EP 16
面会室の仁義なき飯テロ! 黄金カツ丼の凶悪なる一撃
「……おいおいおい、正気かワレぇ」
特級独房のオリハルコンの鉄格子越しに、デュアダロスが咥えていた煙管をポロリと床に落とした。
黒スーツを着崩したインテリヤクザ神の眼前に広がっていたのは、神界最凶の大監獄タルタロスでは天地がひっくり返ってもあり得ない、白銀に輝く最新鋭厨房の光景だった。
石造りの頑丈な面会机の上には、コンセントからバチバチと雷撃マナを引いた業務用電磁フライヤーが鎮座している。
その隣にはカセットコンロ、プロ仕様の打ち出し雪平鍋、木蓋付きの親子鍋。そしてまな板の上には、赤身と脂身が完璧なマーブル模様を描く岩手県産特選三元豚ロース肉のブロックが、どっしりと横たわっていた。
「リアン君……! アンタ、本気でここで揚げる気!?」
ルチアナが芋ジャージの袖をパタパタさせながら悲鳴を上げる。
「ここ、神界の重罪人を拘束する特級懲罰フロアよ!? こんなとこで油なんか沸かしたら、火災報知結界が作動して主神オリン親衛隊が突入してきちゃうじゃないの!」
「安心しろ。結界の排気口は俺の魔力で厨房ダクトに直結してある。火災報知器も、喰丸にセンサーの魔力だけ小腹満たしに齧らせて無効化した」
「手際が完全にテロリストのそれなのよぉぉぉッ!」
ギャーギャー騒ぐ駄女神を無視し、俺は白前掛けの紐をキュッと締め直した。
隣では、早くもヨダレの海に溺れかけているポンコツ陣営が目を輝かせている。
「ふへへ……リアン君のお料理……トクントクンって心臓が美味しい音を立ててますぅ……」
キャルルが人参ハンカチで口元を押さえ、ピコピコと兎耳を震わせている。
「あらあら、とっても綺麗なピンク色のお肉ですわね★ 世界樹の森の凶暴な猪さんも、あんなふうに綺麗に解体してあげたら喜びますかしら♡」
「ルナ、血生臭い想像を笑顔でするな」
「リ、リアン君ッ! 余った豚の脂身や、卵の殻の内側の薄皮は全部私のものですわよね!? 一滴のコレステロールも無駄にしませんわよ!」
「リーザ、お前は少しアイドルとしての尊厳を買い戻せ」
いつもの混沌たる会話をBGMに、俺は包丁を手に取った。
刃先が触れた瞬間、意識が研ぎ澄まされる。前世の銀座、三ツ星フレンチの厨房で何千、何万枚もの肉と向き合ってきた記憶と技術が、細胞の隅々まで行き渡る。
「――始めるぞ」
トン、トン、トン、とリズミカルな快音。
極厚に切り分けられた二・五センチ厚の三元豚ロース肉。脂身と赤身の境目にあるスジを、刃先で的確に断ち切る。こうすることで、揚げた時に肉が反り返るのを防ぎ、均一な火入れが可能になるのだ。
軽く肉叩きで繊維をほぐし、塩と挽きたての白胡椒を高い位置からパラパラと均等に振る。
「小麦粉を薄く纏わせ、溶き卵にくぐらせ、粗挽きの生パン粉の海へ――」
余分な粉をはたき、ふんわりとパン粉の布団を着せる。
押し付けず、しかし隙間なく。空気の層を含ませた衣が、仕上がりのサクサク感を決定づける。
その間、フライヤーの中で熱されていた最高級ラードから、わずかに香ばしい油の匂いが立ち上り始めていた。
油温計は百七十度を指している。
「おいおいおい……」
格子越しに見ていたデュアダロスが、唾をゴクリと飲み込んだ。
「なんやあの手際の良さは……。ヤクザのヒットマンがチャカの手入れする時より無駄がないで……」
「見とけよ、ヤクザ神。これが日本の魂、カツの洗礼だ」
俺は衣を纏った特大ロース肉を、静かにラードの中へと滑り込ませた。
――ジュワァァァァァァァッッッ!!
