第208話 砂海に渇く 後編
父親には“女が泣いて謝る時は注意しろ”とよく言われたものだ。しかし注意した本人が母の涙に負けて、高い宝石をいくつも買わされていた。
ロズウェル自身も一度その涙に騙され、交際相手との婚約寸前で危うく難を逃れた。さすがに遊びで付き合った相手と、二十歳前に結婚しようと考えてはいなかった。
エルフでもきっと同じことだ。女の涙は注意しなくてはいけない。
そんな警戒心を胸に、ロズウェルはニッコリと微笑んだ。
「泣かなくていいから。ほら、ちゃんと説明して。じゃないとボクもブルー将軍に尋ねなければならなくなるし、皇帝陛下にも報告しなくちゃいけなくなる。それは嫌だよね?」
モーリは涙のない泣き顔で、少し疑るかのように顎をクッと上げて、ロズウェルを睨め上げた。
「秘密にしてもらえるの?」
「場合による」
「え、でも今、報告しないって言ったよね?」
「言わなければ絶対報告するけれど、もし話してくれて、ボクが問題なしと判断したら報告はしない」
「なんかズルい、それ」
少女は口を尖らせた。小暗い中でも光る草色の瞳は、まるで猫のようだ。だからズルいと言われる理不尽さすら、つい正当であると錯覚しそうになった。
「じゃあこうしよう。皇帝が困るような悪さじゃなければ秘密にしておいてあげる。まさかそういうことじゃないんでしょ?」
「まさかぁ。そんな悪いことしないもん私。ねぇ?」
モーリの隣に立つ長髪の娘は、ここぞとばかり力強く頷いて友人に加勢した。
「なら話して?」
「分かったわよ。でもそんなに悪いことをしてるわけじゃないの、本当よ。私ね、姉さんがあんなことになるちょっと前に軍に入ったの。けど使い魔は持ってなかったから、最初はただの雑用係だったけど。そしたら姉さんがあんなことになって、しかもセバが、あ、セバは長老の孫ね、そのセバが姉さんがククリと繋がっていたとか言い始めて、もう頭来ちゃって絶対軍なんて辞めてやるって思って、ブルーにも辞めた方がいいって言われたんだけど、この任務の隊長に指名されたマノンが姉さんの汚名を晴らすなら一緒にククリを倒そうって誘ってくれて、まあ、それも有りかなって。だから姉さんの使い魔を借りることにしたのよ。もちろん姉さんのことは心配だったけど、ブルーがいるから。ブルーは昔から姉さんのことが好きだったのを、私知ってたし。でも姉さんは全然その気がなかったみたい」
前置きが長すぎる。
本題に入る頃には、夜が更けるのではないかという長さだ。
「もうちょっと簡素に話をまとめてくれるかな?」
「だってちゃんと事情を最初から話さないと、私が悪者みたいになるじゃない」
「いや、まあ、そうだけど……」
「それにね、姉さんの使い魔をずっと放置しておけなかいのよ。主が五日に一度は会わないと、契約魔法の効果が切れてしまうのよ。それは掟で禁じられてて、もしできないのなら葬るしかなくなるの」
「へぇ……」
このまま使い魔の話が続くのだろうか。いつになったらオーブの話になるんだろうか。その道のりは帝都から鉱山よりも遙かに遠いように思われて、ロズウェルは少々焦りを感じ始めていた。
「だから妹の私が仮の主として預かることになったの。血縁しか一時預かりできないから。それで仮でも主となったわけだから、あの子と早く馴染むためにここはちょうどいいかなって。まさか帝都の周りで乗り回すわけにもいかないでしょ? しかも隊長のマノンは全員同姓を連れて行くって決めて、指名したのが子供の頃から知ってる友達ばかりで、みんな私をフォローしてくれるって言ってくれたの。だから……」
「あ! はい! 分かった! 使い魔の事情はとってもよく! で、オーブとそれがどう繋がる?」
「母さんがね、とても心配してたの。うちは父さんがあの“六人の勇士”の一人だから」
「“六人の勇士”?」
「去年の惨事に死んだ六人のラシアールがそう呼ばれてるの、知らないの?」
「あ、ごめん。勉強不足で……」
今度は父親の話でも始めるだろうかと、戦々恐々とした気持ちで次の言葉を待つ。もしそうなったらもっと強い口調で命令しよう。そんな思いで娘の口元をジッと眺めていた。
「父さんが死んで、姉さんもあんなことになって、次は私までなにかあったらって母さんが心配してるのよ。でも姉さんの使い魔は元々父さんのものだったし、だから私が守らないとダメなの」
健気な娘だと感心するのは後日してやるから、いい加減に早く話せ!
