蜘蛛の一目惚れ
蜘蛛族に攫われるくらいなら、死んだ方がマシだ。
リナリアは幼い頃から、そんな話を聞いて育った。
蜘蛛族は人を巣へ閉じ込める怪物だとか、一度気に入った獲物は糸で絡め取り、二度と逃がさないとか。
伴侶に選ばれた人間は、一生を巣の奥で過ごすのだなどと、酒場の酔っ払い達は面白そうに語っていたけれど、もっとも、その話を実際に見た者は誰もいない。
誰かが聞いた話を、別の誰かが大袈裟に話し、それをまた誰かが脚色する。
そんな事を何十年も繰り返した結果、人々の中で蜘蛛族はすっかり恐怖の象徴になっていた。
だから…
「お前には蜘蛛族領へ行ってもらう」
養父にそう言われた時…リナリアは現実逃避を始めた。
「…え?」
「蜘蛛族領、だ!」
「はぁ」
「侍女として働いてもらう!事になった!」
「はぁ」
「…。一年契約だ」
「はぁ」
「聞いてるか?」
「聞きたくありません!」
得意のレース編みをしながら話を聞くリナリアに対し、養父は盛大に舌打ちした。
薄暗い食堂の空気が重くなる。
向かいに座る養父は眉間に深い皺を刻み、机の上に一枚の紙を叩きつけた。
「借金だ」
そこには数字が並んでいた。
リナリアは手を止め、その書類に目を通す。
…リナリアは数字が苦手だから一瞬意味がわからなかった。
だが金額を見た瞬間、なるほどと理解した。
「…あっ」
終わってる、この店が。
完全に、終わってる。
この小さな食堂が一年どころか一ヶ月も持たない事くらい、数字が苦手なリナリアでも理解できた。
「蜘蛛族が人間の侍女を募集してるんだと」
「なんでですか」
「…知らん」
「知らないんですか!?」
「知らんものは!知らん!」
逆ギレだ、不条理だ、理不尽だ。
だが養父も余裕がないのだろう…額を押さえながら深いため息を吐く。
「最近、蜘蛛族が人族との交易を始めたらしい」
「交易…?」
「なんだ、応接係だとか文化交流だとか書いてある」
養父は紙を指差したので、リナリアも覗き込む。
募集要項らしいが、そこには確かに書かれていたのは
人族文化に詳しい者歓迎します!
礼儀作法を心得る者歓迎します!
住居完備!3食食事付き!高待遇をお約束します!
「…怪しい」
「怪しいな」
2人の間に沈黙が流れる。
「凄く怪しいです」
「凄く怪しいな」
二人は再度しばらく黙った。
誰が見ても怪しい募集の紙だ、高待遇すぎる。
しかも高待遇だと書いてある。
人族領でも滅多に見ない高条件だった。
「絶対帰って来られないやつでは?」
「俺もそう思う」
「じゃあ断りましょう?!」
「断れる立場か!」
机が叩かれた。
リナリアはびくりと肩を震わせる。
同時に隣室から小さな音がした、エルだ…きっとまた隠れている。
養父が怒鳴るといつもそうだから、リナリアはそっと視線を落とした。
断れない…その事だけは理解できる。
借金と幼い義弟。
…その事を考えれば答えは一つしかない。
「…わかりました」
リナリアは小さく呟いた、その瞬間に養父は露骨に安堵した表情を見せた。
その顔を見てリナリアは「あ、売られたな」と、察した。
悲しいというより納得しかない、この借金の額を見れば仕方ない。
だって自分が行けば家族が助かる。
…それだけだ。
「明日の朝、迎えが来る」
養父はそう言い残し席を立ったけれど、最後まで目を合わせなかった。
扉が閉まる音の後には静寂。
リナリアの耳には聞き馴染んだ古い時計の音だけが響いてきた。
そして、きぃ…と隣室の扉が開いた。
「……姉ちゃん」
小さな少年が顔を覗かせた。
痩せた身体に不安そうな瞳…リナリアの大切な義弟、エルだった。
彼は父親がいなくなった事を確認すると、ぱたぱたと駆け寄ってくる。
「姉ちゃん、本当に行くの?」
リナリアは笑った、不安にさせない様にと出来るだけ明るく。
「うん」
「蜘蛛族の所?」
「うん」
「食べられる?」
「…多分食べられないと思う」
「多分?」
「侍女を食べようとはしないはずよ」
エルは泣きそうな顔になった。
そんな顔をする義弟を見て、リナリアも少し不安になった。
確かに食べられるかもしれない。
…いや、流石に食べないだろう。
え?本当に食べないよね?
