第206話 夢寐(むび)にも忘れず
やつれた男が暮らす屋敷。ただそれだけの感想を抱いて、父親だった人間の前に立つ。家に帰ってきたという実感はまるでなかった。
「座らないのか?」
「このままで結構です」
小さなテーブルを挟んで向かい合わせに座るその男は、見据えるような視線でこちらを見上げている。俺は反対側の椅子の背に手を掛けたまま、それを冷たく見下ろしていた。
「そうか。悪いが私は座らせてもらう。最近腰の調子が悪くてね」
視線の厳しさは以前のままだが、深い皺が数ヶ月前よりだいぶ多い。もっともそれを知ったところで感情の変化はまったく起こらなかった。
「なぜ戻ってきた?」
「皇帝ユリアーナが訪れてもよい場所か確認するために」
「それはどういう意味だ?」
「むろん安全かどうかですよ」
「馬鹿なことを申すな。我が国が皇帝になにかするとでも言うつもりか?」
以前は偉そうに聞こえた声も、ただの空威張りのような気がして鼻白む。同時に辛辣な言葉が次々と脳裏に浮かんだが、結局は必要最低限を伝えればいいという理性が働いた。
「結論は皇帝がお出しになる」
「皇帝ではなくお前だろう?」
「さあて、それはどうですかね」
「まさか祖国を貶めるようなことを言うつもりではないだろうな?」
セシャールが祖国だったのは遙か遠い昔。
今、帰る場所、いや帰るモノは一人しかいない。
「事実を伝えるだけです」
「事実とは?」
「今のところ、長らく使われていなかった監視塔に、兵士が配備されるようになったことぐらいですね」
「北方面がなにやら騒がしくなってきたので、その警戒だ」
「そうですか」
人間だった頃、俺はこの男を父親と認めていただろうか。
気質も髪の色も顔立ちもまるで違う相手は、俺の中で父親だっただろうか。
むろん真面目になど考えたわけではない。父の後方で、幼き日に死に別れた母親が額の中から微笑んでいるから、ほんの少し過去が蘇っただけだ。
それからしばらく、男はなにも言わずに俺を見つめていた。薄茶の瞳からその心を読み取ることは今も昔も難しい。上がった眉尻の動きでそれを推し量るのが常だった。
やがて男はそれまで以上に沈んだ声で思わぬことを尋ねてきた。
「ヴォルフェルト、お前はセシャールを出てから何年が経つ?」
「もうすぐ九年ですね」
「そうか。ならばその頃より少し事情が変わっているかもしれないな」
「なにがです?」
「知っての通りセシャール国王には、三男三女のお子様がいる。次期国王である皇太子は今年で三十二歳。その下の第二王子は二十五歳、皇帝の戴冠式直後に結婚式が予定されている。そして第三王子はもうすぐ十八歳になられる」
説明されなくても、それらの情報は帝国にも入ってきている。事情が変わったとすれば、第二王子があのリカルドの妹と結婚するぐらいだろう。
「それで?」
「セシャール国王は帝国との共存を望まれている。なにしろフェンロンの脅威は日ごとに増し、周辺二カ国をすでに滅亡させ、次はウーデン国が狙われているようだ。ウーデンは小国ながら近年金鉱山が発見されて、その採掘量はこのセシャールに次ぐ。もしウーデンの金をフェンロンが手に入れたら、勢力はさらに強くなるだろうな」
「ウーデンとセシャールの間には少なくても四つ以上の国があるはずですが?」
「しかしどの国の領土も狭い」
「きっとパラディンはそう簡単には落ちないですよ。小国とはいえ、魔法軍は相当強い。帝国と同じくエルフも軍に加わっているらしいですね?」