その気持ちを必死に抑え、核心へと話を繋げた。
「それで母親と連絡を取り合っていたのか、ここの水晶を使って?」
「そうなの……あっ、違う、そうじゃないの。水晶って言ってもこれよ」
モーリは赤紫色をした軍服の胸ポケットから、親指ほどの大きさの丸い真鍮ケースを取り出した。高価なものではなさそうだが、紛れもなく指輪ケースだ。そのケースの留め金を外し、逆さにして手のひらへとなにかを落とした。
キラリと光るゴミのような小さい三つ。一つは歪な薄っぺらの欠片、二つは所々が輝く粒だ。確かにとても水晶と呼べるものではない。
「これがオーブ……?」
少し驚きつつロズウェルはエルフの手の中を覗き込んだ。
「そうよ。これ、集石所で見つけたの」
「集石所?」
「掘った時に出てきた石を置いておく場所。鉱山の裏の方にあるよ。そこに落ちてる石に、こんな感じのゴミが紛れてるの。こんな小さいのは宝石にもできないし、宝玉魔法用のオーブにもできないけど、二言三言だけの声なら込められる。さっきククリやジーマみたいにラシアールはできないって言ってたけど、そんなことないのよ。ただあいつらみたいに写像投影できないだけで。ラシアールは闇系の使い手だから、オーブを使った光魔法は苦手なのは仕方ないでしょ? あ、でもこんな小さな欠片じゃ、あいつらだって強い魔力は込められないわ」
「試しに一つ聞かせて」
「いいわよ」
少女は薄っぺらな一つを反対の手に持ち替えて、それをジッと眺め始めた。
すぐに破片は光だし、ポソポソと呟くような女性の声が聞こえてくる。
“モーリ、帝都がククリの使い魔に襲われたわ。アーニャが危なかったけれど、無事だったから安心して。クライスという人間がずっと守ってくれたとナレンが教えてくれたよ”
疑う余地がないほど完璧な立証で、“どう?”というふうにエルフがロズウェルを見る。散々語られて、やっと知りたかった部分までたどり着いた。長かった。
「黙っていてくれるわよね?」
「それを決めるのは、ボクの立場じゃないな」
「ズルい!! 嘘つき!!」
「これだから人間は!!」
静かだったもう一人も加わって、広い空間に甲高い声が響き渡る。
「いや、ちょっと、待って」
「嘘つきは許さないから!!」
迫ってきたエルフたちに圧倒され、ロズウェルは逃げずにいられなかった。
「や、ちょっと待って」
「女の子から逃げるなんて、情けないわ、卑怯者!」
エルフは魔法が使える。
エルフは魔法が使える。
言うなれば体が武器なのだ。これは重要なポイントだ。情けないわけじゃない。だから隣でのんびりしてる木偶の坊の陰に隠れるのは当然のことだ。
「落ち着いて」
「話さないって言ったわよね!?」
「秘密にしてる可能性があると……」
「なにそれ、キモっ!!」
「キモって……」
すると、それまで黙っていた男が突如口を挟んだ。
「これだけ騒いでいるのに、憲兵が一向に出てこないな?」
「あいつら、全然使えないから。きっと小うるさいメルタがいなくて、羽を伸ばしてるんでしょ。しかもメルタは陸軍と私たちが外を守ってるから、もし侵入されたら軍のせいする気満々だし。ギルド、マジで使えない」
