第207話 砂海に渇く 前編
男はテーブルに木製のコップを二つ置いた。一つはロズウェルの前、もう一つはアールステットの前に。そのコップに琥珀色の液体が注がれていく。独特の香りに鼻と口がヒクついてしまう。
「マジ……?」
言うともなしに呟くロズウェルに、男は歪んだ笑みを浮かべた。
「まあ、グッとやってくれや」
細かいウェーブがある茶色の髪を肩まで垂らした男である。手入れなど一度もしたことがないだろう薄汚れた長髪だ。同じ色の髭の中に血色の悪い唇が埋もれていた。胴も腕もロズウェルのそれより三倍ほど太いだろう。しかし浅黒くはない。むしろ白い方だ。
その男と似たり寄ったりの者たちが他に五人ほどいる。全員の視線はコップを置かれた二人へと集まっていた。
どうしたもんかと思い悩み、ロズウェルはチラチラとアールステットを盗み見る。
すると、おもむろにコップへと手を伸ばした彼は、なみなみと注がれた琥珀色の液体を一気に飲み干したのである。
(わっ、すごっ)
驚愕するロズウェルを尻目に、男達は手を叩いてやんややんやとはやし立てる。
「あんた、見かけによらず男らしい。ほら、そっちのあんちゃんも」
「いや、ボクは」
「まさかオレらの酒が飲めないって言うじゃないだろうな?」
「それはええと……」
果実酒以外の酒を一度も飲んだことがない。その果実酒すらたしなむ程度だ。しかも今迫られているのは果実酒の数倍は強そうな酒。
(こんなのを飲んだら、一瞬で倒れる絶対)
しかしそれは躊躇なく飲み干した男は、なんともないといった様子でコップをテーブルへと置くと、次はお前の番だとでも言うようにロズウェルを見返した_____。
この状況になった数時間前。
ロズウェル達を乗せた馬車は、砂漠にある唯一の道を走っていた。この道は水晶鉱山が発見された時期に、近郊の町・鉱山・唯一あるオアシスの三箇所を繋げるために作られたのだが、数年に一度は土を盛らないとすぐに砂漠と同化してしまう。もうその時期が来ているのか、馬車の車輪が何度も砂で滑り、馬もかなり走りにくそうだった。
本当はすぐに砂漠へ入るつもりはなかった。今日は砂漠から一番近いサイコスキ子爵領の城で一泊し、明朝鉱山へ行く予定だった。しかしあの死んだ、いや殺した馬がロズウェルに予定の変更を余儀なくさせてしまった。
(この馬は間違いなく個人所有の馬。もしかしたらボク達の先を行こうとしているかもしれない。となると……)
鉱山にいく目的はただの視察ということになっている。だから極秘ではない。ただし昨夜命令を受けて今朝出立したので、上司である議長・副議長には書面にて知らせただけだ。アールステットも同じく今朝オーライン伯爵に書簡で伝達を行ったという。昨夜のうちにディンケル将軍に知らせたのはバルガンのみ。
(なにか感づいたかな?)
可能性はある。そしてそんなことをしそうな連中はアルカレス副議長とその仲間達だ。
(慌てて口裏合わせか隠蔽工作をしようとしてる?)
