後編
「そ、その……俺は勉強をしていたわけじゃ……」
「え? じゃあ、いつも何をしていたの?」
俺は彼女の誤解を解こうと弁明を始めようとするが、彼女は俺が言い切る前に質問する。
彼女の研磨された宝石のようなきれいな瞳に向けられた俺は、何も言えなくなってしまい押し黙る。
「……えっと……それは……」
「?」
しどろもどろになって何も言えなくなる俺に、彼女は首を傾げる。
そんな彼女の様子に、さらに追い詰められてしまった俺はもっと口をモゴモゴさせてしまう。
「……なんでもないです……」
「そう?」
そして、彼女に真実を知られたら自分の好意も知られてしまうと思った俺は彼女の誤解を解くことができなかった。
彼女は納得がいっていないようだったが、幸いなことにこれ以上言及するようなことはなかった。
「いつも、見てたよ。毎日のように勉強しているところ」
「えっ、そうなんですか?」
「うん。ただ、ペンが動いていないのを見てたから勉強が上手く言ってないのかな~って」
俺が七瀬先輩を見ていたように、七瀬先輩も俺を見ていたことを知り、俺は動揺してしまう。
そして、同時に彼女に誤解させたままにしてしまったという罪悪感だけが胸を蝕んでいた。
「それで、俺があまりにも勉強が出来なさそうだったから、こういった問題を作ってくれたんですか?」
俺は自分の心を蝕んでいく罪悪感を見て見ぬふりをして、彼女に問いかける。
すると、彼女は大きく首を横に振った。
「違うよ。ただ、勉強ができない人だったら私も手を差し伸べなかったよ」
彼女はどこか残酷な表情で俺の言葉を否定する。
雰囲気が急変した彼女に、俺は思わず息を呑んで黙ってしまった。
彼女は口では一方的なことを言っているが、その表情はどこか寂しそうで悲しそうだった。それがとても大人びていて、俺は知らない彼女の一面に釘付けになってしまう。
「……じゃあ、なんで問題を作ってくれたんですか?」
俺は重たい空気を打ち破るために勇気を出して彼女に問いかける。
そして、彼女は先ほどまでの空気を笑みで消し去り、どこか遠い目で俺を見つめる。
「私は努力ができないから」
「……え?」
唐突な彼女のカミングアウトに、俺は茫然として彼女の顔を見つめる。
努力ができないというのはどういうことなのだろうか。
少し考えてみるが、目の前にある数学の問題のように答えが出てくることはなかった。
そんな俺の様子を見かねてか、彼女はすぐに答えを教えてくれる。
「私は生まれた時からなんでもできたの。勉強も、運動も、芸術も。もしかしたら君は知らないかもしれないけど、3年生の間では結構有名な話なんだよ?」
彼女は一切照れ恥ずかしそうにもせず、そう語る。
その姿は彼女の言葉が事実であることを証明していて、俺は固唾をのんだ。
「……ちょっとは聞いたことあります」
「そうなんだ。2年生でも知っているんだね」
「……そうですね」
俺は彼女に一目惚れをしてからというもの、七瀬先輩のことをそれとなく周りの人に聞いていた。
そして、すぐに彼女の噂は俺の耳に入ってきた。
曰く、小学生の時点で大学生レベルの学寮を持っていたとか、中学生の時の美術コンクールでプロ顔負けの絵を描いて最優秀賞を取ったとか。
とはいえ、七瀬先輩のことを調べていましたと白状するわけにはいかないので、俺は笑って誤魔化した。
「だから、君が苦手な勉強を毎日頑張っているのを見て、感動したんだよ」
「そうなんですか?」
「うん。私は大半のことを努力せずともできたから」
彼女は少しだけ悲しそうな顔をしながら、俺のノートを見続ける。
七瀬先輩は生まれた時からなんでもできた。だからこそ、努力をする必要がなかったのだろう。
だからこそ、俺が毎日のように勉強をしているのを見て、彼女は心動かしたのだろう。
しかし、彼女が心を動かした俺は存在しない。そのことが重たく俺にのしかかってきて、耐えられなくなっていく。
「……すみません。違うんです」
ついにこらえきれなくなった俺は彼女の顔が見られなくなり、顔を伏せた。
そんな俺を見て、彼女が息を少しだけ吸ったのが聞えてきた。
「……何が違うの?」
彼女は震える声で俺に問いかける。
七瀬先輩の声を聞いて、俺は強張る心を抑えつけた。
「……俺は勉強をするために図書室にいたわけじゃないんです」
「……どういうこと?」
俺の懺悔に、彼女は困惑した声を上げた。
そんな彼女の期待を裏切るのは心痛かったが、俺はそれでも彼女に真実を教えないといけないと強く思った。
「俺は……七瀬先輩のことが好きなんです」
