第88話:宮本玲奈
全力で歌い切ったあと、胸の奥に渦巻いていたモヤモヤが一気に晴れていた。
――そう、これだ。亜紀と麻里と一緒に、ストレートに直也へ気持ちをぶつけた。
まるで溜まっていた澱が全部浄化されたみたいに、スカッとした。
直也は照れて、耳まで真っ赤になっていた。
その姿を見た瞬間、私の心は「勝った」と叫んでいた。
――そして、横で輝くような笑みを浮かべていた保奈美ちゃんが、にこりと笑いながら直也の右手をつねる。
「うっ、イテー……」
直也が小声で呻いた。
(……ふふん、やっぱりそう来るか)
私はグラスを掲げて高らかに笑った。
「勝ったな、ガハハ!」
ほんの一瞬、女の勝負の場を取ったような気がして、胸が熱くなる。
でも――。
その時、視界の端で直美さんの姿が目に入った。
彼女は千鶴さんの耳元に顔を寄せ、なにやら囁いている。
千鶴さんが「なるほどね」と頷き、イタズラっぽい笑みを浮かべるのが見えた。
……嫌な予感がする。
そして案の定、千鶴さんはすっと立ち上がり、カラオケ機器の前に歩み寄った。
操作パネルに指を走らせる。
画面に映る番号が変わっていく。
(……おいおい、なにかするつもりか……?)
胸の奥がざわついた。
亜紀さんはもう、すっかり気が抜けている。
「直也くん〜褒めて〜!」
酔った顔でアピールし、直也の袖を引っ張っている。
麻里は隣でグラスを傾けながら、莉子と肩を寄せ合って話している。
「まぁ、スッキリしたよね」なんて穏やかな笑みを浮かべながら。
この二人、すっかり仲良くなっているね。
(……これは。全然終わってない。私のゴーストがそう言っている)
私の中で、直美さんの姿が“デビル”の影を帯びて見えた。
直美さんには絶対悪魔の尻尾が生えている。
あの人が動いたら、絶対に波乱が起きる。
それはもう、確信だった。
グラスを置き、私はじっとカラオケ画面を睨んだ。
(……何を仕掛けるつもりなの?)
「直也さんがすごく歌が上手と伺いました。……せめて、私と一曲デュエットを歌って頂けませんか?」
千鶴さんが妖艶な笑みを浮かべ、挑発するようにマイクを差し出した。
(……やっぱり来た)
私の胸の奥で、不吉な予感が鈍く鳴った。
直也は一瞬、渋い顔を見せたものの、周囲の「おおー!」という歓声に押され、仕方なさそうに千鶴さんのほうへ歩み寄った。
「なん……だと……」
隣で亜紀さんが愕然と呟き、麻里が目を見開き、私自身も息を呑んでいた。
莉子は「おおっ!」と妙に楽しそうに身を乗り出す。
画面に表示されたタイトル――『愛が生まれた日』。
イントロが流れ出した瞬間、広間の空気が一変した。
「ちずるちゃ〜ん!」
「よっ! 千鶴姐さん!」
松川のおじさんたちは、すでに大喜びで合いの手を入れている。
(ちょっと、マジで勘弁して……!)
千鶴さんはすっと直也の隣に立ち、マイクを口元に。
そして――。
「恋人よ〜今 受け止めて〜♪」
「あるれる思い〜あなたの両手で〜♪
潤んだ声で歌い出した。
直也が続く。
「恋人よ〜今 目を閉じて〜♪」
「高鳴る胸が〜二人の言葉〜♪
「キャンドルの炎に 揺れてるプロフィール……♪」
「世界で一番 素敵な夜を 見つめている……♪」
極めつけは――。
直也が「サービス」とでも思ったのか、千鶴さんの腰に手を回した。
そんな直也に千鶴さんが少しもたれ掛かった。
「きゃーっ!」
私と亜紀と麻里は同時に絶句した。
保奈美ちゃんの瞳からハイライトが失われれている。
二人が歌い上げる。
「愛が生まれた日〜この瞬間に〜真実は〜ひとつだけ〜♪」
(や、やばい……!)
メロディに合わせて視線を絡ませる二人。
「あなたとならば〜生きて行ける〜♪」
二人がまた歌い上げる。
「愛が生まれた日 この瞬間に〜永遠が〜はじまるよ〜♪」
そして千鶴さんを見つめながら直也が歌い上げる
「君とだったら〜生きて行ける〜♪」
まるでドラマのラブシーンそのもの。
「巡り会えた〜♪」
おじさんたちが大歓声を上げ、手拍子を打ち鳴らす。
酒で赤らんだ顔がさらに熱を帯び、誰もがにやにやと笑っている。
まるで危険な夜を描くドラマの一場面。
松川のおじさんたちは「千鶴ーっ!」「大将ーっ!」と総立ちで叫び、手を振り、熱狂の渦に包まれている。
視線を横にやると、亜紀が固く唇を噛みしめていた。
さっきまで「女を見せた」と胸を張っていた彼女の肩が、今は小さく震えている。
「……こ、これはマズい」
かすかな声が聞こえた。
私自身も、同じ気持ちだった。
「恋人よ〜 もし嵐でも〜 二人は同じ〜 入江の小舟……♪」
「未来で一番 輝く過去を〜過ごしてる〜……♪」
再びサビへと向かう旋律の中で、二人は自然に寄り添うように立っていた。
千鶴さんは妖艶に微笑み、直也に更にもたれ掛かった。
直也はサービスのつもりなのだろう、彼女の腰にそっと手を添える。
その仕草ひとつで、場の空気は更に盛り上がった。
二人の声が重なり、会場の熱は最高潮へ。
そして直也の低音が千鶴さんの歌声を包み込むたび、背筋を這うような不安が私を刺した。
(……完璧すぎる。まるで本物の恋人みたいじゃない)
曲が終盤に差しかかる頃、広間は完全に千鶴さんと直也の舞台だった。
誰もが酔いしれ、誰も止められない。
「愛が生まれた日〜この瞬間に〜永遠は〜始まるよ〜♪」
「君とだったら 生きて行ける……めぐり逢えた……♪」
最後のフレーズが二人の声で溶け合い、照明にきらめく拍手の嵐が広がった。
松川のおじさんたちは肩を組み、涙まで浮かべながら「ブラボー!」と叫んでいる。
――だけど。
その喝采の中で、私はただ、胸を抉られるような敗北感に立ち尽くしていた。
亜紀さんも同じだろう。
麻里は諦めたように小さく笑い、莉子はまだ大爆笑して手を叩いている。
負けた……。