そんな考えを伝える前に、馬を刺し殺した男は視線を砂漠の方へと向けてこう呟いた。
「予定は変更した方が良さそうだ」
すぐさま行先を変更し、右に左に大きく揺れる馬車に耐えながら鉱山へと突き進んでいた。夕方というほどの時間ではないけれど、着実に夜が迫ってきている。不思議なことに砂漠内は今のところ暑くも寒くもないが、それでも鉱山の穴で一夜を過ごしたくはない。だから少しでも尻尾を掴めるなにかを見つけたらすぐに、サイコスキ子爵領に移動したかった。
「子爵はサイコスキ子爵をご存知ですか?」
「いや」
「夜中に行って気持ちよく泊めてくれる人だと良いですね」
「調べてこなかったのか?」
「調べましたよ。でもこれと言って悪い噂は特に」
領地とは名ばかりの小さな土地に、先祖代々住み着いている貴族だ。領民の数も百人にも満たないだろう。弱小貴族と言われるそんな連中はこの帝国には百人以上いる。もっともその事実をロズウェルが知ったのは、今の役職に就いてからだった。
(貴族が三百人以上もいるとは思わなかった。下手したらうちの従業員より領民が少ないんじゃないかって領地もあるし。去年の惨事で二十ぐらい絶家したけど、まだちょっと多すぎるかもしれない。皇帝としては支配する数は少ない方が楽だよね)
そう考えてから、自分も皇帝の犬になったものだと可笑しくなってクスリと笑ってしまった。
「楽しそうだな」
「そんなことはないです」
緩くなった顔を引き締めて、ふたたび思念の中へと沈む。いくら天才だからと言って、短期間に皇帝の期待に応えられるほどの成果があるか、多少の不安があった。
「サイコスキ子爵は四ヶ月前に帝都留置命令に背いて、勝手に領地に帰った中の一人です。皇帝とセシャール人が鉱山に行った時に接待して許されました。子爵以外の方々は罰として三ヶ月の増税を課せられてます」
「年齢は?」
「確か四十八で未婚、兄弟なし」
マヌハンヌス教国は家父長制であり、男系男子の継承が絶対だ。それでも帝国は緩い方で父方の姉妹の子供なら許されている。それすらいない場合、サイコスキ子爵家も現当主がこのまま子供を作らず亡くなれば、家系断絶になる。
「だから野心とかあるタイプじゃないと思いますよ。もしあるならとっくの昔に政略結婚などをしていたはずですし」
貴族であるアールステットが反論をしなかったので、ロズウェルは同意と見なした。
昔の人は良く言ったものだ、“知恵に見合うだけの野望を持て”と。自分のような知恵者ですらこんなに苦労しているのだから、変な向上心で暗躍しようとすれば、以前ならイワノフに、今ならミューンビラーやアラカレスのような人間に食われるのは当たり前だ。
(つまらない見栄は身を滅ぼすだけさ)
そう考えてから、自分自身への戒めに思えてロズウェルは顔をゆがめた。
「気分でも悪くなったか?」
そんなロズウェルを見たアールステットは、激しく揺れる馬車にそう思ったらしい。さりげない様子で伸ばされた手を、咄嗟に身を引いた。
「だ、大丈夫ですから、気にしないでください!」
「しかし具合が悪そうだ」
「ちょっと嫌なことを考えただけです」
「君は考えていることがすぐ顔に出るようだ」
「そんなことないですよ。貴方の前だけです」
まるで空気のように存在感が薄いから……。
そう思ったら余計に気が滅入ってしまった。
(うぅ、完全にこの人に慣れてしまっている)
そうこうしているうちに鉱山の入口に到着した。入口と言っても砂地に穴がぽっかり空いているわけではなく、煉瓦と石で作られてた建物がそれだ。かなり大きな建物だが装飾などは一切なく、ただの四角い箱に鉄製の二枚扉が付いている代物だった。
その前に停まった馬車から砂地に降りるロズウェルたちを、警備に当たっている陸軍の部隊長が出迎えた。
バルガンの元上官だという男で、初めは妙に恐縮している雰囲気だったものの、バルガンが偉ぶった態度を見せないのをいいことに、次第に図々しい物言いになっていった。
「確か到着予定は明日でしたよね?」
「予定変更です」
「それは困りましたな」
「なにがです?」
「ギルドの鉱山支部長が不在なんですよ」
途端に厳つい二人の軍人は横で聞いていたロズウェルの方を向き、どうするんだと言わんばかりの視線を送ってきた。
「鉱山支部長はメルタ氏でしたね。彼は今どこに?」
「むろん皆さんの接待のため、サイコスキ子爵の城に」
「ああ、なるほど。でも別に構わないですよ。警備については貴方に説明をしてもらえればいいですし、内部のことは他のだれかに尋ねますから」
「失礼ですが貴殿は……?」
「挨拶が遅れました。ボクはロズウェル・クライス、この方はイリス・アールステット子爵。ボクと子爵、そしてバルガン司令官は、皇帝陛下付き情報書記官をしています。このたび三人で鉱山の視察をするよう皇帝陛下からご命令を賜ったことは、速達にてお知らせした通りです」
