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第38話:一ノ瀬直也

 保奈美には、毎月の生活費や学校に関する諸経費とは別に、ちょっとした服や美容室代に充てられるように“自由に使えるお金”を渡している。


 けれど――保奈美はそれを、律儀に貯金しようとしてしまう。


 「将来のために貯めておきます」

 そう言って、小さな財布にきっちり折り目を揃えながら札をしまう姿を見たとき、オレは思わず苦笑してしまった。


 ――いや、それは悪いことじゃない。むしろ真面目で、堅実で、オレにとっては安心でもある。

 けれど、高校生の女の子がそんなに先のことばかり考えて、今の時間を楽しむ事を過度に削る必要はないだろう。


 「……切り詰めなくても、全然余裕もってやっていけるだろうに」

 俺は心の中で呟きながら、机のカレンダーを見やった。


 よし。今日は仕事を完全オフにして、保奈美を連れ出すか。

 どうせ自分のスーツも新調する必要があった。なら、名目はそれで十分だ。


 「保奈美。銀座にスーツを新調しに行こうと思うんだ。一緒に付き合ってくれないか」

 声をかけると、彼女は一瞬きょとんとした顔をして――それからぱっと花が開くみたいに笑顔になった。

 「えっ……いいの? 行く行く!」


 無邪気なその返事に、胸の奥が少しだけ温かくなる。

 ――やっぱり、こうやって無邪気に笑っているのが一番いい。


※※※


 銀座。

 昼下がりの通りは、きらびやかなショーウィンドウと人の波であふれていた。

 俺は伊達メガネをかけて、目立たないように歩を進める。もっとも、こんな街で完全に視線を避けられるわけもないのだが。


 保奈美と外出する際は、結局いつも保奈美に手を握られてしまう。

 まるで意地になっているように手をつかんで――恋人握りになるのだ。

「保奈美。コレ、オレのキャラクターに全然不釣り合いだと思うんだがねー」

 ダメ元で抗議するのだが。

 保奈美はすぐに首を振って口を少し尖らせるのだ。

 こうなってしまえば、もう受け入れるより他にオレには選択肢はない。

「はい。もう保奈美さんの仰せのままに」

 保奈美は輝くような笑顔になってくれた。

 それならもう仕方がない。


 目指すは五越デパート。

 五井物産とも長い付き合いのある老舗で、俺も子どもの頃から何度も連れてきてもらった記憶がある。

 今日はそこでスーツを新調するつもりだった。


 総合商社に勤めている人間は高級スーツを着ていると思われがちだが、必ずしもそんな事はない。特に最近は郊外にチェーン展開しているメンズファッション店舗を利用する方が多いのではないだろうか。


 オレ自身の自分の服装などには正直全く興味がないタイプではある。

 ただ、GAIALINQの最高執行責任者となった際に、今後はプロジェクトの顔にもなるのだから、高級なスーツにするのも必要経費だと思うようにと社長に促されたのだ。


 五井物産の取締役は確かにオーダースーツや欧米のブランドスーツが多い。

 それを見習って何着か仕立てていたのだが、表に出る機会が増えたので、更に新調しようと考えていた。


 「うわぁ……すごい」

 保奈美は大理石の床と高い天井を見上げ、目を輝かせている。

 その横顔を見ていると、俺まで少し誇らしい気持ちになった。


 レトロなデザインのままのエレベーターで紳士服フロアに上がり、案内されたブースで生地を見比べていると――。


 「失礼ですが……お客様」

 声をかけてきた店員が、じっと俺の顔を覗き込んだ。

 「……やはり。雑誌で拝見しました。GAIALINQプロジェクトの……五井物産の一ノ瀬直也さん、でいらっしゃいますね」


 ――え?何故バレたのかな。


 伊達メガネなんて、全然ごまかしになっていなかったらしい。

 保奈美が「えっ……直也さん……すごいね。もう本当の有名人。すぐにバレちゃったよ」と小声で呟いて、こちらを見上げている。

 顔を赤らめ、瞳をきらきらさせながら。


 店員は慌てて姿勢を正し、深々と頭を下げた。

 「本日はご来店ありがとうございます。折角の機会ですので、特別なお客様向けのご優待を……」


 「いやいや、普通でいいです」

 慌てて手を振る。

 ――これだから困るんだよ。


GAIALINQプロジェクトの認知度向上の為にイベント等に出るのは仕方がないが、イベントの中吊り広告が電車に出ている時など、もう落ち着かない。


そしてあのニューズデイズだ。表紙などにされてしまったものだから、伊達メガネをしていても、バレてしまう事が増えた。どこへ行っても“GAIALINQの直也さん”あるいは“NAOYA”として見られるのだ。


