第204話 寒光
窓の外には収穫が終わったばかりの綿の木が並ぶ。収穫祭があったらしく、白い花が摘まれた茶色の萼畑は火を燃やした痕跡が残されていた。
冬の太陽は薄らとした光をそんな大地に注いでいる。空はソフィニアらしい水色で、風は穏やかだ。
これがただの小旅行なら。
前に座っているのが女性なら。
しかし今ロズウェルの視界にあるのは、深紅の服を着た男。淡い金色の長髪を垂らした彼は、無に近い表情で窓の外を眺めている。なにを考えているのかなど興味すらない。反面、長い沈黙はどうにも落ち着かず、それに耐えかねたロズウェルは、遂に独り言を発していた。
「いまのところ順調だな」
だが斜向かいの相手は全く反応を示さない。別に反応が欲しいわけではなかったけれど、独り言が宙に浮いてしまったようで、それを回収する為にさらなる言葉を重ねていった。
「さて、次の馬車屋はどこかな?」
どうせ聞いてないんだと開き直り、胸元から折りたたんである紙を数枚取り出す。一枚目は古ぼけた羊皮紙。描かれているのは帝国の簡略図だ。左右上下に何本か入っている線は街道で、所々にある×印は馬車屋の所在地である。これは御者などが所持する地図で、馬交換をする必要がある時に活用されていた。
帝都から水晶鉱山までは、馬車を丸一日走らせた距離にある。もちろん丸一日馬を走らせれば潰れるので、途中で休ませるかもしくは交換する必要があった。皇帝にはそのどちらでも構わないと言われたが、ロズウェルは後者を選ぶことにした。
「長距離を行く時には、馬交換はほんと便利な制度だ」
ギルド制度での一番の功績は、流通の開発だとロズウェルは思っていた。
ソフィニアギルド(現ソフィニア帝国)は大陸の三分の一を占めているため、人や物の行き来にはなにかと時間がかかった。そこで革命後、ギルドは手始めに街道を整備し、その道沿いと大きな町に馬車屋を作った。
馬車屋は数十頭の馬と、十数台の馬車を所持している。なので輸送や移動を急ぎたい場合は道すがらの馬車屋に立ち寄って、疲れていない馬と交換できた。
この仕組みにより輸送業はギルドが独占し、貴族達も収穫した産物輸送などにギルドを頼らざるを得なくなった。
「夕方前にはこの町に着きそう。夕食もここで食べられるかな?」
普段は独り言が癖というわけでもないのに、ついつい沈黙を埋める発声をし続けていると、果たして色違いの双眸がロズウェルを眺めていた。
「それは私に尋ねているのか?」
この場合そう思われてもしかたがないと分かりつつ、ロズウェルは大きく首を横に振った。
「ただの独り言です」
「独り言というのは一度もしたことがないが、なにか意味があるのか?」
「意味はないことでも、したくなる時ってあるでしょ」
「確かにそういう時はあるな」
小さく上がったアールステットの口角を見て、ロズウェルは余計なことを言ったと後悔した。
「ちょっ、また変なことを考えてるんじゃないでしょうね、子爵」
「変なこと?」
とぼけやがって!