募集要項に食事付きとは書いてあったが、被食事側になるとは書いていなかった。
大丈夫なはずだ、きっと、多分。
「姉ちゃん」
「なあに?」
「もし蜘蛛に食べられそうになったら逃げてね」
「うん、私足早いから大丈夫よ?」
「全力で逃げてよ?約束だよ?」
「うん、約束ね?」
「噛みついていいからね」
「私が噛みついちゃうの?ふふっ」
「目を狙うんだよ?」
「え?そんな事を誰に教わったの?」
エルは真剣な顔だったけど、そんな表情も可愛くて、リナリアは思わず吹き出す。
そして、エルもつられて笑った、少しだけ空気が軽くなる。
それでも、夜が更けて寝台に入った後はやっぱりリナリアは眠れなかった。
窓の外を眺め考える…明日には蜘蛛族領へ向かうんだと。
怪物と呼ばれる蜘蛛族の巣へ、人々が恐れる森へ、帰って来られる保証などどこにもない場所へ。
リナリアの胸の奥がじわりと痛んだ、強がっていてもやっぱり怖い。
…怖くないわけがない。
けれど「なせばなるのよ」そう、呟いてみる。
誰に言うでもなく、自分を励ますための言葉。
母親がいつもリナリアへ言ってた言葉。
*・*・*・*・*・*
蜘蛛族領に入ってからは常に薄暗かった。
森の奥深く…巨大な白い糸が樹々を覆い、空そのものが蜘蛛の巣に見えるような異様な風景。
馬車の窓から見える光景に、リナリアは息を呑む。
怖い。
人としての本能がそう告げているのだけれど、それと同時になぜかこの景色が《《綺麗》》だとも思ってしまう自分がいる。
白銀の糸が光を受け、静かに輝いている。
朝露に濡れているからだろうか?所々の糸が一際強く光っていて、まるで空を宝石で装飾している様に見えた。
人間の町では、決して見られない景色だ。
「到着いたしました」
御者の声と共に馬車が止まる。
リナリアは震える手で荷物を抱え、ゆっくりと地面へ降り立つ。
降りる際に一度深く深呼吸したのは、これから訪れるだろう恐怖を想像したリナリアがとった精一杯の抵抗の現れだったのかもしれない。
栄養不足の身体はとても軽く、馬車から降りる際に出る着地音も最小限だ。
リナリアの体が地面に降り立ったその瞬間…周囲の視線が、一斉に突き刺さる。
「…っ!」
リナリアの背筋がぞわり粟立つ。
馬車を降りた先には沢山の蜘蛛族達がいて、馬車から降りたリナリアに気が付いた数人がこちらを凝視していた。
一様に背が高く、色素の薄い髪と人間よりわずかに鋭い瞳。
ぱっと見は人族と相違なく見えるが、左右の瞳の下に縦に二つずつ宝石のようなものがはまっている。
宝石の色や大きさは人によって違うようで、リナリアがパッと見ただけでもそれがわかった。
やっぱりにていたとしても人族とは違うのだと理解し、それと同時に恐怖もした。
けれどなぜかやっぱりここでも《《綺麗》》だと、そう思ってしまうリナリアがいる。
恐ろしいはずなのに。
不気味なはずなのに。
なぜか美しいと感じてしまう心がリナリアにはあった。
リナリアと数人の蜘蛛族が無言で対面していると、不意に空気が変わった。
「…おい、待てよ」
「嘘だろ?」
「なんだ、あれ…」
そんな同族の様子に気がついた他の蜘蛛族が人族のリナリアに気がつき始め、徐々にざわめき始める。
気づけば馬車はいなくなっていて、蜘蛛族からの視線がすべてリナリアへと集まっていた。
怖い、何か失礼な事をしたのだろうか?
