第205話 <故郷>潜入
セシャールへと旅立ったのは、皇帝からの命令を受けた翌日の夜。
遠巻きに見守る兵士たちを睥睨して、宮殿の中庭にて人から魔物へ。駆け上がった空には、丸い寒月が浮かんでいた。
目指すは北西。だがその前に宮殿の建物に接近して咆哮を一つ。しかし威嚇のためでない。小さな明かりが灯された三階の窓から、こちらを見上げている愛しき者に、しばしの別れを告げるためだ。
十数分前__
「無茶はするなよ」
ぶっきらぼうに言ったその表情には憂いに満ちていて。たとえ何度も確かめ合っても、その心を見るのは心地よい。だからその喜びを込めて、別れの挨拶を滑らかな頬に落とせば、少年は口をとがらせ俺をなじった。
「やめろって。普段やらないことをすると死界に入るって知らないのか?」
「迷信だろ。それに――」
確かに別れ際の口づけは今までしたことがないが、いつもしたいとは思っていた。そのことを俺が告げると、彼は少しためらったのち背伸びをして、俺の首へと腕を回した。
可愛らしいキスはほんの一瞬だけ。すぐに離れて、首まで真っ赤にしながら恥ずかしげに視線を逸らす。
「これで……僕も死界に入った……」
そんなことを言われて抱きしめないわけがない。
もちろん顎に頭突きをされ逃げられたのは言うまでもないが。
帝都から北に真っ直ぐ。綿と麻の畑が交互にある大地を越えれば、東西に広がるシャルファイドの森が見えてくる。その森を越えると、雪が所々ガサリナの大地を白く染めていた。
森を隔てただけでまるで違う世界だ。それを俯瞰している自分は、なんとも不思議な存在になってしまったものだと改めて自覚した。
やがて、見えてきたのはガサリナ山脈。そびえ立つその姿は“ソフィニアの壁”とも呼ばれ、大陸の北側から帝国を守ってくれる巨大な城壁だ。その主峰は天を貫くほどに高く、大地からでは天辺を望むことも難しい。
だが人であらざるモノならば、その山すら一飛びで越えられる。そう、人であらざるモノならば……。
そんなモノが<故郷>に戻っているのだ。
いや、果たして故郷と呼ぶべきなのか?
俺が生まれた場所は、あの灼熱の大地がある腐った異界ではないか?
生まれた疑問の答えを見いだせぬまま、漂う雲より遥か上空にある峰を越え、反対側の稜線に沿って西へと向かう。眼下には麦の畑と、凍てついた湖がいくつか。もう<故郷>には入っているようだ。
セシャールは大陸で一番寒い国だと言われている。南東にある高い山脈が太陽と温かい空気を遮断して、海岸線に沿ってそびえる北側の山脈が寒い風を導いてくるのだ。
幼き頃は、一年三分の一が雪とともにあった。雪合戦で村の子供らと遊んでは、父にバレて叱られて、母にはしもやけの薬を塗ってもらったものだ。
以前は懐かしかったそんな思い出も、今はどこか遠くに感じられる。群生するミフィアの白い花を見た時も、故郷に戻ってきたという実感は湧かなかった。
そんな物思いに耽りつつ、針葉樹の森の中で人型へと戻る。あとは闇に紛れて行けば、セシャールには簡単に入れるだろう。そう思っていた。
ところが、しばらく歩くとやがて木々の間から、曙の光に染まった大きな川が見えてきた。
(しまった……川を忘れてた……)
目の前に流れるシルフィス川は、ガサリナ山脈にて湧き出た水がいくつかの支流を作り、それが集まって、西の港へと流れている。王都ガウボルンはこの川が大きく蛇行した部分にあった。
王国の南側は街が広がり、その手前にはフォーンベルガー領があるから、敢えて北側から来てみたのだが、川のことはすっかり忘れていた。
このまま人の姿では川を泳ぐわけにもいかない。かと言って王都近くの二つの橋のどちらも検問が行われていて、どこの誰で何しに来たのかの追求は免れなかった。
“絶対に見つからないようにセシャールに入れ”
皇帝命令にはむろん応えるつもりだ。対岸にはいくつかの屋根が見えていても、楽観視できる材料はいくつもあった。
(まだ完全には明けてはいない。あの辺は家も少なかったはずだ。高く飛ばなければ、たぶん気づかれることもないさ)
