第13話:香宦の誤算
香庫の空気は重たかった。
それは香木の香りゆえではない。
睨み合うふたりの間に張り詰めた沈黙が、空気を濃密にしていた。
「……なぜ、ここにいる」
薫煌が絞り出すように言う。
だが、その声に動揺は隠せなかった。
「薫宦さま。宴の夜、あなたが香を届けたのではありませんか?」
芙蓉の問いに、薫煌は眉根を寄せた。
「証拠は?」
「香です」
芙蓉は小さな袋を取り出した。
それは、香庫から見つかった“すり替え前”の香材だった。
「星華草と青藤花、それにごく微量の鎮息香──。混ぜ合わせれば、あの夜の香と同じ香気になります。
この調合は藍青さんの作風とは違います。あなたの調香痕の特徴と一致する」
「……それだけで?」
「それだけではありません。宴の日、あなたは香宦としての当番から外れていた。
本来であれば香を運ぶ権限すらない。それなのに、あなたの衣には宴会場特有の“香雲粉”が付着していた」
薫煌の目が細まる。
「よく見ているな……」
「香を扱う人は香に裏切られます。どれほど隠そうとしても、香気は残りますから」
芙蓉は一歩踏み出した。
「なぜ、そんな危険なことを? 女官の発作は、死にもつながりかねなかった」
「それは……」
薫煌は口をつぐんだ。だが、次に漏れた声は、驚くほど静かだった。
「──命令だった」
薫煌が語ったのは、宮中に渦巻く“清掃令”の前段であった。
「ある妃付きの内官から、“宴の最中に小さな騒ぎを起こせ”と指示を受けた。
発作を起こすのは無名の女官でよく、混乱さえあればよい、と」
「混乱の目的は?」
「妃がある人物と“密会”していたことを、帳消しにするためだ。
宴のどさくさで監視の目を逸らす、それだけの話……のはずだった」
「けれど、あなたは計画を遂行した」
芙蓉の声に、薫煌は目を伏せた。
「私は……必要とされるなら、何でもやると思っていた。後宮で生き延びるには、それしかないと……」
芙蓉はゆっくりと首を振った。
「香を使って命を弄ぶのは、どれだけ言い訳を重ねても許されません。
あなたが必要とされたのは、“香”ではなく、“従順さ”です。
でも私は、香を信じたい。人を騙す道具じゃなく、人を癒すものとして」
その言葉に、薫煌はわずかに目を見開いた。
「……あのときの小女は、やはり……」
「“香宦試験”で香を嗅ぎ分けて脱落者を救った“名もなき女童”──それが私だったとしても、何の意味もありません。
ただ、私はあのときも今も、香の真実を見ていたいだけです」
その言葉に、薫煌は観念したようにうなだれた。
数日後。
南医寮に戻った芙蓉は、帳簿の書き直し作業に追われていた。
「……一件落着、か」
蓮生が椅子に腰掛けると、芙蓉は苦笑した。
「ようやくです。でも、まだ“誰が薫煌に命じたか”は不明のままです」
「妃付きの内官──それが誰か突き止めない限り、同じことは繰り返される」
芙蓉は静かに頷く。
だが、その表情に陰りはなかった。
香は嘘をつかない。
香りは真実の証人である。
芙蓉は今日もまた、香を見つめていた。