さすがにそこまであからさまに悪口を言われては、ギルドの一員として黙ってはいられない。むろんギルドが素晴らしいなんてこれっぽっちも思ってはいないが、アールステットの前で馬鹿にされるのは、ロズウェルにはどうにも我慢ができなかった。
「そういえば陸軍の兵士が、君達に一度ちょっかい出してきたことがあったんだって?」
「一度どころか四回ぐらいあるわ」
「あたし、六回」
「こんなところで張り合うつもり?」
「マノンは八回って言ってたわよ」
「ちょっと! まるで私が……」
「分かった、分かったから。つまり一回じゃないってことだね?」
「「そうよ!!」」
一瞬で女性不信になりかねないほど激しい返事が戻ってきた。
(ど、同様するな。ボクの女性遍歴が今ものを言う時が……)
「我々は調査したことを皇帝にご報告する義務がある。むろんギルドの怠慢や、陸軍の不始末も含めて。そうだな、クライス?」
「え、ええ……」
「陛下のご性格を考えれば、彼女たちが一番罪がない。念のために私からも口添えをしておこう」
アールステットの言葉に、エルフたちの顔が輝きだした。
「ホントに? 信じちゃっていい?」
「ギルドでも陸軍でもない私が、嘘をつく理由はないな」
「そうか、そうよね!」
「もう貴族にしておくには勿体ないぐらい公平な意見だわ」
「分かったなら、もう行き給え。警備が手薄になっては困る」
「「了解です!」」
嬉々として建物から出ていくエルフたちを見送ったのち、ロズウェルは呆れた気分でアールステットの横顔を睨み付けた。それに気づいた相手は冷ややかな視線を返してきた。
「なにか?」
「貴方は思ったより策士ですね」
「あのままではいつまで経っても終わらないからな。女のおしゃべりは嫌いだ」
「まあ、ボクも苦手ですが」
「まだ調べることがあるんだろう? 先を急ごう」
フウッとため息を一つ吐き出して、自分のいる場所を確認する余裕がロズウェルの中にやっと生まれた。とは言っても、ただ四角いだけの建物内部だ。四方の壁には合わせて十二の窓がある。西から差し込む光は若干赤身を帯びて、そろそろ夕闇が迫っていることを示していた。
壁には楼台もいくつか付いている。半分以上溶けたロウソクたちがいつ付けられるのか、だれが付けるのか心配になるほど、人の気配は感じなかった。
「鉱山って言うから、てっきり山かと思いましたよ」
「山は山でも砂山だな」
入口の反対側の壁近くに、細くて急な下り階段があるのは見えていた。その近くにある窓から、いつの間にか移動していたアールステットが外を眺めていた。
渋々と彼の方へと歩いて行く。足元は粗雑に作られた煉瓦が並べられ、ところどころ割れたり欠けたりで歩きにくいことこの上なかった。
アールステットの隣に並んで、窓を覗き見る。彼が言った通りこんもりとした砂の山がそこに見えていた。
「この階段を降りるとあの下に繋がってるんでしょうか?」
「たぶんそうだろう」
確かに砂の山を真下に掘り進めるよりは、理に適っているし、砂の侵入も防げるだろう。この工事を数百年前に行ったとすれば、途方もない労力が必要だっただろうし、それらすべてをククリが行ったとしたら、人間が奪い取るのは少々の罪悪感は覚えないわけでもなかった。