静寂に包まれていた面会室に、油の弾ける凄まじい歓声が轟いた。
ラード特有の、コク深く甘やかな香りが一気に爆発する。
細かな気泡が肉の周囲を取り囲み、激しく泡立ちながら、パン粉を黄金色へと染め上げていく。
『グ、グオォォォッ……!?』
背後で直立不動を保っていたはずの獄卒長バルバトスが、思わず胸を押さえてよろめいた。
『な、何なのだこの音は……! まるで千の戦士が鬨の声を上げているかのような……! そしてこの、動物性の脂が熱せられたことによる、原始的な飢餓感を刺激する濃密な芳香はァッ!』
「まだだ、慌てるな。音を聞け」
俺は菜箸で肉の浮き上がり具合を微調整しながら、耳を澄ませる。
最初は低く重かった「ジュワジュワ」という重低音が、内部の水分が適度に抜け、熱が中心へと通るにつれて、高く澄んだ「パチパチパチ」という高音へと変化していく。
泡の粒が小さくなり、箸の先から伝わってくる振動が軽快になったその瞬間――。
「――揚がったぞ」
ザシュッ、と油切り網の上に引き上げられたトンカツ。
そこにあったのは、見事なまでに均一な狐色に輝く、黄金のインゴットだった。
余熱で肉汁を肉の中心へと落ち着かせるため、網の上で一分間休ませる。
その間に、俺は隣のカセットコンロに火をつけた。
黒塗りの小さな親子鍋に、ネット通販で取り寄せた老舗蕎麦屋の秘伝かえし醤油、本枯節と昆布の濃厚出汁、みりん、少量の純米酒をブレンドした特製割り下を注ぎ込む。
薄切りにした玉ねぎを敷き詰め、中火にかける。
――グツグツグツ……。
今度は、和の神髄たる【出汁と醤油の暴力】が解き放たれた。
甘辛い醤油が熱せられ、鰹節の燻したような芳醇な香りが、ラードの油香と混ざり合う。
「う、美味そう……! もう匂いだけで白飯三杯いけるわよこれぇぇ!」
ルチアナが目を回し、よだれを手で拭う。
「リアン君ッ! もう我慢の限界ですわ! その鍋ごと私のお口に流し込みなさいましーッ!」
突進してきたリーザの頭を、キャルルの安全靴がゴツンと踏みつけて床に縫い止めた。
「ダメですリーザさん。お行儀の悪い子は、リアン君の特等席には座れません」
余熱の通ったトンカツをまな板に乗せ、包丁を入れる。
――ザクッ! サクッ! サクッ!
刃が衣を断ち切るたびに、周囲の全員の喉が「ゴクリ」と同時に鳴った。
断面からは、ほんのり桜色を残した極上の肉汁が、キラキラと溢れ出している。
俺はそのカツを、グツグツと煮立つ親子鍋の玉ねぎの上へ、美しい円を描くように滑り込ませた。
そして――ボウルに軽く溶きほぐした、濃厚な赤玉卵を手に取る。
「カツ丼の命は、卵の『二度がけ』だ」
まずは半分。円を描くように、カツと鍋肌の隙間へツツツーッと流し込む。
強火にして木蓋を閉め、十秒。
白身が白く固まり、出汁を吸ってふんわりと膨らんだところで蓋を開け、残りの半分の卵をカツの真上から回しかける!
即座に火を止め、再び蓋をして余熱で蒸らす。
保温ジャーを開ければ、立ち上る湯気と共に現れるのは、粒立ちの良い新潟県産コシヒカリの銀シャリ。
深めの特製どんぶりに、アツアツの白飯を山盛りに装う。
そして――木蓋を外した。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁッッ!!」
デュアダロスが絶叫した。
黄金色に煮込まれたトンカツを包み込むのは、半熟トロトロの黄色い卵のヴェール。
出汁を含んで透き通った玉ねぎ、火の通ったふんわり白身と、艶やかに光る生の濃厚な黄身のコントラスト。
仕上げに、青々とした三つ葉をサッと散らす。
スルリと、親子鍋から滑り出た極上の具材が、白米の山を完璧に覆い尽くした。
「お待たせしたな。――元三ツ星フレンチ副料理長が本気で作った、『特選三元豚の極上カツ丼』だ」
俺は鉄格子の受け渡し口から、ずっしりと重い漆黒のどんぶりと、割り箸をデュアダロスの前へと押し込んだ。
デュアダロスは、震える手で割り箸を割った。
パチン、と乾いた音が響く。
男の目は完全に血走り、ヤクザの威厳など完全に崩壊していた。
「い、いただきます……じゃッ!」
ガバッ! と丼を持ち上げ、デュアダロスはカツの一切れを口の中へ放り込んだ。
サクッ……ジュワァァァァァッ!