すると男は小さく首を横に振って、
「パラディンがこの数年、半内戦状態だったことを知らないはずはないな? 去年ようやく落ち着いたようだが、国力は数年前の半分ほどしかないだろう」
「皇帝はセシャールと手を結ぶことにご異存はないでしょう。ただし、セシャールが姑息な真似をしなければ、ですが」
「やはり気づいていたか……」
それから男が話したことは、初耳であるが驚くほどのことでもなかった。
皇太子シュテファンは父親の意志に従って皇帝との協定を良しとしているが、問題は第二王子であるリュートスが帝国崩壊を目論んでいるということだった。
「知っていると思うがリュートス様は第二夫人のお子だ。むろん国王はお子様たちを分け隔てなく愛されておられるが、確執のようなものがあるのだろう」
「それでフォーエンベルガーと繋がろうとしているということですか。第三王子は? あの方も第三夫人の子どもですが?」
「あの方は……まだお若い……。皇帝と同じ十七歳だ。なので政治的ことにはあまり興味を持たれていない。国王のご意思に反対なされているという話は聞かないが」
なにか含みがある言い方ではあるが、要するに問題は第二王子だということだけははっきり分かった。
となると帝国内を混乱させようと、ギルドにちょっかいを出してきたのも第二王子の差し金とも考えられる。そればかりかフォーエンベルガーと結託している可能性すらあった。
「あの男、数ヶ月前に貴方と一緒に来た男は……」
「ラッシュ・アグレムか。あの男は一番厄介な者だな。学者ではあるが身分は準貴族。父親は第二夫人の従兄弟だ」
「なるほど」
つまり帝国と同じように、セシャールにも利権争いが発生しているということだ。
然もあらん。しかしセシャールがどうであろうと、帝国に対する態度がすべて。抵抗するというのなら、この地を焦土と化しても俺は一向に構わなかった。
それに目の前にいる男が果たして真実を話しているか、それすら怪しい。
「信じていないようだな?」
「貴方はセシャール貴族であり、自分は紛いなりにも帝国から爵位をもらっていますから。ですが話を信じるかどうか、それは皇帝がお決めになることです」
「なにもかも皇帝の言うとおりということか」
「そういうことです」
「ずいぶんと女房の尻に敷かれているな」
「はぁ!?」
まさか男の口から、そんな冗談が飛び出てくるとは考えてもおらず、俺は素っ頓狂な声を出してしまった。
「どうやら図星のようだ」
「なにを言って……」
下らない戯れ言をやり過ごしたくて、俺はふと室内を見回した。
去年訪れた時となんら変わりがない応接室である。しかしどことなく暗い雰囲気が漂っている。そういえば腹違いの妹がつい最近産まれたはずで、その匂いみたいなものも一切感じられなかった。
「ローズさんと妹たちは元気ですか?」
探りを入れるように言ってみる。
すると男の眉尻が大きく跳ね上がった。
「今のお前でも気にするのか」
「そりゃあ……」
「彼女と子供らは実家に帰した。グラハンス家の跡継ぎを産まないようでは、ここにいてもしかたがあるまい?」
「は!? なにを言ってんだ、あんた!?」
八年前の感情がわずかに噴き出してきた。
息子には威圧的で軍隊的な教育をしてきたくせに、自分は息子とほとんど歳が変わらない娘を娶ったのだ。それまではどんな命令にも従ってきた息子が、父親がただのスケベ暴君だと知った時、強い反抗心を抱くのは致し方がなかった。