「下に降りたら、憲兵の仕事ぶりが見られるといいな……」
今ロズウェルが一番望んでいることはそれだけだった。
それから会話をすることもなく、ずいぶん深い場所まで降りていった。階段の丈夫は分厚い板、途中からは段々に削った石だった。有り難いことに鉄製の手すりが取り付けられている。それが有り難いと感じること自体がおかしいと思わないほど、奈落の底は冷たかった。
外光が入ってきていた上と違って、坑道はさらに薄暗い。ところどころに楼台はあるものの、半分近くはロウソクが芯が燃え尽きて消えていた。
「こんなこともあろうかと小型のランプを持ってきたのは、さすがボク」
いつもの自慢も今日は相方の反応が薄すぎて、虚しく空虚に響く。しかも坑道内に入っても憲兵の姿は見つからず。もしかしたらなにかあって、全員が抹殺されたのではないかと思いつつ、書き写した地図を頼りにソロソロと歩を進めると、ようやく一人が扉の前でうずくまっていた。
「お、おい、大丈夫か!?」
心配して近づくも、体臭から放たれる匂いに酩酊しているとすぐ気づいて言葉を失った。
恐る恐る扉を開け放つ。すると古びたテーブルに突っ伏してる兵士が二人、床で仰向けに倒れている兵士が一人。酒瓶が三本転がっている様子がすべてを物語っていた。
「これはいくらなんでも羽目を外しすぎ」
「陰謀……」
「え!?」
「……という可能性も有り得る」
「確かに。なら上にいる陸軍に連絡して、早急に対処してもらわないと。もし侵入者が現れたらどんでもないことになりそう」
「私は構わないが、ギルドとしてそれでいいのか?」
「うっ……」
全然良くない。
こんな場所までやってきて、酔っ払っている連中を咎めもせず、陸軍に援助を頼むのは立場としてもプライドとしても許されることではなさそうだった。
「まずは憲兵長を探しましょうか……」
意識を失っている連中に上官用の制服がないことを確認し、ロズウェルは先だって部屋をでた。背後でクスッと鼻で笑う声が聞こえてきたが、むろん無視して。
さらに坑道を進み、一度行き止まりに迷って、二枚目の扉が現れた。中から聞こえてくる野太い声に驚愕しつつ、意を決してそれを明ければ、野獣のような巨漢八人に取り囲まれた。彼らもやはり酒を飲んでいる。
(飲酒禁止命令は絶対出してもらうぞ!)
しかしその希望が叶うまでの道のりはあまりにも遠すぎた。
ただ事情を尋ねたかっただけなのに、なんだかんだと言いくるめられ、中へと強引に連れ込まれ、彼らが作業夫だと気づいた頃にはすでに酒の入ったコップが目の前へと置かれていた。
ここは貴族という特権階級を使い、隣にいる木偶の坊がなんとかしてくれるだろうというロズウェルの甘い期待を裏切り、無愛想な男が出された酒を一気に飲み干す。
「まさかオレらの酒が飲めないって言うじゃないだろうな?」
「それはええと……」
どうしてこうなった!?
だが陰謀説を唱えられたせいで、逆らった瞬間に屈強な八人が襲いかかってくる想像が拭えなかった。ここはなんとしてでもやり過ごし、急いで上に戻って軍兵たちに成敗してもらうより方法が思いつかない。
(ええい、ままよ!)
