第一章 嘘
※本作は『嘘なき謀』第四章から分岐する、もう一つの物語です。単独でもお読みいただけますが、本編を先にお読みいただくと、この物語をよりお楽しみいただけます。
天正十年、四月の末。
丹後宮津。
海は静かであった。
風がなければ、海というものは大きな池のようにも見える。
だが、向こうには国がある。
朝鮮。
その先に明。
さらに、その向こうにも土地が続いている。
光秀は縁側から海を見ていた。
「何を見ている」
細川藤孝が言った。
「海だ」
「それは分かる」
「なら聞くな」
「お前が海を眺めていると、ろくなことを考えておらぬように見える」
光秀は笑った。
「昔からか」
「昔からだ」
二人の前には酒があった。
まだ日が高い。
胸の内を明かすには、明るすぎる時刻であった。
◆◆◆
「では聞こう」
光秀が言った。
「何だ」
「上様が天下を統一された後」
藤孝の顔を見る。
「何をなさると思う」
藤孝は、すぐには答えなかった。
「鷹狩り」
光秀が吹き出した。
「利三と同じことを言うな」
「斎藤殿もそう申したか」
「ああ」
「ならば二票だ」
「真面目に答えろ」
「真面目だ」
「藤孝」
「分かった」
藤孝は杯を置いた。
「政をなさるだろう」
「政」
「道を整え、城を直す。銭も統一する。関所も減らす。商いも広げる」
「……」
「朝廷との関わりも作り直すだろう」
「それで足りると思うか」
「何が」
「あの御方に」
藤孝の目が少し鋭くなった。
「十兵衛」
「何だ」
「言葉を選べ」
「ここはお前の城なのだろう」
「そういう問題ではない」
「なら」
光秀は少し笑った。
「お前も分かっているではないか」
「何を」
「上様の話をする時、どこまで言ってよいかを考える」
「誰でもそうだ」
「昔は違った」
「昔」
「将軍の話なら、もっと好き勝手に言うていた」
藤孝が苦笑した。
「義昭公と上様を同じにするな」
「そういうことだ」
海から風が来た。
酒の匂いが薄くなった。
◆◆◆
「十兵衛」
藤孝が言った。
「何か不満があるのか」
「ない」
「本当に」
「あるとすれば」
光秀は少し考えた。
「速過ぎる」
「何が」
「すべてだ」
昨日まで敵だった者が、今日は家臣になる。
昨日まで城を持っていた者が、明日は領地を失う。
寺が焼ける。
道が変わる。
城が建つ。
銭が変わる。
「十年かかることを、一年でやられる」
「悪いことか」
「分からぬ」
「便利な答えだ」
「だから考えている」
「考え過ぎだ」
「そうかもしれぬ」
光秀は海を見る。
「だが、止まらぬ」
「上様が」
「ああ」
藤孝は黙っていた。
光秀は続けた。
「甲斐を取った」
「そうだな」
「中国では羽柴が毛利と戦っている」
「ああ」
「四国もある」
「ある」
「九州もある」
「まだ遠い」
「遠いだけだ」
藤孝は杯に酒を注いだ。
「日の本を取れば終わる」
「本当に」
藤孝の手が止まった。
「何が言いたい」
「上様は世界の図を見ておられる」
「知っている」
「明の大きさも聞かれた」
「それも聞いた」
「兵の数を尋ねられた」
「……」
「船もだ」
藤孝が光秀を見る。
「大筒。鉄砲。南蛮船」
「十兵衛」
「何だ」
「それだけで決めるな」
光秀は答えなかった。
「上様は新しいものがお好きだ」
「知っている」
「知らぬ国があれば知りたがる。知らぬ武器があれば見たがる」
「知っている」
「それを」
藤孝は少し強く言った。
「戦をなさる証にするな」
光秀は海を見ていた。
海は何も言わない。
◆◆◆
「怖いのか」
藤孝が聞いた。
「何が」
「上様が」
光秀は少し考えた。
「怖い、とは違う」
「なら何だ」
「怖いというのは」
海を見る。
「相手が何をするか分かっていて、それが恐ろしい時に使う」
「……」
「上様は」
光秀は言った。
「何をなさるか分からぬ」
「だから」
「怖いより先に、備えようがない」
藤孝は黙って聞いていた。
「だが」