だがそれでも義母がとても穏やかで、妹もとても可愛いと思ったからこそ、八年の時を経たのち認めようと思ったのだ。それなのに、跡継ぎという下らない理由で娘たち共々あっさり捨てる最低な男だと、ふたたび知ることになってしまった。
「最低だな……」
さすがに感情にまかせて怒鳴り散らすほどには若くはないので、そう呟いてそっぽを向く。向いた方には丘が見える窓があった。
「あんた、俺を売ったのか!?」
「なんのことだ?」
「あれだよ」
指の先には、ちょうど丘陵地から降りてくる者たちの姿があった。
十人ほどの騎馬兵、その倍はいる歩兵。全員が鎧を着け、この屋敷に真っ直ぐ向かってくる様子を見れば、そう思わざるを得なかった。
「あれは第二王子の私兵だ」
「それがどうした。自分が言ったことが正しいとでも言うのかよ?」
すっかりあの頃の自分に戻って、言葉遣いもそれに倣って荒くなった。
「お前は隣の大広間にいなさい」
「隠れていたって……」
「この屋敷にはまだ従者が多少残っている。領民にも心配をさせるわけにもいかないから、騒ぎを起こしたくないのだよ。彼らが到着した頃合いを見計らい、バルコニーで変化して飛び立って、そのまま帝国に帰りなさい」
素直にそんな言葉に従えるほどには、親子関係は蓄積されていない。嫌だという意思表示に首を横に振ると、男は珍しくフッと破顔した。
「湖を越えていくのなら、向こう岸にある母親の墓石に挨拶はして行きなさい。それから皇帝陛下に私からの伝言として、“大司祭にはぜひ直接お会いして欲しい”と。セシャール国王と会うことよりもそちらの方が重要だ」
「もし戴冠式があるなら、当然会うだろう。あるのならだけど」
「お会いするだけではダメだ。あの方に皇帝がマヌハンヌス神の再来だと信じていただることができれば、この大陸は必ずや皇帝ユリアーナの手中に収められるだろう」
男がなにを言いたいのか俺には分からなかった。本心からそんなことを言っているのかも含めてだ。
「さあ早け。お前の場所はここではなくソフィニア帝国であろう?」
逆らう言葉を探すもなにも見つからず、男を一睨みしたのち、俺は言われるがままに隣にある大広間へ繋がる扉へと歩いて行く。
「ヴォルフェルト、守りたいのなら中途半端なことはするな。非情に徹しろ」
くだらない助言だと一笑に付して、俺は大広間へと身を隠した。
大広間は、この屋敷がグラハンス家所有になってから一度も使われたことがない部屋だ。過ぎ去りし日にはきっとパーティなども頻繁に催されていたことだろう。しかしそのようなことを開くのはあの男の趣味ではなかった。
無駄に広い部屋。その昔は煌びやかだっただろう燭台もテーブルも椅子も、すべて輝きを失っている。三分の一だけ敷かれている絨毯は色あせているが、むろん買い換えるつもりなど一切ないだろう。大きな窓ガラスの向こうに広いバルコニーがあり、湖畔を見下ろす景色はとても素晴らしい。俺も幼い頃はそこから湖を眺めて、物わかりの悪い父親に苛立った気持ちを落ち着かせていたものだ。
たぶん湖の向こうに母の墓があるからだろう。幼い自分の気持ちなどいちいち覚えてなんていないが……。
(あの男は今でも王宮で煙たがられてるかな?)
頭が固くて融通が利かず、そのせいで人間ならやってしまうちょっとしたズルすらも許せず、見つければ必ず追及しなければ気が済まなかった。
だからこそ多少の疑問は残る。
(あの男は本当に俺を騙そうとしているのか……?)