一大決心でロズウェルはカップを手に取り、一口ペロッと舐めてみたものの、あまりの強さにそれ以上は液体を口の中へと入れることを、全身が拒み始めた。
「どうした、あんちゃん?」
「ボクは……」
その時、カップを持つ方の手首がだれかによって掴まれていた。
見上げれば、冷ややかに見下ろす異色眼。もうだれが敵でだれが味方なのか。それすら分からなくなるほど混乱し、ロズウェルは引きつる顔を感じつつ呆然と相手を見上げた。
「彼の分も私が飲もう。だが貴族にそこまでさせるのだから、当然それなりの覚悟はあるんだろうな?」
さすが暗殺者の家系だ。鋭い眼光と抑揚のない声は、屈強な男たちを縮こませるに十分な迫力がある。しかも強い酒をあおったばかりだというのに、その気配を微塵も感じさせない。もしかしたら元ハンターである彼らだからこそ、アールステットから感じ取るなにかに反応したのかもしれないと、ロズウェルは傍らで状況を見守っていた。
言葉通り、アールステットはロズウェルの酒を飲み干し、内なる怒りを放出するかのようにテーブルへとカップを叩きつける。その音に作業夫たちの肩がびくりと揺れた。酔いも半分以上冷めたという白けた表情は、ロズウェルも内心小気味が良かった。
「わ、分かりましたよ。でも話すことなんて、何もねぇッスよ。支部長のメルタがいない留守にオレらも憲兵どもも羽目を外してるだけで。あいつ、どうにもいけ好かねぇ野郎でね。オレらはともかくとして、憲兵どもはメシもろくに食わせてもらえてねぇらしい。憲兵長なんてここに来てゲッソリ痩せ細っちまった」
「食料が足りてないのか?」
「いやいや、そうじゃなく。きっちり水も食い物も五日に一度運ばれてきますぜ。オレらと陸軍の分はオアシスに運び込んでるようですが、奴らのは……。なにしろ水や野菜が二日しか保たねぇもんだから、あっという間に干からびるんでね」
「食べ物はともかく、水がなくなれば死ぬだろう?」
「なんとかって子爵の城に一部保管してて、水と食べ物を与える代わりに、こき使ってるらしいッスよ。詳しくは知らねぇッスけどね」
絵に描いたような癒着に、ロズウェルは呆れてものが言えなくなった。
「陸軍はそのことを知ってるのか?」
「見て見ぬフリ。自分らがあのメルタとやり合うのが嫌なのか、ギルドとは関わりたくないと思ってるのか知らねぇッスけどね」
「なるほど……」
皇帝が懸念していた通りだった。たった半年ばかりの間に、人間の醜悪さが滲み出る場所と化しているとはなんともおぞましい。早急に帝都に戻り、皇帝に厳重処分を訴えるべきだとロズウェルは心に誓った。
「で、あんたら、あの爺さんにも会いに行くんだろ?」
「爺さんって、ククリの? まあ、一応。ところで皆さんは今日の仕事はどうしたんです?」
「仕事? この二ヶ月はなんもしてねぇよ。掘削制限が出てるとかで。まあ、なんもしなくても金は払ってもらえるし、こうして酒もたまには支給されるんで文句はねぇけどな。水と違って酒は枯れねぇから」
「掘削制限は出てても、最低限の採掘量は要請されてるはずだけど」
「あんな量なら、化け物爺さん一人で十分だぜ」
口を歪めて笑う男たちもまた、化け物と呼ぶに相応しい形相だった。
それから数分後。ロズウェルとアールステットは教えられた通り、坑道内を奥へと進んでいた。あれだけ強い酒を二杯も飲んだというのに、相方は平気な顔をして頼もしい限りだ。どんな化け物が現れるか知らないが、これならなんとかなるかもしれないと楽観的な気分でロズウェルは男の横を歩いていた。
砂漠の下とは思えないほど肌寒い。露出した岩肌には水が覆っていて、ちらつくランプの炎を反射させていた。
“ククリの爺さんは奥の方にいるッスよ。つっても大した量は採れないッスけどね。エルフのくせにノミとトンカチ使ってやがるから”
