第41話:一ノ瀬保奈美
ビルを出ると、夜風が頬を撫でた。
高層ビルの窓に映る街の灯りが、まるで宝石みたいに瞬いている。
その中を、私は直也さんと並んで歩いていた。
胸の奥に、あたたかなものが広がっていく。
食事は少し緊張したけれど、楽しかった。楽しいだけじゃない。なんだか、少しだけ大人になれた気がした。
思わず口から零れていた。
「直也さん、今日の……デート。すっごく楽しかった!」
直也さんが少し眉を上げて、照れくさそうに笑う。
「デートって訳じゃないぞ」
「ううん。私にとっては、素敵なデートだったよ」
私は首を横に振って、ぎゅっと直也さんの手を握った。
「だって、『恋人さん』だったじゃない」
握った手に、自然と力がこもる。
――恋人握り。
もう絶対に離したくない、そんな気持ちが手のひらから伝わっていく。
もちろん分かっている。
直也さんは、ただ私を喜ばせたくて連れ出してくれたわけじゃない。
これは一種の教育なんだ。
勉強は自分で頑張らないと意味がない。
でも――こういう場所での立ち居振る舞いは、経験してみないと分からないことばかりだ。
料理の順序、ナプキンの扱い、店員さんとの会話の仕方。今日ひとつひとつ体験して、ようやく実感できた。
そのために直也さんが、時間やお金を使ってくれた。
――それが、嬉しい。
GAIALINQの最高執行責任者になってから、直也さんのお給料は更に高くなった。
でも私は、もらった生活費をできるだけやり繰りして、少しでも預金に回そうとしていた。
「繰り越して、貯めること」が一番大事だと思っていたから。
けれど、今日で分かった。
それだけじゃダメなんだな。
賢く生活設計をするっていうのは、ただ節約して残すことじゃない。
良いものを選ぶこと。良い時間を過ごすこと。
そして必要な時には、きちんとお金を使うこと。
直也さんの横顔を見ながら、私は心の中で小さく頷いた。
――そういう大人の生き方を、私も覚えていかなければ。
※※※
電車を降りて、最寄り駅に着いたとき。
「ちょっと寄っていくか」
直也さんがそう言って、駅前のチェーンのメガネショップへ入っていった。
余程、銀座で顔バレしたのがショックだったんだろう。
「もう少し印象が変わるものにしたい」と言って、フレームをいくつも手に取っている。
結局、選んだのは黒縁の丸メガネだった。
掛けてみた瞬間、私は思わず笑ってしまった。
「なんか……明治時代の人みたいだね」
「そうか?」
直也さんは鏡を覗き込みながら、少しだけ苦笑した。
でも不思議。さっきまでの知的で鋭い雰囲気が、ふっと和らいで――とても優しそうに見える。
これなら確かに、雑誌に出ていた人だなんて気づかれにくいかもしれない。
そのまま新しい丸メガネを掛けて帰路についた。
大量の買い物袋は、最後まで直也さんが全部持ってくれた。
「重いでしょ? 私も持つよ」と言ったのに、「いいから」と笑って取り合わなかった。
――こういうところ。
本当に私のことを、大切にしてくれている。
その事実が胸にじんわり沁みて、なんだかくすぐったい気持ちになる。
家に着いた頃には、直也さんもちょっと疲れた顔をしていた。
私は思わず声をかけた。
「肩もみするね」
ソファに腰掛けてもらって、後ろから肩に手を置く。
「ん……悪いな」
少しだけ力を込めて指を動かす。緊張がほぐれていくのが分かる。
――今だ。
油断していた直也さんの頬に、そっと唇を寄せた。
「今日は本当にありがとう。……大好き」
直也さんの肩がびくんと震えた。
そして次の瞬間、少し恥ずかしそうに言った。
「いや、そのですね。保奈美さん。今ので疲れが倍増した気分なんですけれど……」
私は思わず吹き出した。
――やっぱり、まだまだ手強いなぁ。
でも、手強くても、そんな直也さんがたまらなく愛おしい。
そう思いながら、私はもう一度彼の肩をぎゅっと揉んであげた。