ったことはなかった。母が、そしておそらくは父も天鏡の世界でずっと二人を見守っていると信じているからだ。
「天鏡は死者の住む街だ」と街の誰もが言う。この世界は卵の中にあり、天鏡は天界であると。
混沌とした世界に天帝が創った唯一無二の命の方舟。ならば卵の外はいったいどうなっているのか、泰斗は不思議でならなかった。街の誰彼に聞いたが明確な答えを返す者は一人もいなかった。
「ほら、しっかりと食べなさい」
蓮紅はさっさと食事を終え、自分の食器を洗い場へと持っていく。
「私、明日は早いから、朝ちゃんと起きるのよ」
蓮紅は食器を洗いながら背中越しに言う。姉の言葉に泰斗は「はあい」と眠たそうな返事をよこす。蓮紅が見ると泰斗は箸を握ったまま既に船を漕いでいた。
「まったく、いつまでも子供なんだから」
苦笑しながら蓮紅は毛布を取りに行き、卓上に突っ伏すようにして眠っている泰斗の背にそれを掛ける。泰斗の食器を手に持ち洗い場へと戻っていく。
「ねぇ、蓮姉」
眠たげな声のまま、泰斗は姉の名を呼んだ。
蓮紅は「何?」と振り返った。振り返った拍子に手に持った食器がかちゃりと音を立てる。
「天鏡の世界って本当にあるのかな?」
「またその話?」
蓮紅はまたかと呆れ顔をした。
雲の上にある。こことまったく同じ世界。この世の事象を写しだし、まるで鏡のように天を覆っている。故に「天鏡」と呼ばれ天鏡には死者の魂が住まうと言われている。だが、これは俗説で中には、天鏡はただの鏡で、この世界に蓋をしているだけだという声もあった。ならばその向こうはいったいどうなっているのか。
世界の果てに行ったことのある者はいない。否、いないとされている。世界の果て、その向こう側を捜しに行くと言っていた父は、その旅に出たまま帰ってきてはいない。
父が旅に出て既に五年が経過していた。
五年間も音沙汰がなければ死んだものとみなされる。世界の果てを目指したとなればなおさらだ。
泰斗たちも既に諦めていた。
「天鏡が本当に死者の国かどうかどうかなんて誰にも分からないわよ」
父母の事を思い出したのか、暗い表情で蓮紅が言う。
「でも私はあると思っているわ」
蓮紅は独白するように言う。
「おいら……いつか世界の果てに行ってみたい」
「なに莫迦なこと言っているのよ!」
目くじらを立てながらも、蓮紅は悲しそうな表情で泰斗を見た。
「だって、あの汽車は世界の果てからくるんだろ」
「世界の果てなんかじゃないわ。ずっと北の罹裙から来ているのよ」
罹裙は泰斗たちの住む国、鳳凰帝国の首都。
「でも、世界の果てに近いんだろ。ここよりも」
蓮紅は呆れたように食器を卓上に置いた。
「あのねぇ……世界の果てはずっとずっと遠くにあるのよ。いったいそこまでどうやって行くつもりなのよ」
「うーむ」
泰斗は額にしわを寄せ考え込む。子供の泰斗が考えつくのであれば、既に他の者がやっている。
窓の外は既に暗く、蓮紅が蝋燭に火を灯す。蝋燭の淡い炎が部屋を温かく包み込んだ。
「私はね、泰斗」
泰斗の向かいに座り、蓮紅は声を落とす。泰斗は体を起こして蓮紅を見つめる。
「あなたにはどこにも行って欲しくない。たった一人の家族ですもの。私は、ずっとこの街であなたと一緒に暮らしていきたいの」
あまりにも蓮紅の瞳が真剣だったので、泰斗は何も言うことができなかった。
「それは……分かってるよ蓮姉」
姉の言いたいことは分かっている。だが、自分の内から沸き上がる衝動にだけはどうしても勝てない。
「もう、寝なさい」
蓮紅の言葉に泰斗はただ頷いた。
立ち上がり自分の寝床へと向かう。
「お休みなさい、蓮姉」
「お休み、泰斗」
泰斗が寝入るのを見届けてから、蓮紅は小さく溜め息をついた。