気が付いたら俺は彼女に告白していた。
しかし、その告白は俺が密かに思い描いていたものとは違った。
想像していたものは、もっとロマンティックで胸を張ってしっかりと告白の言葉を口にしていた。しかし、先ほどの告白は声が震えていて、目線も彼女に向けることができていなかった。
図書室に一瞬の静寂が訪れる。
彼女は何も言わなかった。
図書室にいた人たちは俺の小さな告白が聞えていないようで、こちらに注目している様子は全くなかった。
「……それと何が関係あるの?」
冷ややかで怪訝な声で、彼女は俺に問いかける。
俺はゆっくり顔を上げて彼女の顔を見つめる。
彼女は告白を受けたとは思えないほど、冷たい目を俺に向けていた。
「だから、その。俺が毎日図書室にいたのは七瀬先輩が、見たかったからで……」
だんだんと心臓が痛くなっていき俺の声は小さくなっていく。
それを聞いた彼女は俺が図書室にいた理由を聞いた彼女はだんだんと理解していき、その顔を真っ赤にしていく。
「つ、つまり……君が図書室にいたのは……、勉強が目的というわけじゃなくって」
「……はい。その、先輩が見たかったからで……」
顔が炎にあぶられているように熱くなっていくのを耐えながら、俺は理由を説明しきる。
ふと、彼女に視線を向けると、彼女は俺から視線を逸らして何もないところを見つめて恥ずかしさを堪えていた。
「……そっか。じゃ、じゃあもしかしてその問題とかも余計な気遣いだったり……」
「い、いや! そんなことないです!」
彼女は頬を赤らめたまま申し訳なさそうな顔をして、俺が持っているノートを見つめる。
そんな彼女に俺は勢いをつけて首を横に振った。
「でも、勉強が目的じゃないなら……」
「い、いや! 先輩の作ってくれた問題のおかげで勉強にやる気が出てきましたから!」
申し訳なさそうな彼女を否定するために、俺はペンを手に取りノートに向かう。
しかし、勉強が苦手な俺はノートの内容を見て、すぐに手を止めた。
彼女は基礎的なことを書いていたといっていたが、その基礎の基礎すら抜け落ちている俺にとってこの問題たちは難問だった。
そして、しばらくした後、俺はペンをゆっくり机の上に置いた。
「え? どうかしたの?」
彼女は俺の様子を見て、俺の顔を覗き込む。
そんな彼女の視線から逃れるように、俺は視線を泳がせた。
「もしかして、分かんないの?」
「……はい」
彼女は信じられないといった態度で目を見開く。
俺はそんな彼女の顔を見て、先ほどとは違った恥ずかしさに襲われた。
「そっか。じゃあヒントを上げるよ」
そう言いながら彼女は机の上に置かれたペンを持って、ノートに何かを書き込んでいく。
それは第一問目の数式を解くためのヒントのようで、一つの公式と数字に矢印が書かれていた。
俺はそれを眺めながら必死に頭を動かして考える。
「あ、移項したら……」
「そうそう。そうしたらこの数式に当てはまるでしょ?」
「なるほど、そう解くんですね」
彼女はノートに何かを書き込みながら、俺に対して数式の解き方を教えてくれる。
彼女の説明はとても分かりやすく、分からないところがあっても分かるまで何度も教えてくれる。
その結果、俺はだんだんと問題の解き方が分かっていった。
「じゃあ、答えは2、ですか?」
「うん。正解」
俺が自信なさげに答えを口にすると、七瀬先輩は穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
その様子に安堵した俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「それじゃあ二問目もやってみようか?」
「え?」
ひと段落したと思っていた俺に対し、七瀬先輩は笑顔のままそんな言葉を口にする。
動揺した俺は彼女の顔を見つめるが、彼女は決して嘘を吐いているようには見えなかった。
「大丈夫。まだ時間はあるから」
俺はノートをパラパラとめくっていく。彼女が作った問題は十数問あり、先ほどの1番基礎的な問題を解くのに10分以上かかっているのだ。すべての問題を解ききるのにどれだけの時間がかかるのかは分からなかった。
「えっと……もしかして、全部解けるまでやるつもりですか?」
「うん」
恐る恐る彼女にそう問いかけると、彼女は当たり前のような顔で頷いた。
彼女は生まれた時からなんでもできたと言っていたが、こういったストイックな性格も関係していそうだ。
そんなことを考えながら、俺は第二問目に取り掛かるのだった。
「終わった~!」