分厚い肉に歯が沈み込んだ瞬間、男の全身がビクンッと跳ね上がった。
「――ッッ!? な、なんじゃあぁぁぁぁぁぁッッ!?」
口いっぱいに頬張ったまま、デュアダロスが絶叫した。
「や、柔らかい……! なんじゃこの肉の柔らかさはァッ!? 歯を入れた瞬間、抵抗もなくサクッと噛み切れよる! そして溢れ出す、豚の甘い脂と芳醇な肉汁……! 衣が出汁を吸うてヒタヒタになっとるのに、端っこはまだカリカリと香ばしい歯触りを残しとるんじゃあッ!」
「そこで米をかきこめ。カツ丼の真価は飯とのマリアージュだ」
言われるがまま、デュアダロスは丼に顔を埋める勢いで、出汁の染みた米とトロトロの卵をかき込んだ。
ハフッ、ハフッ、ガツガツガツッ……!!
「う、美味い……! 甘辛い出汁が染みた熱々の白米が、カツの脂と混ざり合って怒涛の勢いで喉を滑り落ちていくッ! 卵じゃ! この卵の半熟加減が犯罪的じゃあッ! 濃厚な黄身のコクが全体を優しく包み込みながら、三つ葉の爽やかな青い香りが後味をビシッと引き締めとる……! なんちゅう……なんちゅう極道な味じゃ……!!」
デュアダロスの目から、大粒の涙がボロボロと溢れ落ち、スーツの胸元を濡らした。
「親分……! ワシ、間違っとりま舌ぁぁぁッ! こんな美味いもんがシャバにあるんやったら、神界で地上げなんかやっとる場合じゃなかったんじゃあッ! 美味い、美味すぎる! これが……これが本物の飯いうもんじゃあああッ!!」
ガツガツ、ガツガツッ!
凄まじい吸引力で、大盛りだったカツ丼が一瞬にして消え去っていく。
米粒ひとつ残さず平らげたデュアダロスは、ドンッと空の丼を置くと、放心したように天井を見上げて「プハァァァ……」と恍惚のため息を漏らした。
「……ふぅ。胃袋を掴むのは、どんな神託よりも効くな」
俺が満足げにエプロンを外そうとした、その時だった。
――ヒュゥゥゥゥ……。
換気ダクトから、かすかな風の音が響いた。
俺が仕掛けた魔導排気ダクト。そこから排出されたカツ丼の凶悪なアロマ――ラードの香ばしさ、甘辛い醤油と出汁の芳香、そして炊き立ての白米の匂いが、監獄の中央換気シャフトを通じて、地下全フロアへと逆流していたのだ。
ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
「……ん?」
俺は眉をひそめた。足元から、不気味な地響きが伝わってくる。
「ね、ねぇリアン君……?」
ルチアナが顔を引き攣らせ、青ざめた指先で廊下の奥を指差した。
――ガタガタガタガタッ!!
――ドォォォンッ! ドォォォンッ!!
それは、幾千もの鉄格子が激しく打ち鳴らされる音だった。
監獄の分厚い壁の向こうから、何百、何千という飢えた魔獣、古代の邪神、凶悪囚人たちの狂乱の咆哮が、津波のように押し寄せてくる。
『肉だァァァッ! 肉の匂いがするぞォォォッ!!』
『出汁じゃあッ! 甘辛い醤油の匂いを出せェェェッ!!』
『出せ! ここから出せぇぇぇッ! 泥のマナブロックなんぞ食ってられるかァァァッ!!』
『飯を寄越せぇぇぇぇぇぇッッッ!!』
ズズズンッ……! と大監獄タルタロス全体が激震する。
「ひ、ひえぇぇぇぇッ!?」
獄卒長バルバトスが兜を抱えて悲鳴を上げた。
『ぜ、全フロアの収容区画で暴動が発生しましたァッ! 結界が……囚人たちの飢餓の狂気で、オリハルコンの鉄格子がへし折られそうでありますッ!!』
廊下の突き当たり、頑丈な防壁扉がメキメキと内側から盛り上がり始める。
数千の凶悪犯たちが、ただ一杯のカツ丼の匂いだけに突き動かされ、面会室へと殺到してきていた。
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