藤孝が光秀を見る。
「だからといって、勝手に先を決めるな」
「何」
「上様は明を攻める。天下の後も戦い続ける。我らを捨てる」
「……」
「そうなるかもしれぬ」
藤孝は杯を置いた。
「ならぬかもしれぬ」
光秀は藤孝を見た。
「まだ起きていないことを、起きたことのように考えるな」
風が止んだ。
海が静かになった。
光秀は何も言わなかった。
藤孝が眉を動かした。
「十兵衛」
「……」
「どうした」
光秀は海を見ていた。
朝鮮。
明。
その向こう。
紙の上では、すべて繋がっていた。
以前、安土で信長と地図を見た。
――明とはこれほど大きいのか。
――兵はいかほどだ。
――船は。
――大筒は。
どれも、本当に聞かれた。
嘘ではない。
信長は日の本を指して笑った。
日の本だけを取って天下人とは、大きく出たものだ、と。
それも本当だった。
光秀は覚えている。
だから。
その先を一つだけ足せばよい。
そう思った。
思ってしまった。
「起きる」
藤孝が少し首を傾けた。
「何が」
光秀は藤孝を見る。
「上様は、明へ兵を出される」
藤孝の顔から、わずかに酒気が消えた。
「推量か」
光秀は答えなかった。
ここで笑えばよかった。
考え過ぎた、と。
藤孝の言う通りだ、と。
まだ起きていない。
何も決まっていない。
その通りであった。
光秀は口を開いた。
「違う」
言った。
藤孝は動かなかった。
「何が違う」
「推量ではない」
「誰から聞いた」
「聞いたのではない」
「なら」
光秀は一度だけ息を吸った。
「見た」
短い言葉であった。
それだけで済んだ。
◆◆◆
「何を見た」
藤孝の声が低くなった。
「算段だ」
「何の」
「九州の後だ」
「……」
「朝鮮へ渡る」
藤孝は黙っている。
「そこから明へ入る」
「誰が」
「上様が」
「兵は」
「近国から取る」
光秀は自分の声を聞いていた。
不思議なほど静かだった。
「丹波。丹後。摂津。大和」
「丹後も」
「ああ」
「何を出す」
「兵」
藤孝の目を見る。
「米」
海を見る。
「人夫」
少し間を置いた。
「船」
藤孝の目が細くなった。
丹後は海の国である。
船という一言は、兵よりも近かった。
「どこで見た」
「安土」
「書付か」
光秀はうなずいた。
「誰が持っていた」
答えを用意していなかった。
光秀は杯を取った。
酒はもう温くなっている。
「申せぬ」
「なぜ」
「申せぬものは申せぬ」
「十兵衛」
「藤孝」
二人はしばらく見合った。
先に目を外したのは藤孝だった。
◆◆◆
「いつだ」
「何が」
「いつ兵を出す」
「九州の後だ」
「九州がいつ終わる」
「分からぬ」
「では何年先だ」
「分からぬ」
「何万出す」
「そこまでは知らぬ」
「朝廷は」
「知らぬ」
「信忠殿は」
「知らぬ」
藤孝が息を吐いた。
「知らぬことばかりではないか」
「そうだ」
「それで、明へ出ることだけは知っていると」
「ああ」
藤孝は光秀を見た。
疑っている。
当然であった。
光秀自身ですら、少し前まで知らなかった話である。
「信じぬか」
「まだ何も言っておらぬ」
「顔が言っている」
「お前ほど顔を読むのは上手くない」
「十分だ」
藤孝は酒を飲んだ。
「一つ聞く」
「何だ」
「なぜ私に言う」
光秀はすぐには答えなかった。
それだけは嘘を用意していなかった。
「友だからだ」
藤孝は少し笑った。
「急に安い言葉になったな」
「本当だ」
「そうか」
藤孝は海を見る。
「なら、友として言う」
「何だ」
「もしお前の話が真なら」
真なら。
光秀はその言葉を聞いた。
「丹後は困る」
「ああ」
「船を取られる」
「ああ」
「百姓を人夫に取られる」
「そうなる」
「米も出す」
「そうだ」
「そして、海の向こうへ兵を送り続ける」
「……」
藤孝が言った。
「終わらぬな」
光秀は藤孝を見る。
「何が」
「戦が」
その言葉は、光秀が欲しかったものだった。
欲しかった。
そう思った自分に気づいた。