「クライス殿は、想像していたよりお若い」
その評価は嫌いではない。むしろ若いのに優秀だと言われたようで、ロズウェルは気分が良くなってニッコリと微笑んだ。
「とりあえず警備についての説明をよろしくお願いしますね」
説明された警備体制は十分でもなかったが、不足だと指摘するほどでもなかった。
モルパス砂漠は帝国の東に位置し、東西に長い楕円形をしている。この鉱山はその西側にあり、南には唯一のオアシスがある。広さは帝都の約二十倍だ。
二五〇人ほどの兵士では到底足りないのではないかと思えたが、その心配はないとすぐ弁明された。
「警備しているのは鉱山とオアシスだけですから。それも砂漠の外から侵入されるのを注意すれば良いだけです。砂漠では二日も保ちません」
「保たないとは?」
「生きていけないという意味です」
草原に比べて、砂漠が過ごしにくいと思われる理由が見つからず、ロズウェルは首を傾げた。多少は暑いだろうと思っていたがそうでもなかった。
「もしかして夜が寒い?」
「それは多少ありますね。ですが凍えるほどでもないですよ」
「では……」
「水が枯れるんですよ。調べていらっしゃらなかった?」
少々小馬鹿にしたような物言いにイラッとしつつ、首を横に振る。
「モルパス砂漠に関することは極秘資料なので、恥ずかしながら必要最低限のことしか調べてきませんでした、すみません」
「不思議なことに、砂漠内では水が二日で枯れるんですよ。たとえ樽一杯にあったとしても、一滴も無くなってしまうのです」
「でもそれほど暑くないですよね?」
「なので不思議だと。気温は平原と変わりません。夜は多少肌寒くなりますが。平原と砂漠の境目を見ましたか? まるで色違いの布でも重ねてあるかのようにきっちり分かれてる。あの境界線を越えた途端、水が枯れていくのです」
何千年か前の魔法戦争の影響が、まだ残っていることが実感できる話だった。伝説によれば一万年は続くらしいので、少なくてもロズウェルが生きているうちはこの砂漠に草木が生えることはなさそうだ。
「そういえば鉱山にいる方々は、水をどうされてます?」
「オアシスに小さな池がありますので、だいたいはそこから。家数軒分の広さしかないですが、そこだけはなぜか平原と同じように草が生い茂っていますね」
その理由に人知れぬ物語がありそうだが、今となっては知る由もなく。
「警備にはラシアールもいると聞きましたが?」
「ええ、五人ほど。あ、ちょうどこちらに来てますよ、ほらあそこ」
指さされた方向は南の空。そこに二つの黒い影が飛んでいる。どうやらこちらに向かってくてるようで、蟲襲撃を経験したロズウェルを数歩下がらせる脅威となった。
姿形がはっきり見えるほどの距離まで来ると、巨大なトンボもどきと蝶もどきだと判明し、アールステットの背後に隠れるには十分な恐怖に変わる。
「また蟲襲来かよ……」
「なにか言ったか?」
絶対聞こえただろうに、すっとぼけた表情で振り返ったアールステットを無視し、少し先の砂地に着いた魔物二体の背中から飛び下りて、向かってくる二人を遠目に眺める。エルフだということは分かっていたが、どちらも女性である事実がロズウェルを驚かせた。
「女性……ですか……?」
「魔軍からは五人配属されていますが、全員女です」
「そうでしたか」
「魔法が使えるなら、別に女でも構いませんけどね。どんなに鍛えようと、人間より体力も筋力も劣るエルフに、接近戦なんて望んでいないですから」
見るからに強靭な肉体である陸軍指揮官から見れば、確かにそうかもしれない。
(ボクですら、人間として認めてもらえてるか微妙だな……)
やがて近くまで来た女たちは、体格こそ少女のようにか細いが、その目付きは陸軍の指揮官たちに負けず劣らず鋭くて、ロズウェルを恐縮させた。どちらもラシアールらしい黒髪で、片方は長髪、もう片方は首のラインで切りそろえてある。顔立ちは双子かと思うほど良く似ているが、若干長髪の方の小鼻が上向きでコケティッシュに見えなくもない。それぐらいの違いだ。しかも二人とも言葉遣いは子供のように馴れ馴れしかった。
「見慣れない馬車を見たので、念のために様子を見に来たけど?」
「すみません、予定変更をしました」
謝る理由もないのが、ロズウェルについうっかり詫びを口にしてしまった。背後にいる巨大な蟲がそうさせたのかもしれない。
「朝連絡が入った人たち? なんで来たの?」
「皇帝陛下のご命令です」
「へぇ……」
まるで気のない返事。ラシアールにとって皇帝とはそんなものなのか、それとも見た目と同じぐらい幼い少女だからこその感想なのか。
「今、警備体制について聞いていたところです」
「私たち五人は言われたとおり、鉱山とオアシスを見張ってるだけよ」