ならば早く渡ってしまおうと、木立の陰で魔物に戻った。この変化する感覚を言葉で説明するのは難しい。以前ユーリィに服はどうしているのか尋ねられたことがあるが、服も含めて小さな粒にして、魔物の中へと取り込むのだと言ってもきっと理解してもらえなかっただろう。
森から出て急な斜面を下り、朝霧漂う川辺に降り立つ。川のこちら側はほとんど整備がされていないので、葦が繁った地面は少しぬかるんでいた。
水際で砂利混じりの地面を蹴って、水面すれすれを滑空する。宙を移動するために魔力を使うから、どうしても青いオーラが放出してしまうが、低く飛べば問題はないはずだった。
しかし__
帝都の大通りの倍ほども幅がある川を四分の三ほど渡った時だ。右前脚を伸ばした先に何かが飛んできて、流れる水を貫いた。咄嗟に回避して左へと避ける。矢だと判った瞬間さらにもう一本、鼻先を掠めて飛んでいった。
いったいどこからだと視線を走らせれば、左前方にある監視塔に兵士が一人、弓を構えてこちらを見ていた。
逃げるか殺すか。
むろん後者を選ぶべきだ、魔物ならば。
けれど安定しない己が、皇帝令を優先させた。
王都内となる目前の対岸は、高さもそれなりにある石積みの堤防だ。王都への洪水を避けるためだが、水面ギリギリから上がるには多少の減速を余儀なくされる。そこを狙ってふたたび飛んできた矢を避け、浮上せずに堤防の壁に沿って右に曲がった。
矢は飛んでこないところをみると、射線はしっかり切れている。それを確認したのちしばらく飛んで、堤防下で半分浸かっている大岩へと着地した。
この岩があることを思い出したのは、二本目の矢が飛んできた数秒後。ここは王都側からシルフィス川へ降りられる唯一の場所で、十代の頃は釣り竿を持ってよく来たものだ。もっとも俺以外もこの穴場を知っている者が多くいて、岩の後ろの堤防は登りやすいように所々削られて凹んでいた。
岩の上で魂の一部を解放すれば、途端、青白い光を放った四つ脚が溶けていき、意識だけが世界に残される。
漂うように、散らばった青い光を俯瞰して。
やがて人型に象られたその器に吸い込まれた時、二本の足が岩を踏みしめていた。
意識が器へと戻り、変化した体の感覚に慣れるまでの数秒かかる。それ待って、急いで岩を歩いて堤防へととりついた。凹んだ場所に手足を引っかけ、身長の二倍ほどある堤防のてっぺんまでよじ登る。監視塔の方を気にしつつ、歩幅一つ分ほどの上部を乗り越えて、反対側へと飛び降りた。
人間としては上出来だ。しかしまだ油断はできなかった。壊れかけたバラックのような家が点在しているここは、セシャールの汚部とも言える場所だ。王都中のゴミが山となってあちこちに積まれ、なんとも言えない悪臭が漂っている。ここの住民はその中からまだ使える物を売り、食べられる物を食べて、日々を探して暮らしていた。
薄汚れた服を纏った子供らが、水くみのためにもう起きている。大小様々なバケツを持つ彼らは、通り過ぎる俺を不思議そうな目で見上げていた。中には物乞いを始める小狡いヤツもいて、ここで暮らす厳しさを感じ取ったが、追われている身でなにかできるわけでもなく。頭を撫でてやり過ごし、バラックとゴミ山の間を縫うようにして極貧街を抜け出した。
(あの監視塔に兵士がいるとは思わなかったな……)
やがてバラックが消えて、二階建て三階建てが増えてくる。建物と建物の間も狭くなってきた。漆喰で塗られた白い建物ばかりのソフィニアと違って、煉瓦や石造りの外壁が並んだ景色は統一感がないが、賑やかに感じられた。建物の向こうには王城の高い塔が覗いている。
中心部に近づいてきている。そう思った時ふと思い出した。あの監視塔は川沿いにいくつもあるか、ずいぶん長いこと放置されていた。話によれば北西のパラディス皇国との戦争中に建てられたらしいが、そうだとすればすでに百五十年前だ。
それなのに今になって使われるようになったのは、なにかの有事に備えなければならないと考えてのことだろう。
(フェンロンが動き出した危機感ならいいが、もしソフィニアス帝国皇帝の戴冠式が理由なら……)
有り得なくはない。だから俺はそれを確認しろとこの地に派遣されたのだ。決してへと<故郷>へ戻るためではない。
