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第二章 確かめる

 天正十年、五月初め。


 丹後宮津。


 細川藤孝の前に、紙が並んでいた。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 どれも、まだ何も書かれていない。


 藤孝は筆を取った。


 少し考え、


 置いた。


「どうなされました」


 側にいた家臣が聞いた。


「何が」

「先ほどから、何もお書きになられませぬ」

「書けば文になる」

「は」

「文になれば残る」


 家臣は黙った。


 藤孝は一枚目を取った。


 京。


 二枚目。


 安土。


 三枚目。


 堺。


「三通出す」

「同じ文を」

「違う」


 藤孝は筆を取った。


「同じことを聞けば、同じ噂になる」

「では」

「別々に聞く」


 筆を下ろす。


 一通目には、


 近頃、安土へ参る南蛮人について。


 二通目には、


 上様が異国の船や武具を御覧になっているか。


 三通目には、


 堺へ入る南蛮船と、その積荷について。


 それだけを書いた。


「これでございますか」

「ああ」

「明のことは」


 家臣が言いかけた。


 藤孝が顔を上げた。


「何の話だ」

「……」

「私は何も申しておらぬ」

「失礼いたしました」

「忘れろ」

「は」


 藤孝は三通を重ねた。


「急がせよ」

「承知」


 家臣が去った。


 一人になる。


 藤孝は庭を見た。


 昨日と同じ庭だった。


 木がある。


 石がある。


 風が吹く。


 何も変わっていない。


 十兵衛が来るまでは。



   ◆◆◆



 上様は、明へ兵を出される。


 十兵衛はそう言った。


 推量かと聞いた。


 違う、と答えた。


 見た、と。


 藤孝はその言葉を、まだ信じていなかった。


 信じぬ、と決めてもいなかった。


 十兵衛は古い友である。


 それと、


 十兵衛の話が真であることには、


 何の関わりもない。


 藤孝はそう考えていた。


 人は間違える。


 利口な者ほど間違えぬ、という道理もない。


 むしろ利口な者は、


 間違えた時の理屈まで上手い。


「十兵衛め」


 藤孝は小さく呟いた。


 面倒なものを置いていった。


 酒だけ飲んで帰ればよかったものを。



   ◆◆◆



 三日後。


 京から最初の文が届いた。


 藤孝は一人で開いた。


 南蛮寺に出入りする知己からであった。


 信長は以前より、伴天連から異国の話を聞いている。


 天竺。


 南蛮。


 明。


 海の道。


 それぞれの国の広さ。


 風の向き。


 船で何日かかるか。


 珍しい話ではない。


 信長は昔から、新しいものを好む。


 藤孝も知っている。


 文を置いた。


「一つ」


 何が一つなのか、自分でも分からなかった。



   ◆◆◆



 翌日。


 安土から届いた。


 信長は明について尋ねたことがある。


 国の広さ。


 兵の数。


 城。


 大筒。


 鉄砲。


 船。


 特に、


 海を越える船については何度か尋ねている。


 藤孝は文を二度読んだ。


 三度目は読まなかった。


 横へ置く。


 前日の文の隣へ。


 二枚になった。


「船」


 口に出した。


 丹後の海が頭に浮かんだ。



   ◆◆◆



 丹後には船がある。


 商いの船。


 魚を取る船。


 米を運ぶ船。


 大きなものも、小さなものもある。


 海辺の国では、


 船は道と同じであった。


 船がなければ物が動かない。


 人も動かない。


 銭も動かない。


 十兵衛は言った。


 船を取る。


 藤孝は立ち上がった。



   ◆◆◆



 湊へ出た。


 宮津の海には、いくつもの船が浮かんでいる。


 米俵を積んだ船。


 塩を下ろす船。


 魚を運ぶ小舟。


 浜では男たちが網を直していた。


「殿」


 湊を預かる者が慌てて頭を下げた。


「構わぬ」

「何か御用で」

「船は何艘ある」

「船、でございますか」

「大きなものから小さなものまでだ」


 男は少し考えた。


「漁の小舟まで入れますと」

「それはよい」

「商いに使えるものなら」


 数を答えた。


「そのうち」


 藤孝が海を見る。


「三分の一を取られたら、どうなる」


 男は笑いかけた。


 藤孝の顔を見て、やめた。


