第32話:一ノ瀬直也
由佳さんからの急な連絡だった。
「今すぐ会わせたい人がいるから」と言われ、指定されたのは東京駅近くの古びた喫茶店。
土壁と木のテーブル、コーヒーの香りが染みついた空間に足を踏み入れると、すでに三人の女性が席に着いていた。
街丘由佳、栗田自動車の高瀬彩花、そして……柊遥。
名刺を受け取った瞬間、その肩書きにオレは自然と表情を引き締めた。
――環境省。
コーヒーが置かれるのを待ち、最初にオレが口を開いた。
「……太陽光との絡みでしょうか? ただ、オレの理解では環境省はむしろメガソーラーには批判的だと認識していますが」
柊遥は、微笑みを浮かべて応じた。
「その通りです。どうやらメガソーラー推進事業者の方々からは、私――『凍結遥』なんて呼ばれているみたいですね」
彩花が目を丸くし、思わず吹き出した。
「え、何ですかそれ! めっちゃカッコいい通り名じゃないですか!」
その場の空気が少し和んだ。
だがオレは真顔のまま、遥に視線を戻す。
「……で、その『凍結遥』さんが、こうして接触してきた。つまり今後、推進派からの懐柔や、あるいは攻撃がGAIALINQに向かう――そういう懸念を抱かれている、ということですね?」
一瞬、遥の瞳が見開かれる。
オレの言葉を受け、彼女は感情を抑えながらも、わずかに驚きをにじませていた。
「……その通りです」
声は凛として落ち着いていた。
「それこそ、五井物産自体も米国や東南アジアでメガソーラー事業を展開されている。……そうした部門は、GAIALINQをどのように見ているのでしょうか?」
オレはカップを置き、わずかに苦笑した。
「――既に、初期的なアプローチを受けています」
テーブルの空気が一気に張り詰めた。
由佳も、彩花も、遥も。
誰もが、驚きに息を呑んでいた。
柊遥の瞳は、一切の曖昧さを許さない光を宿していた。
環境省の庁舎で見かける「事務官僚」のそれではない。彼女は――自分の言葉で戦ってきた人間の目をしていた。
「私は実は……これまで何度もイベントや、直也さんの講演に参加していました」
遥は淡々とした調子で切り出した。
「そして広報冊子も拝見しました。その上で――GAIALINQは“本物のエコ”の取り組みだと考えています」
その一言に、オレは無意識に背筋を伸ばしていた。
彼女の声には、単なる“評価”以上の確信がにじんでいた。
「米国大統領が、米国側のGAIALINQに対して大規模な資金投下を決定されたのも、それが“本物”だと判断されたからだと思いました」
遥はそこで一息置き、表情を引き締めた。
「でも、それはメガソーラー推進派――政治家や行政の一部、そして事業者、更には中国――からすると、非常に目障りに映るはずです」
カップの中のコーヒーが、やけに重たく感じた。
――そうだ。自分がやろうとしていることは、必然的に既得権益を揺さぶる。敵を作らないはずがない。
遥の声がさらに低くなった。
「端的に言いましょう。直也さんを懐柔して、プロジェクトのビジョンを骨抜きにするか、あるいは――」
そこで言葉が途切れた。
オレはわずかに口角を上げて、彼女の代わりに言葉を継いだ。
「……オレ、もしくはGAIALINQを攻撃してくるか」
テーブルの上に、重苦しい沈黙が落ちた。
由佳も、彩花も、遥も、誰一人として声を発しなかった。
――分かっている。
これは避けられない未来だ。
問題は、“いつ”“どういう形で”仕掛けられるか。
遥の視線が、鋭くオレを射抜いていた。
彼女は間違いなく、この戦いの荒波を正面から見据えている。
「ビジョンの骨抜きには……応じるつもりは全くありません」
オレはゆっくりと、言葉を区切った。
「大統領との約束も裏切れません。大統領は大層なメガソーラー嫌いですからね。……ですので――あとは甘んじて攻撃を受けるしかありませんね」
静かな宣言に、テーブルの空気が一瞬で重くなる。
由佳が息を呑み、「直也さん、それはさすがに……」と声を震わせた。
彩花も、いつものように軽口を挟めず、ただ真剣な顔でこちらを見ていた。
沈黙を破ったのは、柊遥だった。
「……幸い、環境省は政治家の方々から、そもそも嫌われやすい省です」
彼女の声は低いが、どこか清冽だった。
「スポンサーが存在しない、国際基準と建前論を振りかざす官庁ゆえのやり方、というものがあります。何か――私がお力添えできることがあれば、言ってください」
オレは彼女の眼差しを見つめ返した。
凛として、曇りがない。
“凍結遥”と呼ばれる所以が、少しだけ分かった気がした。
「……ありがとうございます」
一呼吸置いて、オレは言葉を続けた。
「二つ、お願いがあります」
オレは端的に今週のある予定での協力と、それから今後の取り組みについて、協力を検討して欲しいと柊遥に依頼した。さしあたり前者についてはその場でOKが出たのだった。