あの惨事のあとも逃げもせず鉱山内に留まって、黙々と掘り続けているという。反抗的なこともせず、掘ったものはすべて人間に渡す上に坑道内部についても詳しくて、尋ねれば教えてくれるというので、捕虜という形で放置しているらしい。
「ククリが一人居るとは聞いてはいましたが、なんか厄介そうですね?」
先ほどのこともあって多少の感謝はしているから、ロズウェルはいつもよりも穏やかに話しかけた。だが隣の男は足音すら感じさせないほど、存在が消えかかっていた。
「酒のことで怒ってます?」
「いや、別に」
返ってきた声はあまりにも不機嫌だ。
もう関わるのは止めよう。
そう心に決めて、しばし歩くと穴はどんどん狭くなってきて、直立して歩くのも窮屈になってきた。アールステットと袖が触れ合う。それだけで刺されそうで気が気ではなかった。
そんな状況に耐えかね、もう諦めて引き返そうかと思った頃、奥の方に淡い明かりが見えてきた。うずくまるような小さな影もある。
「だれじゃ!?」
掠れた声は確かに化け物のよう。けれどそれに怯んでふたたびアールステットを盾と使えば、彼すら襲ってきそうで、ロズウェルは渋々と前に出た。
老人の顔じゅうに刻まれた皺は、優に百歳は超えていると分かるほど深くて多い。身に纏っている黒いローブはボロボロで、裾の方が避けていた。穴が先ほど若々しいエルフの娘たちを見たあとだけに、同じエルフだとは思えないほど老獪だ。
「皇帝陛下の勅令で、鉱山を調べに来た者ですよ」
「そりゃご苦労なことじゃ。だが儂を調べてもなんも知らぬ」
「お一人でここに留まっていらっしゃると聞きましたが?」
「儂は、人間もエルフも大嫌いじゃ。石達と毎日語り合えればそれでいいのじゃ」
(化け物って言うより変態だよ)
もう調べるべきことはほぼ調べたし、最後にこのエルフから必要な情報を得たらすぐに帝都に戻ろう。そもそもボクはこういう辺鄙な場所は似合わないのだ。清潔で整然とした場所こそ、ボクがいるべき安息。土に混じった匂いは息苦しさを覚えるほど気持ち悪く、実際に息苦しいほど空気も少ないだろう。
「水晶はすべてギルドへ渡しているんですよね?」
「儂が泥棒をしてるとでも言いたいのか?」
「いえ、そういう意味ではなく確認です。最近ここから無許可で大量の水晶が持ち出された疑いがあるので、確認したかっただけです」
「それを泥棒扱いと言うんじゃ。言っておくが、ここに来るのはギルドの連中しかおらんぞ。そのことはあのデカい連中が知ってるだろう」
「らしいですね。なので確認ですよ」
「もし儂がお前さんの立場なら、あの連中を調べるじゃろうさ。たまにしかしない仕事のあとは必ず飲んだくれている。だがその酒をどうやって手に入れたのかのぉ。支給品に入っているのかもしれんが、鉱山の仕事に酒が必要なのか、儂には分からぬ」
ロズウェルがだいたい予想していた通りの答えだった。あとは鉱山支部長メルタを調べれるだけでいい。そこからミューンビラーかアルカレスに辿り着けば、皇帝が彼らを制裁する日も遠くはないだろう。
その時___。
背後で激しくなにかがぶつかり合う音がした。
「今の音は……!?」
「塞がれたんじゃよ。奴らは夜になると儂を閉じ込めるんじゃ」
「え、でもボクらがいるのに!?」
「気づいているとは思うが、ギルドの連中と作業夫どもは同じ穴の狢ぞ」
「逃げ道はないんですか?」
「あることはあるが、その状態じゃ無理じゃのぉ」
皺くちゃの指がロズウェルの背後を示す。
振り返ってみると、果たしてゴツゴツとした地面に座り込み、濡れた穴壁に寄りかかる男がそこにいた。
「子爵!? どうしました!?」
もしやあの酒に毒でも入っていたのかと心配する矢先、一瞬にして手首を掴まれ、強引に引き寄せられてしまった。泥酔してても、さすがは暗殺者の家系。
「うわっ!! な、なに!?」
「好きだ……」
「はぁ!? って、まさか酔っ払っ……」
「好きだ……」
絶体絶命はそろそろ定期だ。




