第12話:隠された香調合
南医寮の奥。
香薬を保管する石棚の扉が、音もなく閉じられるのを、芙蓉は棚の影から息を殺して見ていた。
(やはり、来た……)
静かに歩み去るのは、藍青だった。
彼女の手には、帳簿に記されていない調合箱がひとつ。
──それは、数日前に宴で焚かれた香と酷似した匂いを放っていた。
芙蓉は無意識に指先を口元に添え、呼吸を整える。
(宴の夜、香が変わったのは、偶然なんかじゃない)
翌朝、芙蓉は蓮生と共に南医寮の香薬棚を訪れていた。
「この棚、帳簿には“禁調香”と記されています。普段は施錠されているはずなのに、鍵は……」
芙蓉が棚を指さすと、蓮生は黙って鍵穴を覗き込み、微かに眉をひそめた。
「削り痕。細工されたな」
「やはり。しかも使われた香は“蓮沈香”が主成分。通常なら精神を鎮める香……でも、ある配合を加えると──」
「錯覚と痙攣を引き起こす、か」
蓮生の言葉に、芙蓉は小さく頷いた。
(宴の夜、あの香に触れた女官が取り乱して倒れたのも、そういうこと……)
「つまり、あれは偶然の事故じゃない。誰かが意図的に“発作”を引き起こさせた」
「狙いは?」
「……混乱。証言の曖昧化。もしくは、もっと別の──」
そのとき、外で騒がしい声が響いた。
「藍青が、捕まった?」
夕刻、蓮生が持ち込んだ報告は予想より早かった。
「香薬の不正調合が発覚し、女官長の命で拘束されたらしい。だが──」
「肝心の調合記録は見つかっていない、ですね」
蓮生は無言で頷いた。
芙蓉は机上に並べた文を見つめた。
(記録は消されている。でも、香りは残る)
香は嘘をつかない。
だからこそ、芙蓉はわずかな残香と調合痕から、配合を一つずつ再構築していた。
──蓮沈香、玉桂、星華草、そして……
「あった。『青藤花』。これが決め手だ」
「青藤花? あの、毒性の強い香材か?」
「ええ。少量なら意識を曇らせるが、多ければ痙攣と昏倒を招く。宴の“発作事件”は、これが主因でしょう」
蓮生は目を細めた。
「……つまり、藍青は、誰かの命令でそれを調合した」
「いいえ。私は、藍青さんは“罪を着せられた”と思います」
芙蓉の声には確信があった。
「彼女が扱っていた香に、不自然な分量の“星華草”があった。これは青藤花の苦味を隠すための素材……でも、その比率が乱れていた。香師の藍青さんが、そんなミスをするとは思えません」
「では、誰が香をすり替えたと?」
芙蓉は静かに視線を伏せた。
「宴の“直前”に、香を届けたのは──副香宦・薫煌。
彼は妃付きの香宦でありながら、宴の記録には名前が載っていませんでした」
蓮生が瞠目する。
「名を隠した? なぜ……」
「それを探るには、直接本人に問いましょう」
芙蓉は、静かに立ち上がった。
その夜。
薄暗い香庫の奥で、芙蓉は再び、影に身を潜めていた。
(香をすり替えた者が、もう一度動くはず)
すると、扉が軋む音がした。
そして、男の手が伸び、香材の箱を──
「そこまでです」
芙蓉の声が、闇を裂いた。
振り返った男の顔は、紛れもなく──薫煌だった。