第1話 灰燼(一)
灰の中から、誓いは生まれる。竜と魔神と人の重厚ダークファンタジー
馬首を翻すたびに、返り血が頬を打った。
ロンダルシア帝国の若き騎士隊長、ヨハン・ローゼンハイムは、それを拭おうともせず、再び剣を掲げた。
先の戦いで名誉の戦死を遂げた父の後を継ぎ、隊長に抜擢されたばかりの若者だった。
「続け! 押し返すぞ!」
馬を手足のように操り、馬上から魔神を斬り伏せる。背後で、部下達の雄叫びが応えた。
水の都と称された都市の背後に広がる荒野は、もはや大地とは呼べぬ様相を呈していた。
土は幾重にも血を吸い、折れた槍の穂先が墓標のように突き立つ。引き裂かれた旗が風に舞い、人間のものとも魔神のものともつかぬ絶叫が、地平の果てまで絶え間なく響いていた。
【八国連合軍】十三万。
対する【魔王軍】もまた、屈強な魔神どもを従え、八万の軍勢を揃えていた。
ヨハンの目に映る戦場は、大陸を代表する列強軍そのものだった。
祖国【ロンダルシア帝国】の重装歩兵が盾を並べ、帝国槍騎兵がその後方に控える。
その脇を【神聖国クリシュトリア】の神官戦士が固め、弓兵隊が空へ矢を放つ。
【V公国】の重装騎兵が再び突撃の構えを見せ、重装騎兵が抜け切った後の真ん中に、【大樹の国】の長弓兵が、死の矢雨を降らせる。
死をも恐れぬ【ドラウグヘイム】の戦士隊が雄叫びを上げて斬り込み、【オクタゴン】製の武具を纏った傭兵達がそれに続く。
後方では【賢者の学院】の魔導士隊が詠唱を重ね、放たれた炎と雷が、魔神の隊列を幾度となく焼き払っていた。
頭上高くには、【竜大国】から参陣した二騎の竜騎士の影があった。
魔王軍の魔神もまた統率されていた。魔騎士の突撃、魔伯爵配下の魔法部隊による範囲攻撃。
両軍は幾度となく押し引きを繰り返し、戦況は拮抗していた。
この一日で、大陸の趨勢が決まる。誰もが、そう分かっていた。
だからこそ、誰も退かなかった。
戦いから数刻、状況は完全な拮抗状態に陥った。
それが崩れたのは、太陽が中天に差し掛かった頃だった。
戦場の中央に、炸裂音が響いた。
空間そのものが引き裂かれるようにして、禍々しい紋様を刻んだ巨大な扉のようなもの―【ゲート】が、出現した。
(……何だ、あれは)
ヨハンは、馬上で空を見上げた。
誰もが、動きを止めた。
一拍後。
そこから、まだ見ぬ魔神の増援が奔流のように溢れ出し、拮抗していた戦況は、瞬く間に魔神側へと傾いていく。
そして、ゲートの奥から、巨大な影が姿を現した。
額に二本の逞しい牡牛の角。双眸は爛々と輝き、右手には三叉に分かれた大槍。
先の戦いで、ロンダルシア帝国の主力隊を壊滅に追い込んだ【魔大公】だった。
ヨハンの手綱を握る手が、震えた。
恐怖からの震えではなかった。
(……出たな魔大公。父の仇!)
彼は馬首を翻すと、再び突撃の雄叫びを上げた。
しかし、他の隊の指揮官達は、予期せぬ魔大公の出現に恐怖し、震え上がった。
「何が起こった?」
「何故空に扉が?」
「どこから現れた?」
兵達は口々に叫び、大陸連合軍は大混乱に陥った。
増援の魔大公の軍勢は、圧倒的であった。絶対的な後ろ盾を得た魔神達は、戦闘が一方的な殺戮へと変わる予感に歓喜し、打ち震えていた。
「押されている! 全隊、防衛陣形を……」
各隊の指揮官達の怒号すらも、兵達の叫びに掻き消されていった。
その最中、ただ一隊だけが、隊列を組み魔神軍を迎え撃とうとしていた。
「突撃ィ!」
ヨハンは、隊の先頭で馬腹を蹴った。
死を覚悟した部隊の突撃は、獰猛な魔神共を蹴散らした。
騎馬隊が魔神の群れを割り、蹄が血の泥を跳ね上げる。
魔大公の業火に焼かれた同胞の屍を踏み締め、着実にその喉笛に近づいて行く。
しかし、その勢いとは裏腹に、部下達が、一人、また一人と脱落していく。それでも、彼は止まらなかった。
その時、頭上で風が鳴った。
二騎の竜騎士の一騎が、雲を裂いて急降下してくる。竜の背で身を低く伏せた騎士の脇には、陽光を照り返す長大な騎槍が、真っ直ぐに魔大公へと向けられていた。
竜が翼を畳み、落下の勢いそのままに、騎槍の穂先が魔大公の肩口へと吸い込まれる。
鋼と鱗が噛み合う、耳を劈く轟音。
魔大公の巨体が、わずかに傾いだ。大地を揺るがす咆哮が、戦場を震わせる。
竜騎士は止まらない。地面すれすれで竜が翼を打ち、巻き上がった砂塵を置き去りにして、再び空へと駆け上がっていく。高く、高く。その影は中天の太陽の中で大きく弧を描くと、翻り、再び騎槍の穂先を地上へと向けた。
二度目の突撃の構えだった。
魔大公の双眸が、空の竜騎士を追う。
その隙を、ヨハンは見逃さなかった。
魔大公の巨体が、目の前に迫る。
「オオォォ!」
獣のような雄叫びだった。
魔大公の縦に割れた瞳孔が、空から引き剥がされ、ヨハンを捉えた。
その時だった。
空に浮かんだゲートの真上から、一筋の光が降り注いだ。
夜明けを告げる太陽のような、しかし夜明けの静けさなど微塵も感じさせぬ、絶対的な破壊の光。
魔大公の眼前まで、あと数歩。
それが、ヨハン・ローゼンハイムが最後に見た景色だった。
刹那。
閃光。
轟音と共に、光はゲートへ、そしてその周辺一帯へと降り注いだ。
大気が震え、大地が抉れ、断末魔の声すらも、その光に呑み込まれて消えた。
魔神も、人間も、等しくその光の前では無力だった。
戦場は一瞬にして、阿鼻叫喚の坩堝と化した。
その場において、何が起きたのかを正しく理解している者は、誰一人としていなかったであろう。
破壊の光が落ちた中心に、動く者は、誰一人として居なかった。