「どこへ、でございます」

「どこでもよい」

「……困ります」

「どれほど」

「米が動きませぬ」

「ああ」

「塩も」

「ああ」

「魚も」

「それだけか」

「人も動きませぬ」


 藤孝は黙った。


「春ならまだしも、秋なら」

「秋なら」

「もっと困ります」

「なぜ」

「年貢の米を運びますので」

「なるほど」


 藤孝は海を見た。


 よく晴れていた。


 遠くで一艘、帆が上がった。


「殿」

「何だ」

「船を出せとの御沙汰でも」

「ない」

「では」

「聞いただけだ」


 藤孝は歩き出した。


 数歩進んで、止まった。


「このことは」

「は」

「誰にも言うな」

「承知いたしました」


 藤孝は再び歩いた。



   ◆◆◆



 堺から文が来た。


 南蛮船。


 大筒。


 硝石。


 鉛。


 鉄砲。


 異国の地図。


 信長がそうしたものに関心を持っていることは、商人の間でも知られている。


 そして、最後に一行あった。


 上様は、


 西国も九州もいずれ治まる、と口にされたことがある。


 藤孝の目が止まった。


 九州の後だ。


 十兵衛は、そう言った。


 その先は。


 書かれていない。


 紙を裏返す。


 何もない。


「そこまでか」


 文に聞いても答えはなかった。


 藤孝は三通を並べた。


 世界のことを聞いている。


 明のことを聞いている。


 兵を聞いている。


 船を聞いている。


 大筒を聞いている。


 九州の後を口にしている。


 どれも、


 十兵衛が言った通りであった。


 ただ一つ。


 明へ兵を出す。


 それだけが、


 どこにもなかった。



   ◆◆◆



「父上」


 忠興が入ってきた。


「呼ばれましたか」

「ああ」


 藤孝は文を伏せた。


「一つ聞く」

「何でしょう」

「丹後から人を取られるとする」

「人を」

「百姓だ」


 忠興の顔が少し曇った。


「どれほどでしょう」

「分からぬ」

「それでは」

「では」


 藤孝が言った。


「田植えの時に男手を取られたらどうなる」

「困ります」

「秋なら」

「もっと困ります」

「なぜ皆同じことを言う」


 忠興が眉を寄せた。


「皆とは」

「何でもない」


 藤孝は続けた。


「船も取られる」

「船を」

「米もだ」

「どこへ出すのでございます」

「それを聞いているのではない」

「では何を」

「困るか」


 忠興は少し考えた。


「困ります」

「どれほど」

「何年続くかによります」


 藤孝の目が動いた。


「一度なら」

「耐えられます」

「二度なら」

「耐えます」

「三度」

「……」

「五度」


 忠興は答えなかった。


 藤孝は小さく息を吐いた。


「そういうことだな」

「父上」

「何だ」

「何の話でございます」

「まだ何の話でもない」


 忠興は納得していない顔だった。


「なら、なぜ」

「何の話でもないうちに考えておくのが、領主の仕事だ」

「……」

「違うか」

「いえ」

「ならよい」


 藤孝は文を手で覆った。


「下がれ」


 忠興は一礼した。


 戸口まで行く。


「忠興」

「は」

「今の話は忘れろ」

「忘れろと言われると、余計に覚えます」


 藤孝が顔を上げた。


 忠興は少し笑っていた。


「お前は十兵衛に似てきたな」

「それは褒め言葉で」

「違う」


 忠興が頭を下げ、出ていった。


 藤孝は一人になった。


「まったく」


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。



   ◆◆◆



 その夜。


 藤孝は四枚目の紙を前にしていた。


 書くことは決まっている。


 だが筆が動かなかった。


 文机の端には、


 京。


 安土。


 堺。


 三通の文。


 どれも十兵衛の話を否定していない。


 どれも、


 肝心なところを証してもいない。


 藤孝は筆を取った。



 ――先日聞きし話、まことに相違なきか。



 それだけを書いた。


 読み返す。


 余計な言葉を足そうとして、


 やめた。


「これを亀山へ」


 控えていた者へ渡した。


「急げ」

「夜のうちに」

「ああ」

「御返事も」

「待て」

「は」


 使者が文を懐へ入れる。


 藤孝はその姿を見ていた。


「誰にも見せるな」

「承知」


 使者が出ていった。



   ◆◆◆



 返事は早かった。