と叫びたいのを歯ぎしりで我慢して、「もういいです」と吐き捨てた。
その代わりに、先ほどの地図と重ねた紙を上に持ってきて視線を落とす。今度は麻紙なのでインクがかなり滲んでいた。
「これも一応覚えておかないと……」
「それは?」
覗き込もうとしている気配を感じ、慌てて表を相手に向けて紙を立てた。
「これです」
「植物の根か?」
「鉱山内の地図です! と言っても羊皮紙で描かれている原版は、皇帝とジョルバンニ議長の許可がないと見ることも適いませんが。今回は皇帝の許可を得て見ることは出来ましたが、持ち出し禁止ですのでこうして書き写してきたんです」
重要書類は保存が利かない麻紙に写すということも決められている。万が一の場合に備えてだった。特に水晶鉱山は帝国の未来を左右しかねない場所なので、極秘情報が多かった。
「斬新な地図だ」
「ちょ、ちょっと略しすぎましたが、問題はないですよ」
「その根の部分が坑道か?」
「ええ。ククリが百年ほど無計画に掘ってましたからね。ここがメインの入口のようです。そこから三方向に分かれて、さらにそれぞれいくつかに分かれているようです」
木の根と揶揄された簡略図の一番上を指して、相手の顔を窺い見る。相変わらず表情はないが、青緑色の左目に鋭い光が宿った気がした。
「今はこの一番右を採掘しているそうですよ」
「ククリ族が?」
「いえ、ククリの老人が一人協力しているようですが、作業に当たっているのは人間です。ソフィニアで元ハンターだった連中を十二人雇っっています」
「警備は?」
「内部はギルドが、外部は軍部が担当です。もっとも砂漠地帯ですから外敵が近づくのも容易はありませんけどね。ま、僕は砂漠に行ったことはありませんから、ただの想像ですけど」
あの辺りが砂漠になったのは、大昔に使われた魔法が原因だとなにかの本に書いてあったのをロズウェルは読んだことがあった。ただの伝説かもしれないが、砂漠になる理由がほとんどないだけに有り得るかもしれない。
「たった十二人では、採石も大したことがなさそうだ」
「皇帝陛下は当分、大規模な採掘はしないとのお考えのようですよ。供給を抑えて、その価値を高めようと思っていらっしゃるんでしょう。大陸の水晶はほとんどがモルパス砂漠産ですから。ご存知と思いますが、水晶は魔力を封じ込めるのに使われますし、帝国が安定するまでは他国の軍事力を強くするのも問題だとお考えなのかも」
「どういう意味だ?」
「つまり戦争に使われる可能性です。もちろん皇帝陛下から聞いたわけでもなく、ボクの想像ですけどね。それにセシャールとの金交易の件で……」
そこまで語ってから、ロズウェルは“しまった”と口を閉ざした。
ベラベラと喋っているその相手は、貴族院の者ではないか。自分はアルカレスのように貴族達と連帯するつもりは一切ないのだ。
「君はずいぶんと頭が良い」
「今更なにを。この国でボクより優秀なのは皇帝陛下だけですから」
「皇帝は小さな少女のようにしか見えない」
「あっ、それは禁句ですからね。見た目のことを言われると、とても不機嫌になられますから。もちろん邪な目で見るのも禁止です。あの方にはもう……」
「もう?」
またまた余計なことを喋るところだった。
絶対に言うものかと奥歯を噛みしめ、ロズウェルは窓の外へと視線を移した。
どうもアールステットはドルテ以上にペースを崩されてしまう。それとも自分は前からこんな人格だったかと鑑みて、いやいや違うと心で首を振った。
いつだって冷静沈着、秀麗眉目、頭脳明晰を誇ってきたボクじゃないか。それを壊すのはドルテ独りだけで、他の者はボクに羨望の眼差しを向けていたではないか。
(とにかく、またあんなことさせないように気を張ってないと)
今のところその予兆はなかったが、いつ何時、彼の心に邪な願望が芽生えるとも分からなかった。
それからしばらくは何ごともなく、馬車は街道を東へと走り続けた。夕方に先ほど確認した町へ辿り着くだろう。そこで食事をし、馬車と御者を借り換えれば、朝までには砂漠に到着するはずだ。
そんなふうに考えていたロズウェルだったが、一つ想定外の出来事が起こった。
周辺は綿畑がなくなり、少し背が高い農作物が植えられている場所へとさしかかった頃だ。枝からぶら下がっている物を見て、どうやら豆類らしいと理解した。しかし植物には詳しくないのでそれ以上はロズウェルも分からない。きっと白豆か青豆のどちらかだと想像し、遠くの方で数人が収穫作業を行っている様子をなんとなく眺めていた。