「おめでとう」
数時間後、俺はようやく数学の問題をすべて解き終わった。
結局最後まで自力で問題を解くことはできなかったが、少しでも躓いたり分からなくなったりすると、隣にいた七瀬先輩がすぐに助け舟を出してくれた。
辺りを見回すと、図書室には誰もおらず、受付の人ももう帰っているようだった。
窓の向こうには静かな月明かりが見えていて、もうそろそろ閉校時間が来ていることを知らせていた。
「とりあえず、帰りましょうか」
「あ、はい」
七瀬先輩はいつの間にか図書室から借りていた文庫本をカバンにしまいながら、俺に声をかける。
さきほどまでずっと勉強を教えてもらっていたからか、俺と七瀬先輩の距離はかなり近くなっているように感じた。
俺は慌てて机の上に散らかしている教科書たちを乱雑にカバンにしまおうとする。
そして、俺はノートを手に取る。何時間もかけて問題を解いていた結果、ノートは湿気を含んで少しだけ厚みを持っていた。
「どうかした?」
「あ、いや。こんなに勉強したのは始めてだなって思って」
「まぁ、数時間も休憩なしで勉強するのって結構体力使うもんね」
七瀬先輩は肩にカバンをかけながら、俺に同調する。
そんな彼女に相槌を打ちながらノートをカバンにしまった。
「行きましょう」
「うん」
そして、俺は七瀬先輩と共に図書室から出ていく。
俺たちはおぼろげな月明かりに照らされている廊下を歩いていく。
誰もいない学校は静かで不気味なのに、どこか神秘的な空気を持っていて、どこか心が弾んでいるのを感じていた。
「そういえば、告白の話なんだけど」
「ぐっ……!」
しかし、彼女はそんな空気を破壊しながら、俺の告白を蒸し返す。
そんな彼女の言葉に驚き、俺は思わずえづいてしまう。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
彼女は心配そうな顔をして立ち止まった。そんな彼女に合わせて俺も立ち止まり、息を整えた。
「それで告白の件なんだけどさ」
「あ、は、はい!」
彼女はゆっくりと俺の顔を見つめた。
その顔はどこか申し訳なさそうな顔をしていて、それを見た俺は彼女が言わんとする言葉がすぐに分かった。
「ごめん。私は君のことをよく知らないから付き合えない」
「……はい」
彼女は俺を振り、俺はそれを素直に受け入れる。
この恋は諦めよう。
そう心に決めた俺は、涙を堪えるために唇を強く噛みしめた。
「……で、でもさ」
しかし、彼女はそんな俺に対して恥ずかしそうに言葉を続ける。
「君の一途……で紳士なところは好ましくは思ってる。だから……」
彼女は自分を落ち着かせるように深呼吸を1つしてから、俺の瞳を見つめる。
彼女は真っ暗な夜の学校にいるというのに、一目で分かるほど頬を紅潮させていた。
「き、君のことを知りたいから、こ、これからも図書室で一緒に勉強しない?」
彼女は俺から視線を逸らしながらそう口にする。
それはつまり、俺と付き合うことは前向きに考えるということで。
「い、いいんですか!?」
「つ、付き合うわけではないからね! それでもいいなら……」
「は、はい!」
俺は満面の笑みで彼女の誘いに同意する。
それを聞いた彼女はどこか安心したような顔で、俺に笑いかけてくれた。
「それじゃあ、帰ろうか」
彼女は恥ずかしさを隠すようにすぐに廊下を歩き始めた。
俺は嬉しさと共に七瀬先輩の背中を追った。
七瀬先輩は何も言わずに前を歩いていく。
そんな彼女に何を言えばいいのか分からず、俺は話の話題を必死に探す。
ふと、窓の外に浮かぶ綺麗な月が目に映る。
今日は満月のようで、眩い光で暗い空を引き裂いていた。
「七瀬先輩、今日は月が綺麗ですよ」
「はぁ!?」
俺が七瀬先輩に話題を振ると、七瀬先輩は意味が分からず素っ頓狂な声を上げた。
その理由が俺には分からず、驚いて七瀬先輩の顔を見つめる。
「ど、どうかしたんですか?」
「……もしかして、意味が分かってないの?」
「え? どういうことですか?」
それに七瀬先輩は呆れて何も言えないといった様子でそのまま歩き始めてしまった。
「ま、待ってくださいよ。先輩!」
俺はそんな彼女の背中を追いかける。
「あぁ。君のことを誠実だと思っていたのは勘違いだったのかな~」
「えっ!? どういうことですか?」
何か嫌われるようなことをしたのだろうか、不安に駆られた俺は彼女の横に立ち、彼女の顔を見つめる。
しかし、彼女はとても楽しそうな顔をしていて、それを見た俺も心の内が暖かくなっていったのだった。