 二日もかからなかった。


 藤孝は封を切った。


 短い。



 ――相違なし。



 それだけだった。


 藤孝は紙を見た。


 十兵衛の字であった。


 昔から変わらぬ字だった。


 将軍家にいた頃も。


 京を追われた頃も。


 丹波を取った時も。


 玉が忠興へ嫁いだ時も。


 何度も見た。


 藤孝は文を置いた。


「証にはならぬ」


 一人で言った。


 当然である。


 十兵衛が十兵衛の言葉を正しいと言っただけだ。


 何一つ増えていない。


 藤孝は文を折ろうとした。


 やめた。


 三通の隣へ置いた。


 四通になった。



   ◆◆◆



 信じるか。


 信じないか。


 そう考えるからおかしくなる。


 藤孝は庭へ出た。


 夜だった。


 風が少し冷たい。


 海は見えない。


 音だけがする。


 もし、


 十兵衛の話が偽りなら。


 何もしなくてよい。


 兵を動かす必要もない。


 船を隠す必要もない。


 米を貯める必要もない。


 上様は天下を平らげ、


 その後は政をなさる。


 それで終わる。


 では。


 もし、


 本当なら。


 船を取られる。


 人を取られる。


 米を取られる。


 兵を出す。


 一年。


 二年。


 三年。


 海の向こうで戦が続く。


 丹後に戻らぬ者も出る。


 田を耕す者が減る。


 船を漕ぐ者が減る。


 家が疲れる。


 国が疲れる。


 そして、


 断ればどうなる。


 上様に、


 明へは参りませぬ、と言えるのか。


 言った家を、


 上様はそのままにしておかれるのか。


 藤孝は目を閉じた。


 分からない。


 分からないから、


 考える。


 十兵衛なら、


 考え過ぎだと言うだろうか。


 藤孝は少し笑った。


「逆だな」


 あの男に、


 考え過ぎるなと言ったのは自分であった。



   ◆◆◆



 証はない。


 それは変わらない。


 だが、


 偽りだと決める証もない。


 周りにあるものだけを見れば、


 十兵衛の話はおかしくない。


 上様ならば。


 その一言で、


 多くのことが通ってしまう。


 それが最も厄介だった。


 藤孝は部屋へ戻った。


 四通の文がある。


 三通は事実を知らせてきた。


 一通だけ、


 十兵衛の言葉だった。


 藤孝はその一通を手に取った。


 ――相違なし。


「十兵衛ほどの男が」


 そこまで言った。


 止めた。


「違う」


 それは証ではない。


 友であることも。


 長く付き合ったことも。


 娘と息子が夫婦であることも。


 何一つ、


 明へ兵を出す証にはならない。


 藤孝は文を置いた。


 それでも、


 三通の外へは出さなかった。



   ◆◆◆



 翌朝。


 五月も半ばに入っていた。


「忠興を呼べ」


 藤孝が言った。


 ほどなく忠興が来た。


「お呼びで」

「ああ」


 藤孝は机の上の文を片付けていた。


「昨日の話だ」

「忘れろと言われた話ですか」

「覚えておったか」

「父上が忘れろと仰いましたので」

「面倒な息子だ」

「誰に似たのでしょう」

「私ではない」

「では母上に聞いておきます」

「やめておけ」


 忠興が座った。


 藤孝は少し黙った。


「船の数を改めて調べろ」

「船を」

「ああ」

「何に使えるかもだ」

「商い、兵、荷運び」

「全部だ」

「承知」

「米も確認しろ」

「蔵を」

「ああ」

「兵もでございますか」


 藤孝は一瞬だけ止まった。


「まだよい」

「まだ」


 忠興がその言葉を拾った。


 藤孝は顔を上げる。


「何だ」

「いえ」

「忠興」

「は」

「備えるだけだ」

「何に」

「分からぬものに」


 忠興が黙った。


 藤孝は庭を見る。


 何かが起きると決まったわけではない。


 十兵衛を信じたわけでもない。


 ただ。


 本当だった時に、


 何もしていなかったでは済まない。


 それだけであった。


 信じたのではない。


 放っておけないだけだ。


 それを賭けと呼ぶなら、


 そうなのだろう。


「父上」

「何だ」

「玉には」


 藤孝は忠興を見た。


「何か話しますか」

「いや」


 短く答えた。


「玉には何も言うな」

「何をでございます」

「何もだ」


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