 けれど、保奈美は少しも嫌そうにしなかった。

 むしろ頬を紅潮させて、誇らしげに俺を見ている。

 ――まるで「自分のお義兄さんが褒められている」みたいな顔で。


 その視線を受けて、少しだけ気恥ずかしくなった俺は、スーツの生地サンプルを手に取りながら、わざとそっけなく口を開いた。

 「……保奈美。今日は、保奈美の為に来たようなものなんだから、後で見て回るぞ」


 「えっ……わ、私の?」

 驚きで目を見開く彼女に、頷いてみせる。


 ――そうだ。今日の目的はどっちかと言えば保奈美の方だ。


真冬に備えて、スーツを三着。

 ネイビー、チャコールグレー、そして深みのあるダークブラウン。

 どれも保奈美が「こっちの方が似合うと思う」と小首を傾げながら選んでくれたもので、結果的に素直に従う形になった。


 ――結局、彼女のセンスの方が的確なのだ。

 鏡に映った自分を見ながら、苦笑せざるを得なかった。


 「でも直也さん、本当に似合う……雑誌で見たままの人って感じ」

 保奈美が小さく呟く。


 いや、その“雑誌で見た”というのが問題で。

 伊達メガネで正体を隠したつもりだったのに、店員に「あの、一ノ瀬直也さんですよね」とあっさり見抜かれてしまった。

 しかも「五井物産の方向け特別ご優待でございます」と頑として譲らない。

 逆に恐縮してしまい、逃げ場をなくしたオレは渋々了承するしかなかった。


 ――やれやれ。

 今度はもっと地味なメガネでも新調するか。

印象を大きく変えられる丸メガネとか。

 そんなことを考えながら、支払いを済ませる。


 ***


 エスカレーターで上階へ。

 煌びやかなレディースフロアに足を踏み入れた瞬間、保奈美の足取りが急に鈍くなる。


 「……あの、直也さん。やっぱりいいよ、私、見てるだけで」

 彼女が小声で言う。


 無理もない。

 ここは五越の中でも特にハイブランドが集まる一角だ。

 艶やかなディスプレイ、鮮やかなマネキン。

 十代の少女にとって、この空気はむしろ居心地が悪いだろう。


 「……ほら、あれ」

 オレは指先でショーウィンドウの一角を指した。

 「すごく保奈美に似合いそうだな」


 「え?」

 ぱちりと大きな瞳がこちらを見上げてくる。


 「に、似合うかな……?」

 少し照れくさそうに視線を泳がせる。


 「まぁ間違いなく似合うと思うよ。……でも、試着しなきゃ分からないね」


 オレがそう言うと、保奈美は慌てて首を振った。

 「い、いいよ、こんなの……お値段、絶対すごいし」


 案の定、値札を見た瞬間に後ずさりする。

 それを見て、オレはため息をひとつ吐き、近くにいた店員を呼んだ。


 「これを含めて、幾つか試着させてください」


 店員がにこやかに応じようとしたその時――。

 「あっ! ……あの、大変失礼ですが、雑誌の表紙に出ていらした一ノ瀬さんですよね?」


 ――またか。

 心の中で頭を抱えた。


 「いや、あの……」と言いかけたが、店員はさらにとんでもない一言を重ねてきた。

 「ああ、恋人の方ですね。試着室すぐご案内できますので、どうぞこちらへ」

 さっさと先導して行ってしまう。


 「い、いや、義妹……聞いてないぞ。まったく……」

 まったく、ちゃんと客の話しを聞いてもらいたいものだ。


 隣で保奈美が目を丸くし、次の瞬間、くすりと笑い声をもらした。

 「ふふっ……ほら。じゃあ試着してあげるから――恋人さんは、ちゃんとエスコートしてください!」


 ……完敗だった。


 無邪気に笑いながら見上げてくる保奈美の表情に、もう何も言えなくなる。

 結局、立場がないのはいつだってオレの方だ。


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