第68話:神宮寺麻里
玲奈と私は息を切らしながら、ようやく会場のホテルに駆け込んだ。
大理石の床を踏みしめ、エントランスからホールへと足を踏み入れる。
その瞬間、ゲスト席に構えていた知事の声が響いた。
「……何なの? あなたたち」
玲奈がすぐに一歩前に出た。
「遅れて申し訳ありません。私は五井物産株式会社のGAIALINQプロジェクトにおける最高執行責任者・一ノ瀬直也を補佐しております、宮本玲奈と申します。
こちらはGAIALINQプロジェクトのステークスホルダーであるDeepFuture AI社・日本法人代表、神宮寺麻里さんです。大雪により新幹線が遅れ、この時間の到着となりました。どうかご容赦ください」
彼女は深々と頭を下げる。
私も隣で同じように頭を下げた。
知事はわざとらしく鼻を鳴らし、口角を上げた。
「あっそう。……まぁいいわ。それでそのDeepFeature AI社の代表さんに、AIについてお聞きしようかしらね」
(……DeepFeature?)
胸の奥にカチリと火花が散った。挑発に乗る気はない――けれど、言葉を正すことは礼儀だ。
「知事。私どもは DeepFuture AI です」
静かに微笑んで訂正する。
「今の発音ですと“DeepFeature AI”になってしまいます。直訳すると“深い特徴のAI”という意味になりますが……まぁ、それはそれで面白い解釈かもしれませんね」
会場の端々でくすくすと失笑が広がった。
「しかし我々は、“DeepLearningで未来を切り開く”という創業者のビジョンを社名に込めています。どうか、その点をご理解ください」
知事の顔が見る間に赤くなった。
「英語の発音なんてどうでもいいのよ! それよりAIについて――もっと具体的に教えて頂戴!」
語尾が震え、苛立ちを隠しきれない声。
私は一礼し、あえて穏やかに応じた。
「失礼いたしました」
そして、微笑を崩さぬまま言葉を重ねる。
「それでは、私がAIについて――その特徴を深く、まさに“DeepFeature”な観点からお答えさせていただきます」
会場にどっと笑いが広がった。
知事は唇を噛み、悔しそうに視線を逸らす。
(……まず一手、返した)
私は呼吸を整え、次に来るであろう本格的な攻防へと備え、亜紀さんの横の席に急いだ。
亜紀さん――。
私と玲奈が駆け寄ると、彼女は涙いっぱいに瞳を潤ませ、それでも笑って言った。
「……ありがとう。待ってたよ」
その一言に胸が締め付けられる。
玲奈も私も、堪えきれずに涙があふれそうになった。
だが今は泣いている場合じゃない。ここから、形勢を押し返さなければ。
私は深く息を吸い込み、正面を向いた。
「――改めてご説明いたします」
声をできる限り落ち着かせ、会場全体に届くように響かせる。
「GAIALINQが目指すのは、八幡平の豊かな地熱を基盤にAIデータセンターを稼働させ、その計算資源を地域のために還元することです。観光、教育、農業――地域産業とAIを結びつけ、これまでにない振興の形をつくることを構想しています」
言葉を区切りながら、丁寧に伝える。
けれど、すぐさま知事が皮肉を込めて切り込んできた。
「でも、具体的に何ができるの? AIなんて田舎じゃそんなに使わないわよ。今地域に必要なのは“お金”。人もいない、金もない。そんな地域にAIが何の役に立つっていうの?」
挑発するような笑み。
場内にざわめきが広がる。
私は一瞬だけ息を整え、静かに答えを返した。
「確かに――お金は必要です。そして人も少ない。だからこそ、AIが必要なのです」
視線を知事にまっすぐ返す。
「人口減少が進み、人手が足りなくなっていく社会。これからの地方にとって、最も深刻なのは“担い手の不足”です。農業でも観光でも、担い手がいなければ継続できない。だからこそAIを導入し、人の手を補完し、地域を支える仕組みをつくらなければなりません」
会場のざわめきが少しずつ収まっていく。
私はさらに言葉を重ねた。
「AIは都会のためだけの技術ではありません。むしろ人口減少と過疎化が進む地域だからこそ、AIが本当に力を発揮する。GAIALINQは、その未来を八幡平から形にしようとしているのです」
沈黙が落ちた。
知事の声が、その沈黙する会場の空気を切り裂いた。
「でもねぇ、チャッピーみたいなAIで地域をどう変えるのかしら? 所詮は未来の夢物語なんじゃないの? もしそうでないって言うなら――今すぐ実物を見せてちょうだい! だいたい最高執行責任者か何か知らないけど、その肝心の当人が“不在”って、どうなのかしらね。最高無責任者の間違いじゃなくて?」
わざとらしい抑揚に、会場の一角でまた追従の笑いが漏れた。
胸の奥が焼けるように熱くなる。亜紀さんの横顔を見た瞬間、その目から涙が零れ落ちるのを見て、私は息を呑んだ。
(……亜紀さん!)
ここまで耐えて、耐えて、それでも必死に時間を稼ぎ続けてきた。
理不尽な嘲笑と攻撃を、一人で受け止めて――。
「さぁ、チャッピーみたいなAIじゃなくて、地域を本当に変えられるっていうAIの実物を今すぐ見せてちょうだい! もし、そんなものが本当にあるっているなら、今ここで見せなさいよ! それとも言葉だけ? あるいは出来の悪いプレゼン資料だけ? CGなんか見せられてもね、そんなのナンセンスよ。さぁ見せて見なさいよ!さぁ!さぁ!!」
――ここまでガマンしてきたのに、時間切れになって、こんなところで終わるのか……。
その想いを思うと、私の視界も涙で滲んでいった。
その時だった。
――ガチャリ。
扉が開く音が、会場に響いた。
同時に、明るい声が飛び込んでくる。
「オニーさん、こっちですよ!」
「……え?」
「「「!?」」」
会場全体が凍りついた。
振り返った先に立っていたのは――保奈美ちゃんだった。
その隣には、ゆっくりと歩みを進めるP-02。
だが彼女の口から呼ばれたのは、誰も知らない名前。
「――オニーさん」
AIロボティクスの実物が、ついに目の前に姿を現した瞬間だった。