しばらくすると下の方で小さな騒ぎがあった。きっと兵士たちが到着したのだろう。このタイミングで屋敷の裏手にあるバルコニーから飛び出せば、面倒なことにならずに済む。
(いや、俺は探って来いと言われたんだ)
今のままでは話せることがほとんどない。ユーリィの信頼を裏切るわけにはいかないと、できるだけギリギリまで留まろうと決意した。もっとも気づかれたところで俺に敵うような相手でもなかった。
ややあって、隣の応接室から甲高い男の声が聞こえてきた。
その声を聞くだけでも俺の好きなタイプではないと理解した。しかも言い方が少々威圧的で、あの男も好きなタイプではないだろう。
果たして、どんなやりとりがあるかと俺は扉に貼り付き、聞き耳を立てる。
「今日はいったい何事ですかな?」
「グラハンス子爵が敵と密通しているという情報が入りましたぞ」
「密通? それは聞き捨てならない話ですな」
「ご子息がここに来たことをお隠しになるおつもりか?」
「別に隠す気など。それとも息子が実家に戻ってくるのに、わざわざ王宮に報告する規則でもありますか?」
「しかしその息子は、帝国の下で働いているのですぞ」
少々声を荒げた男にどんな返事をするのか、俺は息を呑んであの男の言葉を待った。
「先ほど貴殿は“敵”を申しましたが、国王陛下が帝国を“敵”であるとお認めになったことはありましたかな?」
「ええい、言い訳はよろしい! 今すぐ屋敷中を捜索させてもらう。それから子爵にも王宮に来ていただこう」
これはマズい。
俺が出ていって、セシャールが帝国を“敵”と断言したと皇帝に報告すると脅すべきか。もしくは目の前で変化して兵士どもを追い返すか。それとも……。
“守りたいのなら中途半端なことはするな。非情に徹しろ”
その言葉が脳裏に蘇る。
俺が守りたいのは、ただ一人。
ここで無駄な騒ぎを起こして、彼に余計な仕事を増やすわけにはいかなかった。
(非情に徹しろと言うなら、そうさせてもらおう)
足音を忍ばせてそこから離れると、バルコニーに通じる両開き扉から外に出た。
夕方に近づいたのか、頬を撫でる風が冷たい。湖畔には気が早い渡り鳥たちが、南に向かう旅の途中で羽を休めていた。
周囲の様子を窺って、なるべく大人しく変化をして空へと一直線。
もう二度と来ることなどないと振り返れば、大広間にてあの男と、数人の男達が窓からこちらを覗いていた。
指揮官らしき一人がこちらを指さし、なにか叫んでいる。他の兵士たちはどうしたらいいか分からないといった表情を浮かべていた。
その中で、あの男だけが口元にはわずかな微笑みが浮かんでいるように見える。まるでなにもかも悟っているかのように。
父は、人ではなくなった息子を見て、一体なにを考えているのだろうか?
それを深く考える余裕もなく、俺はひとっ飛びに湖畔を越え、反対側にある小さな霊廟の上空で二度ほど旋回した。
それだけでいい。この姿を母親に見せるのはさすがに忍びなかった。
その後、帝都に向かって飛び続けた。もう身を隠す必要もない。早く会いたいと、その気持ちだけを胸に東へと。
日が落ちてから随分経って、明かりが消えかけた帝都上空まで到着し、俺の小旅行は終わりを告げた。翌日、俺の話を聞いてユーリィは予想外の企みをしたらしいのだが、それはまた後日知ることになる。
ひとまずは、無事に帰ってきたことを報告しよう。
巡回兵の足音しかしない静まりかえる宮殿内を忍び歩き、皇帝の私室へと無言で入る。俺だけが許された特権だ。室内は薄暗く、ベッドには小さな丘ができていた。
「もう寝たのか……」
ベッドの縁に座って、柔らかな髪を撫でる。久しぶりに見る寝顔があまりに愛らしく、堪らずその頬にキスをしてしまった。
「ん……」
身動ぎをした少年はわずかに瞳を開ける。
「悪い、起こしてしまったか……」
「ん……」
薄い反応に具合でも悪いのかと少し心配になって、その顔を覗き見る。
薄明かりでも分かるほど、透き通るほど白く滑らかな肌が眩く感じられた。
「どうした?」
「夢かと……思ったんだ……」
「夢じゃない」
柔らかな頬を優しく撫でる。その俺の手首を少年はスッと掴み、美しく微笑んだ。
「お前が戻ってきた時はいつも、生まれてきて良かったって思うよ」
その言葉にほだされて、唇を塞ぐ。
頬よりも柔らかな感触は、身も心も溶けてしまうほどに愛しくて、何事にも替えられない至上の喜びだった。
「ヴォルフ、お帰り」
唇を離した時、少年はそう言ってもう一度微笑む。
むろん彼の意識がなくなるまで、甘い夜を過ごしたことは言うまでもない。