それを胸に刻んで夜が明けた王都を忍び歩く。しかし周囲にいる者たちが厚い服に身を包んでいるせいで、目立っているような気がしていた。
(さすがに薄着だったか……)
着ている黒い服はセシャール軍の旧制服に似てるが、唯一違う点は布の厚さだ。セシャール織りと呼ばれるそれは、他の地域よりも太い糸で織られていて防寒性が高い。一年の三分の二がソフィニアの真冬以上の寒さだから、セシャール織りの服ではないとかなり厳しかった。
とは言っても、融合してから寒さ熱さは感じなくなっている。自分が人ではないものになってしまったと思える原因の一つだった。
王都内は思ったより静かだ。ソフィニアのように徘徊する兵士たちの姿もない。しかし王城に近づくにつれ軍服を着ている人数が増えてきた。それも以前より明らかに多い。これはマズいとなるべく城には近づかないようにして先を急いだ。
通りに人はあまりいない。真冬の早朝だからなのか、以前もこの程度だったのか。そんなことを考えながら早足で歩いて行くと、通りの向こうに鉄格子に囲まれた場所が見えてきた。そこは巨大な大聖堂と司祭や神父たちの住居区がある、マヌハンヌス教のためだけの敷地。つまり大聖堂自治領だ。正面の大きな鉄門が開かれるのは、今回のような戴冠式などがある場合など数年に一度のみ。セシャール人ですら、一握りの者しか中へと入ったことがなかった。
そんな大聖堂前には赤い帽子を被った大聖堂師団の近衛兵が、交代で警備を行っている。ところがそれに加えて今朝は、黒い軍服を着た衛兵もうろつき回っているのが見えた。
(どうやら警戒態勢にあることは間違いなさそうだ)
なんとか情報収集は継続したい。しかし川で変化する様子を兵士に見られたかもしれない。ソフィニアス帝国皇帝が狼魔を操っていることは既に知れ渡っているだろうから、もし見つかってしまえば大きな問題に発展してしまうだろう。ユーリィが警告したのはそういう意味だったのだと、さすがの俺でも理解していた。
ところが自治領の方に気を取られすぎて、道の向こうの憲兵がこちらを睨んでいるのに気づかなかった。俺はどうやら不審者と認識されてその視線の照準に入ってしまったらしい。近衛兵や衛兵と違い、憲兵は街を守る警ら係だ。これはヤバいとなるべく見ないようにして歩き始める。
「おい! こら! そこの男!」
当然そうなる。
声を無視して通り過ぎ、追いかけてくる足音を聞いて路地裏へと退避した。
「待て! 逃げるな!」
「そう言われて逃げないヤツがいるか」
十九で家を飛び出して、半年以上暮らしていた街だ。特にこの辺りは奥の奥まで把握している。家と家に挟まれた細い路地を何度も曲がり、最後は物陰に隠れてどうにかやり過ごす。
(どうやら無理そうだ……)
これ以上の王都潜入は無理だと諦めざるを得なかった。
王都ガウボルンは、ガサリナ山脈から続く丘陵の途中にある。街はその丘陵に放射線状に広がって、街としては帝都の倍以上の大きさがある。しかし郊外に行けば行くほど建物は消えて、代わりに麦畑があちこちに点在していく。
セシャールの主要産業は小麦と金だ。寒冷地帯のため、それ以外の作物はあまり望めなかった。だから国土の三分の一は麦畑に覆われ、グラハンス領ももちろん麦畑しかない農村地だ。王都から南南西に下って半日ほど。領民は百人程度しか居ないから、貴族とは名ばかりの貧乏領主だ。
秋蒔きの麦が芽吹き始めた畑の横を歩きながら、俺は幼い日々に想いを馳せた。その中心に居るのは、微笑みを絶やさない女性である。それは紛れもなく早世した実母だ。今までは顔すら思い出せなかったというのになんとも不思議な気持ちになった。それもこれも魔物になったことが原因だろうか。
そうして寒さが少し和らぐ昼近く、俺はなだらかな丘の上に立っていた。
見下ろすは小さな湖と、その横にある小さな屋敷。あの世界がすべてだった頃に懐かしさは感じない。たぶんこの身はもう人ではなくなっているからだろう。
だからどんな非道なことをしても、必ず皇帝の期待には添わなければならないと心に誓っていた。