すると、前触れもなく馬車が急停止した。その反動で後部座席にいたロズウェルの体が倒れかかる。それを必死に耐え、アールステットに抱きつかずには済んだものの、深紅の袖に包まれた左腕にはしっかり支えられていた。
「し、失礼」
逃れるようにしてアールステットから離れる。いったいだれがこんなお約束の展開を作ったのかと妙なことを考えイラッとし、ついでに下手くそな御者にも腹を立てた。
「ったく、なんで急に……」
御者に文句で言ってやろうかとロズウェルが扉に手を掛けた瞬間、嫌がらせかと思うほどの絶妙なタイミングで扉が開かれた。
「うわっ!?」
バランスを崩して馬車から転げ落ちそうになるのを、ふたたびアールステットに腕を掴まれ引き戻される。あまりに強く引っ張るものだから、座席と座席の間の空間に尻餅を付いて、アールステットの膝に体が半分寄りかかってしまった。
「いったい何事ですか!?」
怒りを含んだ声を発しつつ、ロズウェルは座席へと尻を戻した。
扉の外から顔を出したのは、黒い髪をした初老の男だ。白髪まじりの黒い口髭は整えられている気配がない。顎髭に至っては、ただ生やしているだけで黒と白がもじゃもじゃと絡みついていた。
まるで野盗のような風体の男だが、これでも軍部の司令官の一人である。名前はバルガン。雑兵だったのを皇帝が司令官に抜擢したという経歴の持ち主だ。
そのせいなのか、彼は軍部司令官にしてはずいぶんと腰が低い。特に貴族であるアールステットには、庶民にありがちな畏怖の念を抱いているようだ。皇帝から命じられたこの出張も騎馬にて同行をしている。自分は軍人だから馬車には乗れないと言い張っているが、実はアールステットと一緒に居たくないのかもしれない。
「驚かせて申し訳ありません」
「なにかありましたか?」
「前方に気になることがありまして。大したことではないかと思いましたが念のために」
その言葉通りにバルガンが前を指さす。それに釣られてロズウェルは一度腰を下ろした座席から尻を浮かせて、馬車の外を覗き見た。
なにか黒い物がいる。
「魔物!?」
「いや、馬のようだ……」
「うわっ!!」
あまりに近い位置にアールステットの顔があり、その近さに驚いてロズウェルは慌てて体を引く。狭い車内で同じ場所から外を見ればそうなってしまうのは当たり前だ。
しかしロズウェルの驚きなど気にもせず、アールステットはためらいもなく馬車を降りて歩き出した。
「ちょっ!? 待って!」
皇帝の信頼を一心に受けているのだ。追いかけたくはなかったけれど、こんな場所で留まっているわけにはいかない。
そう思って咄嗟に馬車から飛び出し、意外と足が速いアールステットを追いかけた。
生き物は道の真ん中に突っ立ている。アールステットが近づいても逃げる様子はなく、首だけを動かしてこちらを見た。
確かに馬だ。
少し安堵して、それでもやや警戒しつつ歩んでいく。道の左には豆の木が綺麗に並べて植えられていた。
「野生ですか?」
少し離れた場所からロズウェルが声をかける。むろんこの地域に野生馬などいないことを知りつつも。
「馬車馬だな」
大人しい馬の背を撫でながら、アールステットが答えた。
「馬車馬? こんなところになぜ……」
バルガンの声がすぐ後ろで聞こえてくる。一緒に付いてきたようだ。
「使い物にならなくなったからだろう」
「それはどういう……」
疑問の言葉を発して近づいてみれば、返事をもらわずともロズウェルはその答えを知ってしまった。
右前脚が折れていた。痛みの為に持ち上げたその脚の第一関節から下が、ブラブラと揺れている。三本の脚で立っている姿も、ロズウェルへと向けられたすがるような瞳もなんとも痛ましかった。
「無茶をして走らせたんでしょうか?」
「たぶん」
「治りそうです?」
治癒が可能なら、馬車屋に連絡して捕獲してもらおうと考えた。たった一頭でも帝国にとって馬は貴重な財産なのだから。
「治る見込はない。これは粉砕骨折だ」
「そうですか……」
残念だが放置していくしかあるまい。助ける余裕は自分たちにもないのだから。
(あれ? 待てよ……)
先ほどの馬車屋からここまで、それほどの距離はない。交換する前の馬はたっぷり休ませているはずなので、こんな大怪我をするだろうか?