◆◆◆
「天下を取れば」
光秀が言った。
「戦が終わると思うていた」
藤孝は何も言わない。
「わしは、そう思っていた」
「……」
「違った」
「まだ分からぬ」
「分かる」
「十兵衛」
「天下を取れば」
光秀は庭の向こうを見る。
「日の本すべてを、一つの戦に使えるようになる」
藤孝が黙った。
波の音だけがした。
小さかった。
「丹波で道を直した」
光秀が言った。
「知っている」
「荷が通るように」
「ああ」
「百姓が市へ出られるように」
「……」
「その道を、兵が通る」
藤孝は答えない。
「堤を直した」
「十兵衛」
「米を取るためだ。村を戻すためだ」
「分かっている」
「その米が、海を渡る兵の飯になる」
「まだ決まっておらぬ」
「決まっている」
光秀は言った。
また。
同じ嘘だった。
だが、最初より言いやすかった。
それが少し恐ろしかった。
◆◆◆
日が傾いていた。
海が赤くなっている。
藤孝は長く黙った後、口を開いた。
「確かめる」
「何を」
「全部だ」
光秀は少し笑った。
「私を信じぬのか」
「信じる信じぬの話ではない」
「では」
「もし真なら」
藤孝が言った。
「知らなかったでは済まぬ」
光秀は黙った。
「もし偽なら」
「……」
「何もなければ、それでよい」
藤孝は杯を置いた。
「お前も、それを望んでおるのだろう」
光秀は答えるまでに少し間があった。
「ああ」
最初の嘘が、また少し重くなった。
◆◆◆
夜。
光秀は宮津の屋敷を歩いていた。
廊下の先から女の声がした。
「父上」
玉であった。
「まだ起きておったか」
「父上こそ」
「藤孝と飲んでいた」
「存じております」
「聞こえたか」
「何がでございます」
「いや」
玉は少し首を傾げた。
「忠興殿は」
「まだ戻っておりませぬ」
「そうか」
「父上」
「なんだ」
「今日は義父上と何のお話を」
光秀は足を止めた。
「昔話だ」
「ずいぶん長い昔話でございますね」
「年を取れば昔が増える」
「では、もっと長くなりますね」
「困ったものだ」
玉が笑った。
光秀も笑った。
◆◆◆
二人で少し歩いた。
庭に月が落ちている。
「丹後には慣れたか」
「はい」
「不自由はないか」
「ございませぬ」
「本当に」
「父上は心配性ですね」
「父だからな」
玉は少し考えた。
「わたくしはもう、細川の者にございます」
光秀は娘を見る。
玉は何気なく言っただけだった。
「そうか」
「はい」
細川の者。
光秀はその言葉を頭の中で繰り返した。
この娘が、ここにいる。
自分の娘が、藤孝の家にいる。
忠興の妻として。
細川の女として。
だから。
藤孝は自分の言葉を、簡単には捨てない。
光秀は歩みを止めた。
「父上」
「何でもない」
嫌な考えだった。
玉は何も知らない。
藤孝に嘘をついたことも。
その嘘の中で、娘の存在まで使ったことも。
まだ何もしていない。
ただ、思っただけである。
それでも。
思った。
「父上?」
「行こう」
「はい」
玉が先へ歩く。
光秀はその背を見る。
小さかった娘が、いつの間にか他家の女になっている。
その縁を、
自分は秤に載せた。
◆◆◆
部屋に戻った。
一人だった。
机がある。紙がある。筆がある。
光秀は座らなかった。
窓の外に海が見える。
暗い。
向こうには何も見えない。
朝鮮も。明も。南蛮も。
見えないだけで、ある。
信長が明へ兵を出す。
その話も。
今はまだ、どこにもない。
藤孝が調べる。
京へ聞く。安土へ聞く。商人へ聞く。公家へ聞く。
誰も知らない。
当然だった。
ないのだから。
光秀は目を閉じた。
今ならまだ戻せる。
明日、
藤孝に言えばいい。
見間違えた。聞き違えた。考え過ぎた。
そう言えばよい。
藤孝は怒るだろう。
笑うかもしれない。
それで終わる。
光秀は長く立っていた。
やがて障子を閉めた。
海が見えなくなった。
嘘をついた。
そのことを、
初めてはっきりと思った。