リナリアの身体が不安で酷く強張るが、そんなリナリアのことなど知らない蜘蛛族達は皆が皆、突然現れた人族のリナリアに興味津々の様子で徐々に近づいてくる。
そして、それに気がついたリナリアが更に恐怖するという事態に陥っていた。
その時、一際大きなざわめきが聴こえたと思えば蜘蛛族の集団が左右に避け、その際に出来た中央の道の奥からゆっくりとした足取りで一人の男が姿を現した。
白銀の髪と夜色の外套。
静かな赤い瞳の下にあるのはその瞳と同じ様な真っ赤で宝石のような大きな石。
その姿を見た瞬間、リナリアの思考は、真っ白になった。
「っえ?」
今まで見てきた何よりも綺麗で美しい。
けれどきっと、そんな言葉では到底足りない。
冷たい月をそのまま人の形にしたような静かで美しい蜘蛛族の男性の登場に、リナリアは思わず息を呑む。
なぜかその男性から目が離せない、身体中の血液が沸騰した様に熱く、心臓の鼓動が妙にうるさく耳に響いてくる。
すると男もまた、そんなリナリアのそばまでくるとぴたりと足を止めた。
宝石の様に赤い瞳がリナリアの姿を視界に捉えた瞬間、大きく見開かれる。
数秒の沈黙、けれど長く時間が止まったような沈黙に思えた。
「領主様……?」
蜘蛛族の中の誰かが戸惑った声を漏らす。
その時の蜘蛛族領主アシュヴァルは、信じられないものを見るように、ひたすら穴が開くほどにリナリアを見つめていた。
その熱い視線に、リナリアは困惑する。
言葉もなく、ひたすら見つめ続けられるこの状況に困惑したリナリアが少しだけ身じろぐ。
視線は泳ぎ、頬は羞恥で赤く染まっている。
もじもじとしだしたリナリアの様子を見ていたアシュヴァル。
「…え、えへへ…?」
リナリアが恥ずかしさと居た堪れないこの状況をなんとか打破しようと頑張った結果…なぜかアシュヴァルに対して恥ずかしがりつつも笑顔を向けたのだった。
その時、突然どこからか布が擦れるような音が響いた。
「…え?」
なんの音だろうと意識が少しそれた瞬間、リナリアの靴を撫でる様な感覚が。
なんだろうと思い足元を見たリナリアは目を丸くする。
そこにはなぜか大量の白い糸が床一面に、爆発したように広がっていた。
絶対にさっきまで無かったとリナリアが目を見開いて驚いていると、周囲でこちらを見ていた蜘蛛族達が騒ぎ出す。
「待ってください領主様!?」
「糸が暴走してます!」
「落ち着いてください!?」
リナリアが口をぽかんと開けたまま周囲の蜘蛛族達に目線をやると、なぜか場が騒然となっていた。
一体いま何が起きているのかわからない。
ただ…理解できたのは、蜘蛛族達が騒いでいる事ともう一つ。
目の前の美しい男がこの騒ぎにも動じない…いや、何故か固まっている事だけだった。
しかも視線が泳ぐ度に、糸が増えている。
私の視線に気がつけば更に糸が増え、周囲が叫ぶ。
「ちょ、待っ……領主様、糸が!」
「待ってください!道が埋まる!」
「誰か止めろ!」
「止められるわけないだろ!?力量がちげぇよ!」
気がつけば周囲一帯がアシュヴァルの糸で埋め尽くされていた。
「お、俺の…番」
「…番?」
アシュヴァルが突然ボソリと呟いたその言葉が、周りの騒音の中、妙にはっきり耳に残った。
つがい?
混乱するリナリアを前に、アシュヴァルは片手で顔を覆った。
「…………」
「?」
リナリアが無言で彼を見つめていると、片手で覆っていた顔をそのまま斜め後ろにむけ、アシュヴァルが叫んだ。
「…つ、連れて行け!」
斜め後ろでアシュヴァルの糸に絡め取られない様にとてんやわんやしていた蜘蛛族達が、そのアシュヴァルの低い震える声を聞いた瞬間、一斉に目を剥いた。
「領主様!?巣にですか!?」
「その振動は番様って事ですよね!?」
「おーい!番様を領主様の巣へ丁寧にお連れするぞ!」
「あ、ち、違…いや、違わない、が…!」
この場は完全に混乱していた。
彼が登場時に見せた冷静そうな顔と今の落差がひどい。
しかも動揺するたび糸が増えるせいで、威厳がまるでない。
周囲は大混乱だった。
後に蜘蛛族領では、この日の出来事をこう呼ぶ者が現れる。
『領主様の初恋の日』と。
他サイトでも投稿しています。
一話が重すぎたので話の内容や流れは変えず、軽くなる様に書き直しました…申し訳ありません