「でも魔物一匹来たことないよね。モーリ、あんた見た?」
「一度も。私の勘だと、ククリはもう鉱山なんて諦めちゃったと思う」
「あたしもそう思う! あたしたちみたいに魔物を使ってるらしいけど、契約魔法じゃなくてどうせ暗示魔法でしょ。二日もすれば効果切れて逃げられちゃうよね」
「そうそう。だから大した魔物を捕まえられないのよね」
「だから心配しないで早く帝都に帰った方がいいよ。夜は真っ暗になるから」
「君たち、情報書記官であるクライス殿に対して、ちょっと失礼だぞ」
ちょっとどころではなく、ずいぶん失礼だったが。
それはともかくやっと指揮官が口を挟んでくれて、娘たちのおしゃべりが停止した。
「だって」
「ねー」
「いいから警備に戻りなさい」
「分かったわよ。陸軍の命令に従う理由ないけど。その前に水を飲ませて」
返事を待つまでもなく、二人は鉱山内部へ通じる建物の方へと歩いて行った。
残された男たちは若い娘の勢いに気圧されて、しばし無言のまま。一番歳が近いロズウェルですら女性のああいうおしゃべりは苦手だから、他の三人は心の白目を剥いているところだろう。
「ええと、あんな感じですが、警備の方はまったく問題はありません」
「そう……ですか……」
「兵士も作業夫も男ばかりですから、若い娘がいるのは悪いことではないですし」
「その点でなにか問題は起こりませんか?」
「一度ちょっかい出した兵士が丸焦げにされそうになって以来、目立ったトラブルはありませんよ」
「なるほど」
それから警備についてあれこれ聞いたが、これと言って特別な話は聞くことができなかった。ラシアールの娘たちが言っていたとおり、ククリの影は全く感じられないそうだ。
油断は大敵というが、ロズウェルも彼らは鉱山にはもう用がないだろうと考えていた。
狙いはきっと帝都ソフィニア、そして皇帝ユリアーナだ。
「鉱山内部は、今案内できる人間はいませんよ」
「支部長がいなくても、警備している憲兵長がいるんですよね?」
「まあ、そうですが……」
あとで分かったことだが、その憲兵長というのはただ宛がわれた仕事を熟しているというだけの男で、詳しいことはほとんど知らなかった。
とりあえず大きな扉をくぐって中に入り、高い天井を見上げたところで、さっきのエルフたちがなぜか近づいてきた。
「あの……」
「え?」
先ほどとは違いずいぶんオドオドした態度で、モーリと呼ばれた髪が短い方がロズウェルに話しかける。
「あなたの名前、クライスって言ってました?」
「そうだけど?」
「そしたら、姉さんを守ってくれてた人間?」
「姉さん……? あ、もしかして……」
そう言われれば似てなくもない。
(いや、似ているのは髪型だけか)
ロズウェルに限らず、エルフの顔立ちの違いが見出せる人間が少ないのは現実だ。
「帝都がククリたちの魔物に襲われて、姉さんのいた離宮も危なかったけど、人間がずっと守ってくれたって、ブルー……将軍がおばさんに言って、おばさんとうちの母さんは仲が良いから、それで私が知ったんだけど。あ、おばさんって将軍のお母さんのことだからね。ブルーはそんなにベラベラ秘密を喋るわけじゃないから」
姻戚関係と交友関係と言い訳を一気に説明するという暴挙に出たエルフに、ロズウェルは目を白黒させつつも、大体の状況は理解した。
「まあ、男としては当然といえば当然ですよ」
エルフを守っていた大半はあの看護婦だったが、それは敢えて口にはしなかった。
「ありがとうございます。それにしても見かけによらず力があるのね。姉さんは重いってほどじゃないけど、抱えて魔物から逃げるのは大変だったでしょ?」
「ええと……まあ、こう見えて人知れず鍛えていて……」
話がちゃんと伝わっていないらしい。けれどこれ以上喋らせるといずれバレる。そう直感し、ロズウェルは急いで話を変えた。
「それにしても話が伝わるのがずいぶん早いね。襲撃されたのは三日前なのに」
「それは速達便を……」
「速達便は金一枚するよね。まさかギルドのラシアールが公私混同してるって話?」
「ちがっ!! ええとね、時々物資が帝都からここに届けられるでしょ? だってここは食べ物すら手に入らないから。たまたま昨日それが届いて、その中にオーブを……」
「ちょっと、モーリ!」
横にいた長髪の娘が怖い顔をして友人を突っついた。だが時既に遅し。言いかけた言葉はもう引っ込めることは、もう叶わない。
「オーブって、まさか伝言オーブのこと?」
「ええと……それは……」
「伝言オーブ用の水晶は速達便よりさらに高価だよね? しかもその魔法が使えるのはシーマ族かククリ族だけだと聞いたことがある」
「違うの、違うの。そうじゃなくて」
勝ち気そうだった娘たちは一瞬にして半べそになり、ただのか弱い少女と化したのだった。