そんな疑問を抱き、馬をまじまじと眺める。黒光りしているほど馬体はよく手入れをされていた。痛みの為かそれとも恐怖の為か、尾を両後肢の間に巻き込んではいるが暴れることもない。調教もよくされているようだ。どこかすがるような視線には哀れみすら感じた。
(馬車屋の馬なのかな……?)
それが気になる。
馬車馬は騎乗用の馬とは違い、厳しい躾などはそれほどしない。手綱や鞭の指示に従って馬車を引っ張れればそれでいいのだ。
この馬はどうなのか気になったが、騎馬など一度もしたことがない。つまり馬と親しくなる機会もなかったので、その巨体が――。
要するに近づきたくなかった。
「やっぱり気になる。そうだ、子爵、お尻に刻印があるか見てもらえます?」
アールステットは無言で、言われたとおりに馬の背後に回って尻を確かめてくれた。よくよく考えれば、金髪の貴公子が馬の眺めるのはシュールな光景だ。
「刻印らしき物はないな」
「そうですか。だったらギルドの馬じゃないのか」
「あ、自分にも見せて下さい」
背後にいたバルガン司令官が、ロズウェルを追い越してアールステットの近くに立つと、折れているらしい右前脚をジッと観察をし始めた。
深紅の装いに金髪、スラッとした体型の若い貴族と、濃紺の軍服に白が混じる黒髪、ずんぐりむっくりな体格の初老バルガンが並ぶと、なんだか好対照だとロズウェルは眺めていた。
「削蹄を見ると、どうも陸軍の馬ではなさそうですが……しかし……」
「貴族所有の馬という可能性は?」
「たぶんそれだと思います」
「やっぱり……」
途中からなんとなく想像が付いていた。皇帝命令で鉱山調査に乗り出した自分たちの先回りをして、なにかを隠そうと、もしくは口封じをしようとしているのかもしれない。
そう考えて、先ほどまでののんびりとした気持ちがロズウェルの中で一気に冷えていった。
「大丈夫かな……」
「なにが?」
「鉱山でのんびり出来ないなと」
「ああ、そういう意味か」
アールステットはすぐに理解したようだが、バルガンはきょとんとした目で二人を見比べている。彼に説明すべきか迷っていると、アールステットがおもむろに腰の辺りから短剣を取り出した。
金細工を施された鞘を抜く。すると、武器屋のロズウェルも見たことがない細くて鋭そうな刃が現れた。
(あれはもしかして暗殺用の剣……?)
いったいなぜ短剣を取り出したのか考えもせず、よく見ようと一歩近づいた時だった。
逆手に持った短剣を一度胸の前で構えると、躊躇うことなく馬の胸の辺りへと突き刺したのだ。
馬は小さないななきをあげたが、それも一度だけ。横倒しになる馬を避けてバルガンが飛び退き、アールステットは数歩下がって噴き出す血を上手に躱した。
心臓を一撃で突かれての即死だ。
あまりの素早さにロズウェルは言葉すら見つからず、ただ息を呑む。
例の無表情で剣を鞘へと収めるアールステットに、今までにない恐怖を抱かずにはいられなかった。
「いきなり刺殺とは……ずいぶんとご大胆な……」
バルガンも驚いているようだ。
「この馬はもう生きてはいけない身だ。苦しまずに逝かせるしかないだろう。それに豆の畑もそばにある。死ぬまでには食い荒らす可能性もあるからな」
色違いの双眸が寒々しい光を放つ。
そんな貴公子を、西空にある冬の太陽が見下ろしていた。




