第14話:蒼珠妃の異香
青白い陽光が、御簾の向こうに揺れていた。
夏の終わりの光は、どこか冷たい。
その部屋の空気もまた、ひどく冷ややかだった。
「──お前が、“あの香”を調えたと聞いた」
声の主は、蒼珠妃。
若くして妃位に登りつめたとされるが、その顔には薄化粧が濃く、
まなざしには微笑すら宿していない。
芙蓉は静かに頭を下げた。
「はい。南医寮の調香補佐として、宴の香を再調合した者でございます」
「……あの香は、よかった」
ふいに、蒼珠妃は目を細めた。
まるで心のどこかが遠くへ飛んでいるようだった。
「一瞬だけ、すべてが霞んで、楽になれた。
香とは、そういうものよね……痛みや不安、嫉妬も、忘れさせてくれる」
芙蓉は返答を保留した。
確かに、香にはそうした作用もある。
だが、香に逃げ込むのは、危うい。
「妃さま、どのような香をお求めでしょうか?」
芙蓉は話題を切り替えるように訊いた。
蒼珠妃は、侍女の手から小瓶を受け取る。
「これは……かつて、父が使っていた香。今は失われた調合なの。
この香を、再び再現してほしいの」
芙蓉は瓶を開け、鼻先にかすかに寄せた。
次の瞬間、わずかに眉をひそめた。
──妙な香り。
上品な白檀に似てはいる。だが、奥に潜むのは“華の香”ではない。
薬草にも似た、冷たい金属のような刺激。
(……毒性成分? いや、それとも……)
「いかがかしら?」
「……香材が非常に古いため、成分が変質している可能性がございます。
精密に再現するには、少々お時間をいただければ」
「構わないわ。私は、待つのは得意」
蒼珠妃は微笑んだ。
それは美しい笑みだった。
だが、芙蓉にはどこか、獣が牙を隠す瞬間のように見えた。
「──蒼珠妃が、香を?」
蓮生は驚きと警戒の混じった顔を見せた。
「しかも、奇妙な調合を望んでいるの。古い成分の一部は、鎮静ではなく“抑制”系だった。
つまり……意識を鈍らせる、ある種の“服従香”」
「誰かに使うつもりか? それとも、自分に?」
「そこが分からない。でも、父の香だと彼女は言っていた……
つまり“記憶の香”でもある。記憶と服従、矛盾しているようで、どちらも逃避の香気」
芙蓉は帳面に、その成分を書き出しながら言った。
「……この香が完成したとき、何が起きるのか。
私は、その前に真相に辿りつかないといけない気がするの」
蒼珠妃の香──
それは、過去を呼び戻す香であり、未来を縛る香でもあるのかもしれなかった。
その夜。
香庫の奥で、芙蓉は瓶を手に取った。
蒼珠妃の香と、薫煌が用いた香。
配合は異なるが、共通する成分がひとつ──「青藤花」。
(やっぱり……同じ系譜の香。蒼珠妃と、宴の混乱。繋がってる……)
そして、ふと。
芙蓉は香庫の棚の奥に、ひとつだけ“異質な香木”が混じっていることに気づいた。
それは、誰も使っていないはずの香──
禁制指定に近い、“神経混濁香”。
「誰がこんなものを……」
香の調達記録にも、記載はなかった。
つまり、“帳簿外の香”。
──香が嘘をつかないなら、
帳簿が嘘をついている。
芙蓉は、今度こそ確信した。
この香の先に、事件の“本当の始まり”があると。